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第一五五話 日田最大の古墳は筑紫君

(葵祭2019年5月 赤衣に観光客注目)
祭赤衣

(斎王代がやってきた)
祭斎宮代


今話の舞台は、大分県(豊後)日田市。

日田最大の前方後円墳の被葬者は、筑紫君。
この結論に、確信を得たので、書くことに
した。

あれこれ文献を言挙げするよりも、次図を
見ていただこう。

155話日田全体図

<筑紫君の古墳を指す、朝日天神山古墳群>
日田の前方後円墳は、4基。
このうち、朝日天神山古墳2号墳(旧天満
2号墳)の墳長63mを除けば、他は30m
級にとどまる。

朝日天神山古墳2号墳の築造時期は、6C
第2四半期、1号墳は6C第3四半期頃と、
調査報告書にある。
集成編年では9・10期にあたる。
(「朝日天神山古墳群」2005年日田市
教育委員会)

南東部にある、法恩寺山古墳群(円墳)は、
日下部氏族の奥津城と、よく書かれている
が、6C初~6C後半以降なので、同時期に
築かれたことになる。

朝日天神山古墳2号墳の方位は、123W
で、大牟田市黒崎観世音塚古墳を指す。
1号墳の方位は110Wで、八女市岩戸山
古墳を指す。
黒崎観世音塚古墳は、第146話(201
8年8月)で、初代筑紫国造古墳と書いた。

東部にある城山古墳の方位は、朝日天神山
古墳群を経て、鳥栖古墳群(筑紫火君)に
至る。

<日田豪族居館を指す、宇佐市赤塚古墳等>
朝日天神山古墳群の近くに、弥生時代の
小迫辻原遺跡がある。
同遺跡からは、3C末~4C初(編年1期)
の豪族居館跡3ヵ所が発見されている。

この居館跡を、遠方の2基の前方後円墳
の方位線が通過している。

1本は、居館と同時期の1期、九州最古の
前方後円墳、宇佐市赤塚古墳から。
宇佐首長が眠る高森古墳群の中で、南西を
向くのは、この古墳だけ。
日田の居館の主が、宇佐氏族につながる首
長であったと推定できる。

豊後風土記に、神が人となり現れたとある
久津媛が、卑弥呼一族であった証拠だろう。

もう一本の線は、山鹿市亀塚古墳から。
弥生時代、菊地川中流域最大の集落遺跡、
方保田(かとうだ)東原遺跡に立地する。

弥生時代を引きずった、この古墳の方位は、
27W。
八女津媛神社の真上を通過し、日田の豪族
居館跡に至る。

邪馬台国時代の、女性首長たちのつながりが、
浮かび上がってきた。

次図は、朝日天神山古墳群を囲む人たちの図。

155話①図

朝日天神山古墳を囲むのは、石井氏(筑紫
君氏族)、蒲池氏、竹島氏など。
参考に見ていただくのは、八女市童男山古
墳周辺図。

155話八女童男山古墳

筑紫君の古墳を囲むのは、日田朝日天神山
古墳群を囲む人たちと、同じだった。
八女市童男山古墳群の周りには、桜山氏が
おられる。
次図は、日田市石井地区の図。

155話②図

装飾古墳のガランドヤ古墳の周りに、多数
の桜山氏。
ここも、筑紫君の領地であった可能性が高い。

<小迫辻原遺跡を遠巻きにする宇佐氏族>
もう一度、①図を見てほしい。
小迫辻原遺跡を遠巻きにして、池永氏や
安心院氏(宇佐氏族)。
さらに、田島氏(宗像氏族)もおられる。
②図でも、安心院氏がおられる。

日田郡司となった日下部氏は、それまでの
首長だった、久津媛や国造鳥羽宿祢を祀っ
たと伝わる。
その痕跡を、これらの図から読めるように
思うが、どうだろうか。

<日田古代史はどう書き換えられるか>
日田最大の古墳が、筑紫君一族とした場合、
日田の古代史は、どう書き換えられるだろ
うか。

久津媛。
葛城国造(三島剣根命)同祖、日田国造鳥
羽宿祢。
天平豊後国正税帳に見る、日田郡大領日下
部連、少領・主帳日下部君。
平安時代の大蔵氏(日田氏)擬大領。

ブログ筆者は、日田の謎解きは、国造鳥羽
宿祢の後がどうなったか、日下部連君が何
氏族かにかかっていると思う。
(次話につづく)
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総目次(第一話~第一五四話)

<目黒川の桜を見てきた>
目黒川 (340x255)
<高級スタバができた>
目黒川1 (340x255)

総目次
• 第一五四話 溝咋(みぞくい)神社 (2019/04/04)
• 第一五三話 千栗(ちりく)八幡宮の創建者 (03/03)
• 第一五二話 筑紫火君の古墳 (02/05)
• 第一五一話 淀姫を指す石人山・乗場古墳 (01/11)
• 第一五〇話 久留米・八女古墳群を判定する (12/16)
• 第一四九話 津屋崎古墳群は宗像氏族なのか (11/19)
• 第一四八話 うきは古墳群は何氏族か (10/07)
• 第一四七話 高良玉垂命は東郷高塚古墳の主 (09/05)
• 第一四六話 初代筑紫国造の古墳 (08/12)
• 大阪府北部地震と7月豪雨 (2018/07/15)
• 第一四五話 初代武蔵国造の本拠は大里村か (06/24)
• 第一四四話 氷川三社同格の謎 (05/28)
• 第一四三話 多摩川に誰がいたのか (04/24)
• 第一四二話 継体宮を向く井出二子山古墳 (04/01)
• 第一四一話 上毛野君の古墳(伊勢崎編) (03/11)
• 第一四〇話 上毛野君出現前の古墳たち (02/26)
• 第一三九話 栃木県南部の初期古墳を判定する (01/27)
• 第一三八話 太田の支配者と鈴鏡の謎を解く (12/24)
• 第一三七話 グーグルホームと邪馬台国 (12/12)
• 第一三六話 武蔵国造と上毛野君の本拠地 (10/21)
• 第一三五話 埼玉古墳群の向くところ (09/16)
• 第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編) (09/03)
• 第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた (08/13)
• 第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか (07/19)
• 第一三一話 筑紫君への道 (06/20)
• 第一三〇話 葦分神社探訪記 (06/01)
• 第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏 (04/15)
• 第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2) (03/23)
• 第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1) (02/22)
• 第一二六話 八代の前方後円墳の主たち (01/29)
• 第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者 (01/04)
・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

第一五四話 溝咋(みぞくい)神社

<溝咋神社境内 2019年4月3日撮影>
境内桜

<安威川堤からの神社春望>
宮司宅

日本全国の式内社について、社名、由緒、
所在、祭神等をまとめた、「式内社調査
報告」(皇學館大學出版部)という書物
があります。

筆者も、ブログに書く際に、確認を入れる
良書ですが、溝咋神社の記述には、残念な
ことに、間違いがあります。

次図は、同書第五巻(京・畿内)」19
77年に記載された、溝咋神社位置図と、
所在に関する記事の抜粋。

茨木地図

神社所在

実際の溝咋神社は、阪急茨木市駅東方の
(現)五十鈴町にありますが、同書では、
駅の北東、高槻市との市境付近に〇が
表示されています。

また、記事でも、「東北1キロメートルの
ところにある。南に牟禮(むれ)神社、北
側に当社がある」と、念入りに間違って
います。

〇表示付近にある、別の神社が該当すると、
思い込んだのでしょうか。

ブログ筆者が、このことを取り上げるのは、
溝咋神社が、初期天皇家のルーツに関わる
重要な地だからです。

大物主が、淀川を渡って玉櫛媛命に通い、
生まれた五十鈴媛命を神武天皇が正后とし、
天日方奇日方(あまひかたくしひかた)命
は、大物主家として初期の天皇家に仕え、
その子孫は、大神神社神主家となりました。

また、筆者が名を使わせていただいている、
「葛城国造剣根命」のルーツでもあります。

剣根命は、玉櫛媛命の兄、玉櫛彦命の子。
神武后の五十鈴媛命とは、いとこ同士です。
その剣根命は、神武天皇より、葛城国造
に任じられ、北摂三島から大和葛城に入り
ました。

葛城国造家の首長たちの前方後円墳が、
そろって北西(茨木市南部)を向いている
ことが、その証拠だと、第75話「剣根の
古墳が指す山」(2012年11月)に
書きました。

それほどまで由緒のある溝咋神社も、昨年
6月18日発生の大阪府北部地震で、震度
6の直撃を受けました。

灯篭は元に戻せても、摂社は傾き、絵馬殿
等は閉鎖されたままです。
筆者宅も、屋内の板壁が割れ、土壁や漆喰
が落ち、修理に11月までかかりました。
神社社殿の壁も同様でしょう。

現在、写真のとおり、修理の寄付を求める
立看板が、拝殿前に置かれています。

立看板 (255x340)
寄付依頼 (340x329)

茨木東中、茨木高校で青春時代を過ごした
筆者も、わずかな寄付をさせていただきま
した。
このブログを目にされた読者が、一人でも
多く賛同されることを願います。

なお、聞くところでは、代々宮司を専職さ
れてきた三島さんが、一昨年亡くなられ、
神社に隣接するお住まいも、他人にわた
る様子。

神木が、一本でも多く残され、境内整備が
なされることを望みます。

<安威川堤の桜 2019年4月3日撮影>
安威川堤桜

<安威川から生駒山春望>
安威川生駒

第一五三話 千栗(ちりく)八幡宮の創建者

久留米市と、川一つ隔てた丘の上にあり、
筑後平野を見渡す千栗八幡宮。
(北茂安町白壁、現みやき町)

同神社の社殿方位を測ると、正面線は、
N161度E、広川町の石人山古墳を向く。
参拝線は、N19度W、博多湾の西戸崎
(安曇氏本拠)を経て、沖ノ島(宗像大社
沖津宮)にピタリと合う。

筑紫君とかかわりがありそうなこの神社。
ブログ筆者は、創建した人物、氏族を追い
かけた。
次図は、同神社周辺図と囲む人たち。

153話千栗八幡宮最終終終

153話千栗八幡宮囲む人最終

<筆者コメント>
千栗八幡宮周りに、筑紫君又は筑紫火君
とみられる人たちは、見当たらない。

目につくのは、武田氏(海部尾張氏族)。
西部に、園田氏(肥後火君氏族)。
そして、宮原氏(橘姓)も多い。
宮原氏は、火君の本拠、八代郡宮原邑より
起こるとされる。

町内から、弥生時代の銅矛や銅戈が出土
しているが、武田氏(海部尾張氏)が埋納
したと見る。

町内の主要古墳は2基。
前方後円墳の中津隈宝満神社古墳と、円墳
で、三角鏡が出土した東尾大塚古墳。
中津隈の前方後円墳の方位はSで、肥後・
薩摩を向く。

2古墳の築造時期は、遅くとも500年前後。
筑紫君磐井の乱以前に、火君勢力が進出し
ていたようだ。

創建者の情報を得るために、地元自治体の
史誌を調べた。

<北茂安村誌 1961年>
村の歴史奈良時代の項、
「聖武天皇の神亀元年(724年)、壬生春成
が八幡宮創祀の命を受けて帰任し、社を建てた。
聖武天皇第二皇子の国玉王を祭主として
勅願霊場と定められた。
これが三大宮司、一命婦の祖。
第一子は東、第二子は中、第三子は西と
いい、女はみことして奉仕した」

同誌、神社めぐりの項は、
「聖武天皇の神亀元年(724年)、時の養父
郡司壬生春成が創祀。
千栗山で狩りをしたとき、鳩が弓にとまった。
老翁から授けられた栗をまくと、一夜で千株
の栗が生えていた。
この奇瑞を奏上すると、天皇は喜ばれ、命
を受けて社殿を建て祀った」
(筆者注:ここには皇子国玉王の話は無い)

<北茂安町史 2005年>
・創建時期は、神亀元年説の書物が多い。
しかし、社伝は、天平宝字年中説。

・千栗八幡宮創建者とされる壬生春成は、
神社のある三根郡司でなく、隣郡の養父郡
司と推定する。
・奈良時代前期に、隣郡の養父郡司壬生氏
が進出、三根郡司と葛藤が起き、天平宝字
年間に、最終的に養父郡司が千栗社祭祀
権を獲得した。
・壬生春成君碑が、鳥栖市養父八幡宮境内
にある(写真)

・国玉王伝説については、実在の人物では
なく、仮託創造された先祖であろう。
・大宮司家は、宇佐大神氏系統だが、系図
に、先祖として、「国主藤原国玉」がみえる。
・大宮司家が、国玉と主張するのは、藤原氏
と結びつくことで、千栗社の繁栄を導こうと
した作為であろう。

・初期の造営者名を記録した、鎌倉初期の
文書(1212年)には、
天平宝子年中(注757~765)
国□(読み取れず)藤原朝臣国玉 
弘仁年中 (注819~824)
依府宣 藤原朝臣国衛
寛平年中(889~898)
依宣下 守小野朝臣」  以下は略

・鎌倉時代初期の千栗社の人たちは、最初
の造営を天平宝字年中と理解していた。
・造営に任じたのは、藤原国玉であり、皇子
ではない。
国玉は藤原氏と認識していた。

・弘仁・寛平の造営は、大宰府又は朝廷の
直接命令により行われた。

<筆者コメント>
新町史は、後世に伝わる文書資料を基に、
創建にまつわる謎の解明を試みた力作。

残念なことに、壬生春成が何氏族なのか、
両郡司の葛藤とは何か、わからない。
また、藤原国玉を、架空人物として終わって
いる。

筆者は、やれるかどうかわからないが、もう
少し追いかけることにした。

<壬生春成>
筆者は、まず鳥栖市養父町を調べた。
次図は、養父八幡宮周辺図。
153話養父八満宮周辺図最終終

江戸時代には、壬生姓の人物がおられたと
いうが、今はおられない。

注目したのは、竹野氏。
佐賀県内では、鳥栖市養父町が最多。

最初に閃いたのは、京都府丹後町竹野。
海部尾張氏の大県主ユゴリ女、竹野姫は
開化妃となる。
春成は、海部尾張氏族なのか?
そういえば、聖武天皇曽祖父天武天皇の
壬生は、大海人宿禰。
聖武天皇即位(724年)の瑞祥として、
奏上したのだろうか?

しかし、謎解きは、そう甘くなかった。

全国の竹野氏を見ると、
新潟県弥彦村、大阪市平野区等に多い。
久留米、八女市には、ほとんどおられない。
おられても、49年前のデータでは、消え
てしまった。

久留米八女の勢力ではない、ということは、
筑紫君一族ではない。

次に調べたのは、新潟県弥彦村。
越後一宮弥彦神社の祭神は、海部尾張氏
の天香山命(高倉下命)。
ここの竹野氏は、海部尾張氏族か?

壬生春成が海部尾張氏族とすれば、千栗
宮周辺に多い、武田氏と同族となる。
三根郡司も海部尾張氏とすれば、両郡司
の葛藤はありえない。

だが、鳥栖市域の支配者の変遷を見ると、
初めは海部尾張氏の領地。
そこに筑紫火君が進出。
さらに、大和朝廷軍が攻め込んでいる。

養父郡に、海部尾張氏の郡司が任命され
るだろうか?
そもそも、海部尾張氏が八幡宮を祀るか?

さらに調べを続けた。
京都府丹後町竹野に、竹野氏がおられない。
一方、兵庫県城崎郡竹野町竹野には、竹野
氏がおられる。
竹野氏の周りは、北村氏(息長氏族)と
藤田氏(春日氏族)。
ここは、日子坐王の子、丹波道主命後裔が
国造の地。

次に、大阪市平野区を調べた。
喜連は、息長氏族の、もう一つの本拠地。
ここの竹野氏の周りは、北村氏と竹田氏。
両方に近いということになる。
結論は出せないのか?

<藤原国玉>
千栗八幡宮の大宮司家の系図が、鍋島家
文書の大神氏系図にある。

国主藤原国玉 小文字で中間略之 ―守友
―経高―女子―永幸―惟幸―惟経―栄幸
―惟久―  (以下略)
「惟」の文字が入るのは、宇佐大神氏が養子
で入ったためと見る。

「国主」の字。
続日本紀、神護景雲2年(768年)5月條
に、「国主」が使われている。

153話国主

江戸幕府も、初期の国書に、日本国主の名
を用いていた。
天皇或いは、それに准じた実力者の意か。

天平宝字年中は、藤原仲麻呂の時代だった。
元年(757年)8月に、天平勝宝から改元
されたとき、仲麻呂は紫微内相(大臣クラス)
の座にあり、首班であった。
兄の右大臣豊成は、橘奈良麻呂の乱で、
7月に解任、員外師に流されていた。

翌年(758年)、仲麻呂は、大保(右大臣)
に任じられ、恵美押勝の名をもらった。
天平宝字4年(760年)には、大師(太政
大臣)に任じられた。

天平宝字は、8年に仲麻呂の乱で終わる。
その間、仲麻呂が唱え、推し進めたものが
ある。
新羅遠征計画だ。

天平宝字3年(759年)に、計画は始まる。
香椎廟に、新羅を討つ事情を奏上し、3年
間に船500雙を作る計画を立てた。

遠征準備が本格化したのは、天平宝字5年
(761年)から。
東海道、南海道、西海道の節度使に、兵士
4万人、船400雙を用意させた。
そして、大宰師に二男の藤原恵美朝臣真先
を任じた。

しかし、実行されることはなかった。
高野天皇(孝謙)と淳任天皇が不仲になる。
また、女官最高位にあった妻や、授刀督
など、仲麻呂支持者の相次ぐ死去、道鏡
の台頭により、対立は爆発した。
仲麻呂は、藤原姓を奪われ、斬殺された。

新羅遠征計画は、推古朝にもあった。
来目皇子が筑紫に向い、この北茂安邑に、
物部経津主神を祀らせた。
蘇我氏の血を受けた皇子だが、滅ぼした
物部氏族の協力が必要だったためと見る。

仲麻呂の遠征計画も、筑紫君勢力、安曇
氏族、宗像氏族の協力なしでは実行でき
ない。
協力を得るための造営であったと、筆者
は考える。

江戸明暦の文書に、こう書かれている。
「当家、中家、西家の三家は大宮司。
三家は国玉大臣の子孫で、(中略)国玉
大臣の御霊社は、八幡宮御社内楼門の
傍にあり」

町史は、「藤原国玉は、現在も、その夫人
の石塔とともに大切に祀られている」と
書く。(248頁)

御霊社は、滅ぼされた人物を鎮魂する社。
太政大臣藤原仲麻呂が、秘かに祀られて
いると見てよいだろうか。

(追記)
北茂安村誌に、壬生春成の氏族の答え
があった。

千栗八幡宮の宝物「鏡一面」。
「青銅製古代造、円形、径1尺7寸、作者
不明、裏面に元禄3年5月塩見女神納と
してある」(17頁)

鏡を神納した塩見女。
第79話「網野銚子山古墳の主とその勢力
圏」(2013年12月)で、
「塩見:天津日子根命の後裔。丹波道主王
氏族」と書いた。

壬生春成は、丹波道主命後裔であった。
古代史の神様に感謝。

第一五二話 筑紫火君の古墳

佐賀県の東部にある鳥栖市。
「鳥栖市史」(1973年)は、「剣塚・
庚申堂塚を始めとする古墳群は、筑紫火
君の数世代にわたる墳墓」と書いている。

ところが、その後刊行された、「鳥栖市誌」
(2005年)は、「大型古墳群は、基肄
(松津)国造の物部氏族。円墳の田代太田
古墳以降は、筑紫火君」とする。

同一市町村の史誌が、説を異にするのは、
珍しい。
それほど、解明が難しい問題なのだろう。

「できないと思われることを、できるように
するのが仕事」
これをモットーに、ブログ筆者は挑戦した。

次図は、鳥栖主要古墳と弥生遺跡位置図。
弥生遺跡を含めた理由は、1期(以前)と
思われる赤坂古墳の主が、弥生時代から
の勢力と見るからだ。

152話鳥栖古墳と弥生遺跡

注目したのは、古墳前方部の方位。
赤坂古墳は、中津市大貞の薦神社を経て、
大和国大神神社を指す。
宇佐の三女神と、ニギハヤヒ命を奉斎した
氏族とわかる。

3基の大型前方後円墳は、いずれも9期。
最大の剣塚が最初に築造され、庚申堂塚、
岡寺の順に造られたとされる。

剣塚の方位は、庚申堂塚を貫き、佐世保
市高島に至る。
高島を指すのは、博多の古墳群と同じ。

庚申堂塚は、博多湾の西戸崎(筑紫君が
結んだ安曇氏本拠)を経て、韓半島東岸へ。

岡寺は、八女の石人山古墳と全く同じ。
松浦市里免の、淀姫居所付近を通過する。

これまで見てきた、筑紫君の古墳と、方向
が合致するとわかった。
物部氏や息長氏であれば、この方位を向く
だろうか。

次図は、主要古墳と弥生遺跡を囲む人たち
をプロットしたもの。

152話鳥栖古墳囲む人たち

注目するのは、長氏。
側にいる藤田氏は、和邇春日氏族であり、
長氏は、それに近い氏族となる。
ここの長氏は、何氏族か。

長国造が四国におられたので、三島氏族か。
いや、物部氏族の長野氏か。
それとも、息長氏の長か。

高知県を調べると、個人の長氏は見当たら
ないため、三島氏族ではない。

日田市高瀬琴平町に、長氏5件と、武内氏
17件が、隣接しておられるとわかった。
(49年前のデータ)
物部氏族と武内氏族が、隣接するとは考え
られないので、物部氏族ではない。

息長氏族説はどうか。
実は、剣根ブログ第五十一話「糟屋屯倉は
多々良川中流域にあった」において、既に
登場している。

「長氏は息長姓」とする、太田亮氏の著作の
項から、「息長氏族」と、当時書かせていた
だいた。

長氏と因幡(因)氏が、屯倉を受取った側と
書いたが、今回、これに伴氏(大伴氏族)も
受取り側に加えたい。
また、献上した側を、高木氏と書いたが、
あべ氏(筑紫君氏族)が献上したと、
改める。

一連の筑紫君史を追いかける中で、ブログ
筆者は、筑紫君の本姓は「あべ」であった
という心証を強めている。

これらを受けて、第五十一話の「糟屋屯倉
の範囲図」を、次図に差し替える。

152話糟屋屯倉の範囲図最終

粕屋町の大半が、1500年後も、大和の
朝廷勢力に占拠されているようだ。

ただし、元々は、海部尾張氏の地か。
武田氏と、護衛隊の百田氏がおられる。
大和朝廷の皇子や後裔が攻め込み、譲ら
せたのは、吉備国足守と全く同じ構図だ。
それを、また大和朝廷が奪い屯倉とする。

長氏が息長氏族とすれば、それでは長氏が
古墳の被葬者なのか。
前方後円墳3基の方位は、筑紫君系古墳
であることを示しており、整合しない。
ブログ筆者を苦しめる迷路だった。

赤坂古墳の方位と、囲む人たちの図を見た
時、大和国御所市の鴨都波1号墳を、思い
起こした。
大物主家の、太田田根子の孫が、鴨氏族の
首長・鴨君となり、三角縁神獣鏡4枚と
共に、葬られたと見る。

鳥栖弥生遺跡からは、銅鐸・銅矛・銅戈の
鋳型が出土した。

遺跡近くの、鹿毛氏や秋山氏は、鴨氏族と
思われる。
鴨君に近い時代に、前方後方墳の築造を
認められ、大和国大神神社に向けて造った
と考える。

その赤坂古墳と、背中を合わせて造られ
た剣塚古墳の主も、大物主の血を受けた
人物のはず。

謎が解けたと感じたのは、最新の地図で、
剣塚古墳のすぐ南側に、現れた人たちに
気づいたとき。

そこには、火宮氏、長氏がおられた。
ここに、筑紫君磐井を父とし、肥後火君
出身の母を持った、筑紫火君がいた。

摂津三島県主の女、玉櫛媛は、ニギハヤ
ヒ命との間に、男子(天日方奇日方命=
大物主家)と、女子(五十鈴媛)を生んだ。
女子は、神武天皇の后となり、神八井耳命
(多氏の祖)を生む。
その後裔が、肥後の火君。

筑紫君勢力の鳥栖への進出は、火君の血を
受けた、若き筑紫火君を立てることにより、
円滑に行われたと見る。

磐井の乱は、筑紫君弱体化を狙ったもので、
吉備氏、上毛野君への攻撃に続くもの。

弥生時代からの集落に、火をかけて侵入
した大和朝廷軍に、筑紫火君は、強い抵抗
をしなかったと見る。
ここが、多くの古墳を破壊された、火中君
の対応との違いだろう。

対韓半島政策に協力するとの条件を呑み、
息長氏族等に囲まれながら、引き続き、
その地位に留まることができた。

剣塚古墳周りに集まる、人たちの位置図は、
その経緯を、現代に伝えていると思う。

第一五一話 淀姫を指す石人山・乗場古墳

今話は、久留米・八女古墳群の前方部
方位の謎を、追いかけた。

151話古墳方位線延長図

韓半島南西部を指す久留米藤山甲塚古墳
と、金海・高霊を指す八女丸山古墳を別に
すれば、石人山・浦山・岩戸山・乗場などの
古墳は、肥前西岸に前方部を向けて築造さ
れている。

151話松浦

本図は、松浦・平戸付近の方位線。
さらに、詳細図①~④を見ていこう。

151話松浦淀姫神社最終

神功皇后の妹と伝わる、淀姫は、松浦海人
たちから、船と兵の協力を得る。
凱旋後は、松浦に留まり、この地で亡くなっ
たという。

姫を祀る神社は、松浦市浦免にあるが、住ん
だのは、松浦市史(1975年)によれば、
松浦市里免。
里免には、後世、奥州で投降した安倍宗任が、
館を構えた。

淀姫が、松浦海人たちの守護者となっていた
ことを、意識していたと思う。
いずれにしても、石人山・乗場古墳は、淀姫
所縁の地を指していた。

151話的山大島度島

現在は、平戸市域に含まれる、肥前西端の
島々。
大浦氏が、中心勢力とわかる。

しかし、大島の大根坂には、息長・宗像・安
曇・筑紫君という、有力氏族が集まっており、
この地の重要さを示している。
ここが、竜王の地だったのではないか。

しかし、松浦市史は、「御厨星鹿が、龍宮の
本宮であった。この地の龍王より玉を借りる」
と書いている。

151話平戸市田平町

本図から、何がわかるだろうか。
ブログ筆者が、注目したのは、北端の田の浦。
ここは、遣唐使船の出港地。
この地を、筑紫君同族の安部氏の人たちが、
押さえている。

八女の浦山古墳(7期)は、田の浦を向いて
築造されたと見る。
また、大和町川上の、與止日女神社を通過
していることも、書いておこう。

弥生時代の田助遺跡所在地に、竹田氏と
三輪氏。
本来は、これら海部氏族が、肥前を支配し
ていたのだろう。
田平町に、野上氏(魏曹操後裔)が多い
のも、邪馬台国の湊だったからだろう。

石人山古墳の方位線からは、肥前海人を
掌中に収めようとする、強い力を感じる。

151話生月島

平戸島の西隣、肥前最西端。
生月島もまた、大浦氏が中心勢力だった。

ブログ筆者が注目したのは、那珂川町にある
安徳大塚古墳(4期)の方位線が、平戸北部
や生月島の山田免を貫くこと。

「生月島史稿」(近藤儀左衛門著1977年
芸文堂)によると、「生月島の古墳は山田免
にのみ存在する。生月の開発は、まず山田
免に始まった」と書いている。

安徳大塚古墳の被葬者の時代から、既に、
筑紫君による、肥前海人の守護者への道が、
始まっていたと見る。
そのため、十城別王の駐屯地が、南部の志
々伎になったのではないか。

<今話のまとめ>
筑紫君については、その絶頂期から転落して
いく過程について、先達が解明されてきた。
しかし、どのようにその勢力が始まり、拡大し
ていったのか。

残念ながら、文献からはその答えは得られ
ないだろう。
残されているのは、古墳と、囲む人たち。
それらを最大限活用して、謎を解いていこう。

安曇勢力と結んだ初期の博多時代。
筑後南部に遠征し、安曇勢力に土地を与えた
玉垂命時代。
大牟田の、海部尾張勢力から、筑後支配者
の地位を譲らせた、初代筑紫国造の時代。
神功皇后の外征に協力し、筑紫統一を成し
遂げた、那珂川時代。

外征が終わったとき、壱岐・対馬には、武内・
中臣勢力が残った。
呼子・平戸島南部には、仲哀天皇の弟たちが、
外敵に備えるために残された。
松浦に、神功皇后妹とされる淀姫が、留まる。

しかし、その人たちや部下が世代交代した時、
大和朝廷は、内部の争いに夢中となっており、
肥前の守護者として、筑紫君が乗りだしていく。

肥後の肥君と結びつき、強大化するとともに、
肥前に、鳥栖に、山鹿菊池に、津屋崎に進出
する。

もともとの、肥前の支配者は、背振山南麓から、
西方に続く、大古墳地帯の首長たちであった。

ブログ筆者は、海部直や、紀直氏族と見ている
が、その役割を受け継ぎ始めたのが、石人山
古墳の主からだと見る。

本ブログは、ただいま、「筑紫君興亡史」の
真只中にある。

第一五〇話 久留米・八女古墳群を判定する

<伏見稲荷に厄除けの参拝>
2018伏見本殿 (340x255)

<稲荷パフェ>
伏見稲荷パフェ (255x340)

今話は、筑紫君の本拠といわれる、久留米・
八女古墳群。

古墳毎に、被葬者が筑紫君氏族か判定する
と共に、筑紫君と結びついた勢力を明らかに
したいと思う。


150話全体図

本図は、今話に登場する古墳の全体図。
六枚の図に分けて、判定を進める。

150話古墳編年表最終

ブログ筆者は、今回、前方後円墳集成九州編
(1992年山川出版社)の編年表によらず、
「広川町史」(2005年)209頁記載の
表によった。

その理由は、集成の編年表にある古墳数が
少ないこと。
また、石人山古墳を8期後半、岩戸山古墳を
10期とするのは、これまで各地の古墳編年
を見てきた感覚と、合わないと感じたからだ。

8期後半は、雄略朝となるが、八女市史も石
人山古墳を5世紀前半としており、6期又は
7期が適当と思われる。
また、岩戸山古墳の継体朝は、9期が適切と
見る。

集成の「九州地方の概観」でも、柳沢一男氏
が「9期には、筑後に北部九州最大の岩戸山
古墳が出現した」と書いておられる。
しかし、編年表は10期となっており、意見
が分かれた様子が窺える。

柳沢氏の編年表を採用することで、石人山
古墳以前の、筑紫君の大きな空白は解消され、
博多・大牟田の古墳と繋がることになる。

150話①図日輪寺木塚最終

<日輪寺古墳>
筑後川左岸の、通称「京隈山」にある。
古墳周りに、早く筑紫君と結びついた高田氏。
さらに、筆者が注目するのは、隈氏。
高良玉垂命の長子後裔という伝承がある。

前方部が早く削平されており、方位不明だが、
久留米市史12資料編に、「南北を主軸と
する」とある。

石室内の石障(せきしょう)に、鍵手文と
同心円文の線刻。
石障があるのは、藤山甲塚古墳と同じ。
鍵手文と同心円文の線刻があるのは、浦山
古墳と同じ。
「筑紫君氏族と判定する」

<木塚古墳>
前方部の方位は、N117度W。
大善寺玉垂宮付近を通過し、肥前の鹿島市、
東彼杵町に至る。

古墳を囲むのは、鹿子島氏。
2図で触れるが、鹿子島氏が鹿島氏と同じ
と見れば、鹿島市を向く理由がわかる。
鹿島氏が多いのは、屋久島。
ルーツは同島か。
「筑紫君氏族ではなく、結びついた有明海
湾岸勢力の長と見る。」

150話②図久留米最終2

<藤山甲塚古墳>
石櫃山、浦山、石人山古墳と共に、横口式
家形石棺を有する。
それも、石人山に先行する、九州における
初期の横穴式石室らしい。

前方部の方位は、N72度W。
唐津市、大島村(現平戸市)的山大島の
沖を通過し、韓半島南西部に至る。
被葬者は、5世紀前半に渡海した人物か。

古墳を囲む人たちは、園田氏(肥君氏族)、
中尾氏(大村氏族=紀直氏族)がいる。
「肥君や有明海湾岸勢力と、最初に結び
ついた、筑紫君氏族と判定する」

<石櫃山古墳>
墳長100mを超える大古墳。
近くで囲むのは、案納氏と鹿子島氏。
案納氏と鹿子島氏は、どんな人たちか。
太田亮氏の姓氏家系大辞典でもわからない。

鹿子島氏は、本図南方の広川町清楽茶屋で、
鹿島氏と隣接しており、同族と見える。
肥前鹿島より来た勢力と見る。

案納氏は、ここ久留米市高良内町が最多。
木塚古墳の南にもおられるので、両氏は近
い関係らしい。

同古墳の方位は、久留米市史12巻資料編
考古295頁によると、「主軸は真南ないし
S-2度―Wを示す」とある。
真南とすれば、種子島。
N178度Wと見れば、屋久島を指す。
種子島の安納地区の地名から、種子島氏族
と見る。

古墳西側には、早く筑紫君と結んだ高田氏
がおられる。
「南の島をルーツとする、有明海湾岸氏族
と結びついた筑紫君氏族と判定する」

<浦山古墳>
前方部の方位は、N80度W。
乗場古墳と同じ。
松浦市星鹿、平戸市北端の田の浦を経て、
平戸生月島に至る。

古墳近くには、石井氏、岩井氏、高田氏。
方位は、石人山、岩戸山古墳と並び、松浦、
平戸方向を指す。
「筑紫君氏族と判定する」

150話③図八女最終

<石人山・弘化谷古墳>
5世紀前半に出現した、120mの大古墳。
前方部の方位は、N81度W。
松浦市、平戸市を経て、平戸生月島に至る。

古墳を囲む、山下氏と園田氏の大集団。
これほどの集団が囲むのは、その血を受け
た人物と見る。
宝満川沿いの小郡市玉母宮は、玉垂命の
母を祀る。
神社近くに、山下氏の集団。

武勇に秀でた山下氏族や、高貴な肥君氏族
の血を受けたことが、この大古墳に繋がっ
たか。

家形石棺に刻まれた、直狐文の線刻の美意
識は高い。
阿部氏と案納氏が、その後、近くに現れた
ことは、本来の被葬者を推定させる。
「石人山、弘化谷古墳共に、阿部氏同族の
筑紫君氏族と判定する」

150話④図八女岩戸山最終

<岩戸山古墳>
前方部の方位は、N75度W。
石人山古墳の北側をかすめて向かうのは、
福島町(現松浦市)、松浦市青島、平戸市
度島。

古墳を囲む人たちで、筆者が注目するのは、
隈本氏と荒尾氏。
隈本氏について、太田亮氏は、「肥後熊本
(もと隈本)より起こりし氏か。熊本條を
見よ」とする。
そして、熊本氏は、藤原姓としている。

荒尾氏は、高良玉垂命末女の後裔か。
古墳北方の、広川町新代に、稲員氏
(玉垂命後裔)や山下氏の集団。
高良坂本神社があり、玉垂命次子後裔を
感じる。
古墳周りに園田氏(肥君氏族)がおられ
ないのは、乱に際し、距離をおいた証拠か。

岩戸山古墳の間近に、その後、阿部氏が
現れている。
「被葬者は筑紫君氏族と判定する」

<乗場古墳>
岩戸山古墳のすぐ東にある。
前方部方位はN80度で、浦山古墳と同じ。
石人山古墳の真ん中を貫通して、松浦市、
平戸市、平戸生月島に至る。
「筑紫君氏族と判定する」

<神奈無田(じんなむた)古墳>
消滅した前方後円墳で、方位不明。
柳沢一男氏の、「筑紫君磐井と磐井の乱」
(2014年新泉社)によると、妙見2号墳
という名前になっており、墳長40m程度
だったらしい。

筆者が注目したのは、古墳を囲む人たち。
稲員氏(高良大社祀官)と弓削氏の集団。
弓削氏は、弓月君の後裔で、筑紫君側近
と見る。
久留米石櫃山古墳の方位線が、同古墳付近
を通過しているのは偶然か。
「筑紫君氏族と判定する」

150話⑤図八女善蔵塚

<善蔵塚・鶴見山古墳>
ともに10期の古墳。
鶴見山古墳は、最後の大型前方後円墳と
見られる。
古墳南方の宅間田に、倉員氏の集団がおら
れるが、よくわからない。
方位は、共にW。
佐々町を経て、平戸島南部に至る。
「乱後の筑紫君宗家を継いだ首長たちと
判定する」

<丸山古墳>
八女古墳群中、最も東方の前方後円墳。
前方部の方位は、N37度W。
久留米古墳群の真ん中を通過する。
さらに、糸島を経て、対馬北部、韓半島の
金海、高霊に至る。
久留米八女古墳群では、希少な方位を取る。

編年表では、岩戸山古墳に続く築造と位置
付けている。
古墳近くには、大隈氏。
大隈氏は、八女久留米市を別にすれば、鹿
島市、三田川町に勢力を持つ、有明海湾岸
勢力。
「これらの勢力を率いて、任那攻防戦に
加わった筑紫君氏族と判定する」

150話⑥図童男山

<童男山古墳>
八女古墳群東端、径48mの大型円墳。
古墳近くには、石井氏(筑紫君氏族)。
「筑紫君氏族と判定する」

<ブログ筆者のあとがき>
7年かかり、筑紫君の城門を叩いた気分。
何故平戸を向くのかは、次回のテーマ。
今年もお付き合いいただき、ありがとう
ございました。


第一四九話 津屋崎古墳群は宗像氏族なのか

<象頭山の朝 2018年11月>
象頭山 (340x255)

<金刀比羅宮御本宮 30年ぶりの参拝>
本宮正面 (340x255)

今話は、福岡県津屋崎町(現福津市)にある
津屋崎古墳群。

2017年7月、沖ノ島・宗像大社などが、
世界文化遺産に登録された。
嬉しいことだが、ブログ筆者が不思議に思
ったことがある。

それは、世界遺産に含まれた古墳が、新原
奴山古墳群のみだったこと。

これまで、福岡県や宗像市などが発行した
調査報告書は、津屋崎町勝浦にある2基の
大型前方後円墳や、宮司にある長大な石室
を持つ宮地嶽古墳も、宗像君氏族のものと
する見解を、繰り返し述べてきたからだ。

世界遺産登録に向けた委託調査報告書でも、
勝浦峯ノ畑古墳(旧津屋崎41号墳)から
出土した銅鏡の同型鏡が、沖ノ島の岩上祭
祀遺跡で発見されたことから、同古墳被葬者
が、沖ノ島祭祀に関与したと推定していた。

ブログ筆者は、筑紫君の石人山古墳前史を
探る目的から、津屋崎古墳群の氏族判定を
行った。

<古墳の位置と方位図>
剣根ブログでは、第146話(2018年
8月)において、宗像市東郷高塚古墳周辺図
と津屋崎町宮地嶽神社周辺図を掲載した。
今話では、これらを除く、津屋崎町北中部、
玄海町北部の図を見ていただく。

149話津屋崎古墳群方位図
149話津屋崎南部方位図

最初に築造された前方後円墳は、勝浦峯ノ
畑古墳。

墳長97mの大古墳で、7期(5世紀中葉)
とされている、
同古墳からは、銅鏡7面、刀40振以上が
出土している。
前方部方位は、前方後円墳集成の74度W
とすると、対馬厳原町豆酸付近を通過し、
韓半島南西部に至る。

ブログ筆者が、高良玉垂命の古墳と見た東
郷高塚古墳(3期)。
それから年数をかなり空けた7期に、突如
大国造級の大古墳が出現し、大量の鏡や武
器を保有していた。
この首長は、宗像氏族なのか。

隣接する勝浦井ノ浦古墳(旧津屋崎10号
墳)は、8期(5世紀後半)の築造で、
墳長70m。
方位は145度W。
旧志賀島村大嶽神社(安曇氏)、能古島を
経て三雲伊都国王墓(三島氏)を指して
いる。
出土品は、鉄鉾11本、鉄鏃160本以上
と三環鈴。
ここも武将だろう。

世界遺産に含まれた、新原奴山古墳群の中
で、最古は、新原奴山1号墳(大字勝浦字
新原)。
墳長50m。
消滅しているが、7期に築造された。
方位50度Wは、対馬北部を経て、韓半島
南西部任那安羅国付近に至る。

津屋崎古墳群には、多数の前方後円墳が
あるが、この3古墳を除けば、後期の9~
10期の古墳とされる。

<古墳を囲む人たち>
149話津屋崎北部囲む人
149話津屋崎南部囲む人

勝浦峯ノ畑古墳と勝浦井ノ浦古墳について
は、勝浦本村に安部氏がおられる。
ブログ筆者が注目するのは、両古墳近くの
年毛(としげ)神社を祀る永島氏。

神功皇后凱旋時に、志賀大神・住吉大神を
祀ったと伝えられる。
年毛神社の正面線は、105度Eで、東方
の宗像大社辺津宮を向いている。

永島氏は、福岡県内では、津屋崎町勝浦、
玄海町神湊、津屋崎町津屋崎に集中する。
永島姓は、太田亮氏によれば、秀郷流藤原
姓とある(姓氏家系大辞典)。

ブログ筆者は、永島氏を、勝村大神(藤高麿)、
勝頼大神(藤助麿)の後裔と見る。
先祖のお名前に、勝の字が含まれるためだ。
中臣氏の祖、中臣鳥賊津使主(いかつおみ)
と、藤兄弟が功績を挙げたのは、神功皇后の
渡海戦。
元は同じ氏族で、後世藤原姓を称したと見る。
それでは、勝浦の大古墳は、藤氏族だろうか。

功績があったのは4期頃。
古墳は7期のもの。
97mの大古墳は、他氏族が許さないだろう。
古墳近くには、宗像氏族(宗像氏、深田氏、
田島氏)、物部氏、武内氏族は、ほとんど
おられない。
ブログ筆者は、勝浦大古墳は、勝浦本村の
安部氏と見る。

新原奴山古墳群はどうだろうか。
旧奴山村は、南方の大石、須多田も村域と
していた。

奴山にある縫殿神社正面線は、75度Wで
新原奴山1号墳を貫通している。
同古墳と奴山村は、つながっているようだ。
奴山にも安部氏がおられるが、宗像氏族は
おられない。

現状だけから判断すれば、ここも安部氏族
に見えるがどうだろうか。

<玄海町の前方後円墳>
玄海町神湊の上野3号墳(40m北西)と、
玄海町牟田尻の牟田尻スイラA-04号墳
(20m北西)は、ともに大島を経て、韓
半島金海付近に至る。
玄海町神湊には、安部氏もおられるが、宗
像氏族も多くおられる。

桜京2号墳は(41m170度W)は、香
椎宮を経て、博多区の那珂八幡古墳(筑紫
君始祖阿倍木事と見る)を指す。
(注)集成は、方位をほぼSとするが、ここ
は「桜京古墳」(宗像市教育委員会2007)
15頁現況測量図により170度Wとした。

金海は、古代の金官加羅国で、またの名は
南伽耶(ながや)国。

宗像氏は、韓半島南東部にあった倭人の国、
金官加羅国と強くつながっていたと、ブログ
筆者は考えている。
その証拠が、天武天皇と宗像媛の間に生ま
れた高市皇子の子につけられた名前。
長屋(ながや)王。

玄海町の古墳は、宗像氏族のものだろう。

<今話のまとめ>
次図は、今話に登場した前方後円墳の方位
線延長図。

149話渡海地図案

浮かび上がるのは、多くの古墳が、韓半島、
壱岐島、対馬を向く、対外指向の強さ。

今後取り上げる予定の、久留米・八女に
所在する、筑紫君宗家の古墳の向きが、内
向き指向であるのに比べ、極めて対照的だ。

同じ阿倍氏族ではあるが、8期以降の筑紫
君宗家は、九州内での勢力拡大を優先した
かのようだ。

図中に、平戸を向く3古墳がある。
在地剣塚古墳は、呼子町加部島の田島神社
を経て、平戸生月島へ。
新原奴山12号墳は、呼子町を経て平戸中心
部へ。
須多田ミソ塚古墳は、松浦市青島を経て平戸
口へ。

八女・久留米の筑紫君の前方後円墳群も、
5基が平戸方向を向いている。
これは尋常ではない。
これらの古墳は、なぜ平戸を向くのか。
新たな謎に、答えが出ますように。

津屋崎より勝浦まで、昔は入海であったと、
宗像郡誌に書かれている。
津屋崎は、阿倍水軍の基地であったと、今は
考える。

筑紫君同族の阿倍氏が、藤氏や安曇氏を
掌握しきった姿が、宮司嶽古墳だろう。

<境内に銀座資生堂パーラー>
神椿 (243x340)




第一四八話 うきは古墳群は何氏族か

(溝咋神社復活 2018年9月撮影)
みぞくい (251x340)

(民博復活 図書室も 2018年9月撮影))
みんぱく (243x340)

いま、ブログ筆者は、石人山古墳以前の筑紫
君の古墳を探査中。

今話は、福岡県うきは市にある、若宮・朝田
古墳群。
ここには、墳長90m超の前方後円墳が3基
もある。
吉井町若宮古墳群に、月岡古墳(8期95m)
と塚堂古墳(9期91m)。
浮羽町朝田古墳に、法正寺古墳(8期96m)
期数は、「前方後円墳集成」記載の編年。

90mといえば、大国造クラスだが、この地
に国造の名を聞かない。
いったい何氏族か。
筑紫君と関係があるのか。
また、イクハ郡の名前からいわれる、的(いく
は)臣説は成り立つのか。

<地元自治体調査報告書の情報>
謎ときにかかる前に、地元自治体調査報告書
の情報を、読んでおこう。

・月岡古墳は、浮羽の地に突然出現したように
見受けられる。
その被葬者は、長持形石棺に納められ、この
石棺の持つステイタスから、中央政権に極く
近い人物であったろうことをうかがわせる。
(筆者注:九州内の長持形石棺は、月岡古墳
と唐津谷口古墳のみらしい)。

・月岡古墳は、5世紀第二四半期の中で、
前半よりの時期が想定される。
・石人山古墳は、月岡古墳に後続すると考え
られる。
・法正寺古墳は、4世紀後半の古墳とされる。
(以上は、「若宮古墳群Ⅲ」2005年吉井町
教育委員会)

・若宮古墳群及び朝田古墳群は、的臣との
関連が想定される。
(以上は、「若宮古墳群Ⅰ」1989年吉井町
教育委員会)

<若宮古墳群周辺図>
148話若宮古墳群最終

月岡古墳と塚堂古墳の前方部の方位は、同じ
80度W。
唐津市(浜玉町)谷口古墳(4期)を指して
おり、韓半島の南の沖を通過する。
日岡古墳は、糸島市(二丈町)一貴山銚子
塚古墳(4期)を指しており、韓半島南西部
に至る。

<谷口古墳周辺図>
148話谷口古墳最終

谷口古墳の所在地は、古代玉島湾の入江
東岸にあたる。
神功皇后が、鮎を釣った玉島川。
谷口古墳の4期は、神功皇后の時代。

旧玉島村に多い姓は、大場氏(天物部)。
ちなみに、末羅国の国造は、成務朝に、
穂積臣同祖、大水口足尼孫が任じられ
ている。(物部氏族)

松浦川上流に、大型前方後円墳の久里双水
古墳(集成は、4期から1・2期に補遺編
で訂正している)があり、周りを内田氏
(物部氏族)が囲む。

その方位は、玉島川河口を指している。
谷口古墳からは、副葬品として鏡7枚が出土。
三角縁神獣鏡は、一貴山銚子塚古墳出土の
三角縁神獣鏡2面と同範。

「末羅国」(六興出版1982年)には、久里
双水古墳について、「5世紀前半代、墳丘
規模、立地、時期ともに、二丈町一貴山
銚子塚古墳と類似している」(P.464)
とある。

<一貴山銚子塚古墳周辺図>
148話一貴山銚子塚

同古墳を囲む人たちは、鈴木氏(物部氏族)。
南方にも、内田氏(物部氏族)。
この古墳の被葬者は、物部氏族だろう。

吉井町の若宮古墳群、唐津市谷口古墳、
糸島市一貴山銚子塚古墳が、つながった。

若宮古墳群を、物部氏族と判定して良いだ
ろうか。
ところが、古墳周りに、物部氏族の人々が
おられない。

古墳周りには、安元氏(三善氏族)。
鎌倉時代、関東から領主として下向し、若宮
八幡神社を勧請したとされる。

古墳を築いた首長一族は、どこに行ったか。
少し離れているが、目立つのは、石井氏。
阿部、安部、石井氏が、筑紫君勢力とすれば、
これはどう理解したらよいのか。

<朝田古墳群周辺図>
148話朝田古墳群

最初に築造されたのは、法正寺古墳。
基山の荒穂神社、三雲伊都国王墓、志摩町、
壱岐島を経て、韓半島南西部に到達する。

9期の弥次郎丸古墳は、香椎宮、対馬北部
を経て、韓半島南東部任那安羅国に至る。

10期の重定古墳は、小郡玉母神社(玉垂
命母又は武内宿禰母)、那珂川西畑(日下
部氏密集地)、壱岐島を経て、韓半島南西
部に至る。
これらの方位は、筑紫君又は武内氏族との
つながりを匂わせる。

朝田古墳群を囲む人たちはどうか。
高木氏(紀直氏族)、石井氏、河内氏(任那
氏族?)。

しかし、見逃せないのは、隈上川と巨瀬川
の上流におられる、物部氏の大集団。
「物部」を名乗る集団は、全国でも、希少だ。
この地の、古代首長系譜につながる人たち
と見てよいと思う。

物部氏族説を補強するのは、こうもり塚から
出土した五鈴鏡。
鈴鏡は、関東の物部氏族が、作成配布した
ものだと、前に書いた。

ゆっくりと頭を冷やしてみると、東国の上毛
野君と、物部氏族の関係に似ている。
さきたま古墳群の上を通過する、前方後円墳
の方位線がない。
うきは市の古墳群もまた、上を通過する方位
線がない。

物部氏族が、太田天神山古墳、さきたま古墳
群など、巨大古墳を造り、上毛野氏族を牽制
する。
上毛野君氏族も、負けじと競争。

同様に、九州に送り込まれた物部氏族が、
各地に大型前方後円墳を造り、地元勢力を
挑発する。
その挑発に乗って、大型古墳を造り、各地の
勢力とのつながりを強めた先に、筑紫君一族
の悲劇があったのではないかと、いまは思う。

<的臣説は成りたつか>
古代生葉郡の名前からくる、的(いくは)臣説。
魅力的だが、古墳群の周りに、的臣=葛城臣=
武内氏族が、ほとんどおられない。
これは難しいか。

9期の弥次郎丸古墳は、任那安羅国を向く。
欽明朝、的臣とともに、親新羅路線を取った
河内氏。
河内氏が、古墳周りにおられるが、的臣の
活躍は10期の出来事だ。

9期であれば、継体9年(磐井の乱前)、
物部連が水軍500隻を率いて帯沙津に
向かっている。
北から敵が来攻して交戦。
己汶(こもん)で、百済軍に迎えられる。
方位線は、任那安羅国から、己汶付近を
指している。

朝田古墳群は、物部氏族が、筑紫君ら地元
勢力の聖地を押さえつつ、韓半島で、百済
任那の救援に活躍した記憶を、方位線で後世
に残したものと、ブログ筆者は見る。


第一四七話 高良玉垂命は東郷高塚古墳の主

高良玉垂命の謎が解ければ、筑紫君の謎
は半分解けたと言ってもよいだろう。
その聳え立つ謎の壁が、ある日、崩壊した。

ブログ筆者が用いる謎解きの手法は、古墳
前方部の向きや、古墳を囲む人たちなど、
現代に遺された事実を基に、解明しようと
するもの。

高良玉垂命については、筑後を中心に所在
する、高良(玉垂)神社の参拝線(参拝時に
参拝者が向く方位)と、神社正面線から、
玉垂命がおられた場所や、平定をしようと
した地域を見つけられるのではと、考えた。

次表は、福岡県内の高良(玉垂)神社リスト。
最近刊行された、「高良さん」(玉垂本宮
由来記 2018年 高良大社)に付属する
神社リストから、地図で確認できた神社に
ついて、方位を調べた。

147話高良神社リスト1
147話高良神社リスト2

<神社方位線が描き出した太い帯>
上記リストを基に、九州北部地図に、神社
の位置、参拝線(赤)、正面線(青)を記入
した。

完成した図は、参拝線が、筑後南部から北
北東に向かって太い帯となって流れていた。
また、正面線は、南南西の大牟田、荒尾方
面に向かって、大きな滝のように流れ落ちて
いた。

各方位線は、どの神社のものか判別できない
ほど密集しており、残念ながらここに図を掲載
できない。

<ブログ筆者が注目した事実>
方位線の帯の中で、筆者が注目した事実は
次のとおり。
①高良山を向く神社(4社)
高良大社(久留米市)  高良山頂へ
山川王子宮(久留米市) 高良山頂へ
下宮社(久留米市) 高良山頂へ
黒崎玉垂神社(大牟田市) 高良大社へ

②筑紫野市城山を向く神社(2社)
大善寺玉垂宮(久留米市大善寺)
玉満高良玉垂命神社(久留米市三潴町)

筑紫野市城山は、筑紫君の始祖を祀ると
いわれる筑紫神社の旧鎮座地。
現在、城山には、阿部さん。
西側には、高田さんの集団がおられる。

③津屋崎宮地嶽神社を向く神社(1社)
三橋町百町高良玉垂神社(柳川市)

④宗像市東郷地区を向く神社(5社)
大和町徳益玉垂神社(柳川市)
矢加部玉垂命神社(柳川市)
高島高良玉垂神社(柳川市)
井田玉垂神社(筑後市)
長浜玉垂命神社(筑後市)

北北東に向かう参拝線の帯の中で、最も
集中するのが、宗像市東郷地区。
なかでも、矢加部玉垂命神社の参拝線は、
東郷高塚古墳(3期61m)を貫通する。

⑤宗像大社を向く神社  なし
これは、高良玉垂命が、宗像氏と関係なく、
また水沼君ではない証拠と見る。

<今話の結論>
もう、高良玉垂命について、断言しても良い
だろう。

高良玉垂命は、前話(第146話)で紹介した、
宗像市東郷高塚古墳の被葬者。
安倍木事の後裔。
彼が、筑後の平定を行った。

久留米市史第一巻(1981年久留米市)に、
次の記載がある。
「高良玉垂宮神秘書によれば、高良大菩薩
は、まず大善寺に着き、ここで舟を新造して、
大川酒見に上陸し、風浪社を祭った。
さらに海に出て、大牟田市黒崎に上陸(中略)
最初に上陸したのが大善寺であり、ここで
棄てた古い舟を御神体としたのが、大善寺
玉垂宮である」(P527~528)

高良玉垂命が、筑後巡行で得た領地は、
三潴が、景行皇子の国乳別皇子に与えられ
水沼別の始祖となった。
また、大牟田は、高良玉垂命の後裔に与えら
れた。
大善寺と黒崎に、重要な玉垂神社が祀られる
のは、玉垂命の活躍に感謝するため。

そして、大善寺にある、御塚古墳などの古墳
群は、国乳別皇子の後裔のものだ。
その証拠は、御塚古墳の前方部が、N153
度Eで、宮崎県国富町を向いていること。

日本書紀景行紀は、「妃の襲武媛は、国乳
別皇子(中略)を産んだ。国乳別皇子は、
水沼別の始祖である」と書く。
ホツマツタエでは、「ソヲタケ」のタケヒメは
双子産む。クニコリワケとクニチワケ」。
「ソヲ」ではなく、「ソヲタケ」。
ソヲの武田氏(海部尾張氏)だ。

国富町飯盛には、武田氏が30件おられる。
久留米市大善寺町宮本の御塚古墳の北西、
安武町住吉には、武田氏の集団がおられる。
また、高三潴の月読神社・御廟塚近くにも、
最近、武田氏がおられる。

三潴の領地を分け与えられたとすれば、国
乳別の一族が、弓頭として、安倍宰相(高良
玉垂命)に従い、渡海して戦ったことが納得
できる。

第一四六話 初代筑紫国造の古墳

筑紫君の奥津城といわれる、八女古墳群。

石人山古墳を先頭に、西方に前方部を向け
見事に連なる古墳たちは、まるで波を蹴立て
進む艦隊のようだ。
しかしながら、その築造時期は、8期以降と
新しく、雄略朝頃からとなる。

筑紫君の謎解きは、何度もデータを集めて
は中断してきた。
「初代国造の古墳を探ることが、謎解きの
コツ」という経験則を、東国で得た。

<筑紫国造の系譜>
日本書紀:大彦命は、阿部臣、筑紫国造等
七氏の始祖。
国造本紀:成務朝、阿部臣と同祖、大彦命
の五世孫の田道命を筑紫国造に任じた。

ブログ筆者は、筑紫国造について、次の系譜
を考えた。

146話筑紫君系譜
1世は誰か?
同じ大彦命後裔の那須国造の場合、
「景行朝、武淳川別命の孫、大臣命を国造
に任じた」とある。
筑紫国造の1世は、武淳川別命ではないと
見た。

<筑紫国造任命までのストーリー>
筑紫の博多湾岸には、後漢光武帝から金印
をもらった、海人たちの倭奴国王がいた。

稲作技術を持って、南方から来た弥生人たち
が、海人たちと対立、あるいは結びついて国を
立てたのが、邪馬台国の時代か。

大和朝廷は、垂仁朝頃に、大彦命の孫、阿倍
木事を筑紫に派遣する。
同行したのは、親衛隊の物部氏族(内田氏)
のほか、大和朝廷の神官たちや、吉備を征し
た吉備津彦命の同族。

阿倍木事は、海人の王家の娘を娶る。
生まれた女子・高田媛は、景行妃となる。
男子は、筑紫統治拡大のため、海人たちの
懐柔に努める。

しかし、筑紫国造がおかれるには、成務朝
田道命まで世代を必要とした。
それでも、なお、古処山や女山などには、
服属しない勢力が残っていた。

<古墳編年では何期か?>
成務朝任命の国造の古墳は、3期又は4期
と見る。
上毛野君の例を見れば、浅間山古墳(4期)
が初代。

<ブログ筆者が候補と見る古墳たち>

146話候補古墳リスト

<那珂八幡古墳>

146話那珂八幡古墳

「奴国の故地、福岡平野の真只中を、北へ
流れる那珂川」
これは、「老司古墳調査報告書」(1989年
福岡市教育委員会)の序文に、岡崎敬九大
名誉教授が書かれた、那珂川の紹介文。
那珂八幡古墳は、その那珂川流域に立地
する、最古級(1期)の前方後円墳。

古墳を囲む人たちは、日下部氏が最多で、
安部氏や国崎氏(吉備津彦後裔国前国造
同族?)もおられる。

ブログ筆者が注目するのは、前方部の方位。
近隣の剣塚北古墳、博多1号墳と全く同じ、
120度W。
方位線は、3古墳とも、佐世保湾に浮かぶ
高島に至る。

高島の遺跡からは、ゴホウラ貝の腕輪を身に
付けた人たちが見つかっている。
沖縄・奄美で獲れた貝の中継地、加工地で
あったとされている。
この島に多い姓は、内野氏約30件。

ブログ筆者は、那珂八幡古墳を、阿倍木事の
古墳と見る。
1期の大型古墳には、宝満川流域に原口古
墳があるが、主体部が甕棺であり、また囲む
人たちに、阿倍氏族を見いだせない。

<東郷高塚古墳>

146話東郷高塚古墳修正

福岡平野から離れているが、ブログ筆者は
この古墳に注目した。
安部氏の他に、西隣の津屋崎町に多い
花田氏、大和朝廷の親衛隊と見る内田氏、
占部氏や国崎氏を伴う。

海人族とのつながりが見えるが、なお大和
勢力に守られている被葬者は、阿倍木事
と田道命の間の人物と見る。

読者の皆様には、隣接津屋崎町に立地す
る、宮地嶽神社周辺図を見ていただこう。

146話宮地嶽神社

神社の最も近くに、高田氏がおられ、阿部氏
と高田氏が密集する。
阿部氏が、安曇氏族を掌握した姿だろうか。

<黒崎観世音塚古墳>

146話黒崎観世音塚古墳

大牟田市大字岬に、墳長97mの巨大古墳が
隠れていた。

次は、「黒崎観世音塚古墳」(1999年大牟
田市教育委員会)の序文抜粋。
「黒崎山一帯はかって眼下に有明海を一望し、
筑後随一の景勝地。筑後高良山の三大末社
の一つである黒崎玉垂宮に大樟あり。
平成6年(1994年)に、巨大な前方後円墳で
あることが判明した」

築造時期については、
「老司古墳(福岡市南区)に先行し、東郷高塚
古墳(宗像町)より下る」とする。

「前方後円墳集成」では、「補遺編」
(2000年山川出版社)に収録された。
「墳長97mの規模を持ち、(中略)、矢部川
以南では、最古の前方後円墳で4期から
5期に位置付けられる」

集成は、4~5期とするが、調査報告書の
記述に従えば、老司古墳(4期)に先行し、
東郷高塚古墳(3期)より下ることになり、
3~4期となる。

また、前方部の方位は、集成補遺編が80度
Wとするのに対し、調査報告書の復元図に
よれば、84度Wとなる。
この古墳の横には、玉垂神社があり、筑紫
君との関係をうかがわせる。

古墳を囲む人たちは、阿倍氏族の他、内野
氏が多数おられる。
内野氏は、どのような人たちか。
佐世保市高島に多いと書いたが、長崎野母
崎半島の先端、野母崎町の120件が、長崎
県内では最多。

太田亮氏の姓氏家系大辞典では
「筑前内野に起りしか。筑後肥前の名族
たり」

旧筑穂町内野(現飯塚市)には、神功皇后
が古処山の羽白熊鷲と戦う前に、戦勝を
祈願した神社がある。
内野には、内野氏もおられるが、最多は天
物部の大庭氏。

内野氏は、大庭氏と同族かどうかは別にして、
天草海、有明海入口の野母崎と、有明海の
着岸地を押さえている。
筑紫君にとって、博多が北の玄関とすれば、
黒崎は南の玄関にあたる。

景行朝に、猿大海を服属させたとはいえ、
古処山や女山などには、従属していない
勢力があった。
そんな時期に、この地に進出した勇気ある
人物こそ、初代筑紫国造田道命と見る。

筑後の平定を祈願するように、吉備津彦命
と同族の国崎氏が、古墳近くにおられる。

神功皇后が、渡海戦の大事を前にして、
何故筑後での戦いを起こしたか、これまで
すっきりしなかった。
筑紫君の望んでいた筑紫統一を、協力して
実現させることが、筑紫君と海人たちを、
新羅戦に巻き込むために必要だったと、
今ようやくわかった。

<老司古墳>

146話老司古墳

老司古墳(75m福岡市南区)と、安徳大塚
古墳(64m那珂川町)は、いづれも4期
の古墳。

その築造順は、「老司古墳」(調査報告書)
では、「那珂川流域では、那珂八幡古墳
を最古とし、次いで安徳大塚古墳、老司古墳
が3番目に築造された」と推定している。

前方部の方位は、174度Eで、他の古墳と
異なり南を向いている。
東隈の日下部氏の大集団を貫き、高三潴、
大牟田市に至る。
大牟田に向かった兄弟を、案じるかのようだ。

<安徳大塚古墳>

古墳近くに、裂田神社があり、神功皇后が
ここまでやってきた伝承がある。
被葬者は、神功皇后の同時代人で、開拓に
協力を得たのだろう。

日下部氏が多い。
日下部氏は、難問の一つだった。
垂仁天皇に反乱を企てた、狭穂彦王の母方
の祖父は、隠されているが、大彦命だ。
王の後裔は、日本海側で、日下部氏として
繁栄した。
しかし、父は日子坐王なので、もしそうで
あれば、国造本紀は、日子坐王後裔と書い
たと思う。

この迷いを打ち破ってくれたのが、那珂川町
西畑の人たち。
日下部氏と高田氏が大きな集団を作る。
宮地嶽神社周辺の、阿部氏と高田氏の大
集団を思い出せば、阿部氏と日下部氏が
同族である証拠と見る。

内野氏の集団も、那珂川の上流におられる。
この地が、大牟田と繋がる証拠と見る。

まとめるのは、まだ早い。
八女、久留米、菊池など、筑紫君と見られる
古墳から得られた事実と、今話で得られた
事実が重なり合った時、筑紫君の謎が解け
たと言える。

大阪府北部地震と7月豪雨


6月18日朝、茨木市・高槻市などに震度6の
大地震が起きた。
燈籠がいくつも倒れ、巨木が傾く等の被害が
発生して、現在、溝咋神社は立ち入り禁止と
なっています。

みぞくい1 (340x255)
みぞくい2 (340x255)
みぞくい3 (340x255)


そして7月豪雨。
7月5日深夜、安威川の水位が上昇したため、
茨木市南部に避難勧告が出た。
幸い氾濫はしなかったが、ブログ筆者宅では、
水、食料、靴を、二階に上げて備えました。

雨がやみ、水位が下がった、7月9日の安威川
の様子。
まだ、ゴーゴーと音を立てて流れています。

安威川1(340x255)
安威川2 (255x340)
安威川3 (340x255)


第一四五話 初代武蔵国造の本拠は大里村か

これまで、武蔵国造の謎を追いかけてきた。

第136話(2017年10月)では、安閑
朝の争いについて、「児玉町付近にあって、
大和朝廷と結んだ笠原直使主と、東松山市
付近にあって、上毛野君と結んだ同族の
小杵の争い」と書いた。

第144話(2018年4月)では、多摩川
古墳群は、武蔵国造ではなく、海部尾張氏族
と判定した。

その後も、まだ解けていない、初代武蔵国造
兄多毛比命の本拠探しを続けてきたが、確信
を持てないままでいた。

そんなある日、古代史の神様がささやいてきた。
「兄多毛比命? 
関東には、出雲系国造が多数いるぞ」

「そうか!同族の国造たちの古墳が、武蔵国造
の古墳を指しているかもしれない」

ブログ筆者は、調査を開始した。

次図は、出雲系国造たちが築いたとされる、
古墳の位置と方位図。
さらに、出雲系と判定できた、多珂、海上、新
治国造の古墳周辺図も加えた。

145話関東出雲国造古墳

145話多珂・海上国造最終
145話新治国造古墳

本図から、何がわかったか。

①多摩川古墳群は、やはり出雲系の氏族では
なかった。
多摩川古墳群の向きは、他の出雲系国造たち
の地を向いていない。
また、他の国造たちの古墳も、多摩川を向い
ていない。

②海上国造と相武国造
千葉県市原市の姉崎古墳群の入口に、海上
国造後裔の、海上氏がおられる。
西方の海老名市にある、相武国造の古墳群
を、2基の前方後円墳が貫く。
また、相武国造の古墳、秋葉山3号墳が、
東方の姉崎古墳群を貫いており、同族と
わかる。

③多珂国造と下海上国造
茨城県高萩市の赤浜1号墳近くに、多珂国造
後裔の、大高氏が多数おられる。
同古墳は、南方の下海上国造の三之分目大塚
山古墳を貫いている。

④新治国造・宮山観音古墳
ブログ筆者が、「大発見だ!!」と叫んだ、
新治国造(茨城県明野町)宮山観音古墳。

同古墳は、墳長91m。
7期の築造で、方位はN108度W。

注目すべきは、同古墳を囲む武井氏の多さ。
茨城県内では、明野町が最多。
武井氏は、太田亮氏の、「姓氏家系大辞典」
によれば、諏訪神家あるいは金刺姓という。

古墳の向き、N108度Wを追いかけた。

埼玉県行田市のさきたま古墳群近くを通る。
同古墳群は、N104~106度Wで、ズレる。
また、古墳群の築造時期は、8~10期であ
り、7期の宮山観音古墳が先行する。
さきたま古墳群は、ターゲットではないと判
断した。

さらに、前方部の線を伸ばすと、大里郡大里
村(現熊谷市)冑山神社に到達した。
祭神は、ズバリ初代武蔵国造兄多毛比命だ。

145話大里村古墳図
145話大里村周辺の人たち

同神社は、径90mという巨大円墳・甲山古
墳上に立地している。
甲山古墳について、武蔵国造兄多毛比命の
墓とする伝承があることは、「埼玉の古墳・
大里」(塩野博著 2004年さきたま出版
会)に、詳しく紹介されている。


ブログ筆者が、この付近を、初代武蔵国造
の本拠と見る理由は、他にもある。

同神社前を、南北に通る国道407号線は、
古代東山道武蔵路と同じ経路だからだ。
武蔵国造の治所は、東山道につながる武蔵
路沿いに必ずあるはずと、考えてきたことと
合致する。

もう一つは、さきたま古墳群の、8基の大型
前方後円墳の向き。
前方部の方位線8本は、放射状に、全て大
里村を貫いている。

魚雷戦で、敵艦を逃すまいとして、少しづつ
角度を変えて、魚雷を発射するように、武蔵
国造の本拠を鎮めようとする、大和朝廷軍の
強い意思が、前方部の方向に表れている。

その到達点は、桜井茶臼山古墳、熊野大社、
伊勢神宮、富士山などであり、出雲ゆかりの
地は全くない。

第一四四話 氷川三社同格の謎

<万博バラ園で太陽の塔の背中に並ぶ>
IMG_5058 (340x255)
2018年5月8日撮影

<茨木市若園バラ園のブラックバカラ>
IMG_5073 (340x254)
2018年5月11日撮影


武蔵国氷川神社の歴史の中で、ブログ筆者
が注目するのは、江戸時代の出来事。

「式内社調査報告」に、同社の祭神について、
次の記載がある。

「現在は主神をスサノヲ尊としている。
スサノヲ、大己貴、稲田姫のいづれを主神と
するかについては、男体社を奉斎する神主
岩井駿河家と、女体社の神主角井(つのい)
駿河家、簸王子社の神主角井監物家との間
に、元禄期に争論が起り、決しがたかった
ため、遂に元禄12年(1699)に公訴
となり、同年9月寺社奉行より、以後は三社
同格と下知された。

しかし、男体社は大祝といわれた岩井氏が
奉仕し、又、例大祭は、明らかに祇園御霊会
の性格を持ち、縁起も祇園会の由来を述べ
ているところから、主神は男体社スサノヲ尊
で、その后稲田姫を女体社とし、御子大己貴
命を三鳥居を入って正面にある簸王子社と
すると考えるのが妥当であろう」(第11巻
東海道6 1976皇學館大学出版部)

江戸幕府は、社格の争いを決着させた30年
後の享保年間に、三社が面していた神池の
見沼を干拓し、実質取り上げてしまった。

6世紀の安閑朝に、武蔵国造の地位を巡り、
出雲氏族と思われる笠原直使主と、同族の
小杵が争い、大和朝廷が決着させたのち、
4ヵ所の屯倉を献上させた事件と似ている。

江戸時代の争いは、古代の争いの再現だっ
たのではないかと、ブログ筆者は感じた。

三社同格との下知(判決)は、それぞれに、
主神とするもっともな理由があった、という
ことになる。

これこそ、笠原直使主と小杵の争いの、核心
と見た。

残念なことに、公訴の主張内容や、寺社奉行
の判決理由を、いまだ目にしていない。

今話では、現代に残されている神社の方位
(参拝線及び正面線)と、神社を囲む人たち
から、三社同格の謎に迫ろうと思う。

次の二枚の図は、大宮氷川神社等の方位図
と、神社を囲む人たちの図。
144話氷川神社方位最終
144話氷川神社囲む人最終

①大宮氷川神社
現在の社殿は、昭和15年(1940)造営。
江戸時代の社殿は、男体社、女体社、簸王
子社が、ほぼ同じ大きさであったとされる。

明治になると、男体社に三神が合祀された。
現在の社殿は、男体社が拡張整備されたこと
になる。

大宮氷川神社の参拝線は、複数の写真で計
測すると、N27度W。
この参拝線は、関東最大の古墳、太田天神
山古墳及び女体山古墳に突き当たる。
さらに延長すると、新潟県柏崎市西山町二田
(ふただ)の物部神社(越後国二宮)に到達
する。

第138話「太田の支配者と鈴鏡の謎を解く」
(2017年12月)で、太田の古墳は物部
氏族と書いた。

太田天神山古墳の方位は、132度30分W。
秩父国造の眠るとされる、秩父郡皆野町国神
塚を通過し、物部(穂積)氏の故地、紀州熊野
大社にいたる。

二田物部は、ニギハヤヒ命の天降りに供奉した、
天物部の筆頭だ。

出雲氏族、諏訪神族であれば、糸魚川市(奴
奈川神社)または諏訪大社、出雲大社を向く
と思われるが、物部氏族所縁の地を向いて
いた。

社殿近くの高鼻町や堀の内町に、岩井氏、
守屋氏の集団と、東西の角井氏。
旧神官家の岩井氏が、物部武諸隅命の後裔
を名乗り、現神官家の東西の角井氏が、物部
姓を名乗っていることと整合する。

②中山(中氷川)神社
中山神社は、大己貴命(大国主命)を主祭神
とし、旧見沼北岸の中川に鎮座する。

ブログ筆者は、第112話「大国主命の背中に
並ぶ一宮たち」(2015年11月)で、出雲
大社におられる大国主命の背中の方向、すな
わちN85度Eの線上に、一宮が並ぶと書いた。

112話大国主の背に並ぶ一宮

中山神社は、大宮氷川神社と同じく、この線
上にあるだけではない。
正面は、出雲大社をピタリと向いている。
これを祀る人たちは、出雲氏族としか考えら
れない。

中川におられるのは、小熊氏の集団。
武蔵国造を巡る争いで、小杵に味方した、上
毛野君小熊の名を戴く人たちだ。
東松山市では、上野氏とともにおられた。
正当な出雲氏族で、実は小杵の後裔ではな
いかと思う。

③氷川女体神社
同社は、旧浦和市三室の東端、宮本に鎮座
する。
見沼のほとりに創建された古社で、大宮氷川
神社とともに、武蔵国一宮と称されてきた。
主神は、稲田姫命。

代々、武笠(むかさ)氏が、同社の神主家と
三室村の名主職を務めてきた。
小室社は、武笠家の屋敷内神社。
西方の木崎御室神社、小室社、氷川女体神
社の祭神は、いづれも稲田姫命。

小室社と氷川女体神社の参拝線は、N50度
Wで、さきたま古墳群同様に、東松山市北部
を通過している。

小室社と木崎御室神社の参拝線は、中山神
社を通過しており、出雲のつながりがここに
見える。
木崎御室神社の正面線は、多摩川古墳群を
向く。

武笠氏とは、どういう人たちか。
太田亮氏は、「新編風土記に、武笠氏 三室
村女体社の神主也。佐伯姓」と書いている。

たしかに、佐伯氏の人たちが、三室におられる。
しかし、ブログ筆者としては、武蔵国造となっ
た笠原直使主の後裔ではないかと見る。

その理由は、ひとつは、行田市のさきたま古
墳群付近に、武笠氏が集中していること。

二つ目は、屯倉のおかれた武蔵国南部橘樹
(たちばな)郡の郡衙は、現在の川崎市高津
区にあった。

その中心には、武田氏(海部尾張氏)が多い
が、多摩川との間の坂戸に、武笠氏が集中し
ておられる。

3つ目は、氷川女体神社東隣に、笠原氏が
おられること。

笠原氏の名前は、大宮市、浦和市に点在す
るが、集中地域が見当たらない。
国造の後裔が、武笠氏となって、稲田姫命を
祀っておられるのではないかと見る。

足立神社と、初代国造兄多毛比(えたけい)
命につながるとみられる武井氏の話は、次回
にさせていただきます。

<茨木市若園バラ園の夜来香>
IMG_5077 (340x255)
2018年5月11日撮影

第一四三話 多摩川に誰がいたのか

<古墳上にある浅間神社>
浅間神社 (255x340)

<テラスより二子玉川方面を望む>
二子(340x255)

桜満開の3月末日、東京都大田区にある
多摩川古墳群を訪ねた。

東急東横線多摩川駅で電車を降りて、まず
向ったのは、南の浅間神社古墳。
8期(後期)の前方後円墳で、墳長60m。
前方部は南南東を向く。

墳頂部は削られ、浅間神社が祀られている。
鈴を鳴らす紐の桐枠に、「長島一茂」と刻ま
れており、ここが田園調布であることを知ら
される。

社殿に参拝後、西側の広いテラスに出る。
南に、多摩川を渡る新幹線が見える。
北に、二子玉川の高層ビル群。

次に、駅の北にある、最大の亀甲山(かめ
のこやま)古墳に向かった。
宝来山古墳と共に、初期の100mを超える
大古墳。

3~4期に、武蔵国南部に、これらの大古墳
を築いた勢力は、何氏だったのか。
それを探るのが、今話のテーマ。
次図は、多摩川古墳群周辺図。

143話多摩川周辺図

本図から、何が見えるだろうか。

①出雲臣氏族・諏訪神族の人たちが少ない。
10期まで連続して古墳群を築造した勢力は、
出雲系氏族ではないように見える。
安閑朝に、武蔵国造の地位を争った小杵の
本拠とする説があるが、笠原直使主と小杵
を出雲勢力と見る限り、成立しないように思
われる。

②2基の大古墳周辺に絞れば、武田・竹田
氏が目立っており、海部尾張氏族の可能性
が浮かぶ。

③鈴木氏(物部氏族)が最多であるが、密集
度を見れば、西に続く野毛古墳群に多い。

次に、多摩川古墳群を向く、関東の古墳たち
を見よう。

143話多摩川向く古墳

2~4期の初期古墳と、8~9期の後期古墳
に、二分されることに気づく。

2期  江南村 塩1号 笠原氏と出雲乃伊波比
    神社  出雲系氏族と判定
3期  東松山市 天神山 鈴木氏と大野氏
    物部氏族と判定
3期  真岡市 山崎1号  武田氏
    海部尾張氏と判定
4期  高崎市 浅間山 隣接の佐野古墳群が
     保渡田古墳群を向くので、毛野氏族と
    判定。最初の着任者と見る。
4期  東松山市 高坂諏訪山 鈴木・長谷部氏
    と大野氏  物部系氏族と判定
8期  前橋市 今井神社 池田氏
    毛野氏族と判定
8期  東松山市 おくま山 鈴木氏と大野氏
    物部氏族と判定
8期  小山市 茶臼山  石上氏
     物部氏族と判定
8期  宇都宮市 塚山南 隣接の6期塚山
古墳が大荒比古神社を向いており、
毛野氏族(大野氏)と判定
9期  境町 上武士天神山  池田氏
     毛野氏族と判定

出雲・海部尾張・物部・毛野氏族から、敬意
を払われた勢力とわかる。

初期と後期に二分された理由を考えてみた。

毛野氏族が着任する前の、2~3期に、既に
多摩川は、有力勢力だったと見てよいだろう。

景行朝の、日本武尊東征は、3期頃か。
その東征の成否は、既に進出していた豪族
たちの協力を得ることが不可欠だったはず。

同行した主な人物は、
・おじの吉備武彦。(吉備氏)
・大伴武日連。(大伴氏)
・妃の弟橘媛は、穂積臣の女。(穂積氏)
・建稲種命は、尾張火高で娶ったみやず媛
の兄。(尾張氏) 
・物部宅勢連 氷川大神斎となる (物部氏)

東国には、既に物部(穂積)、尾張氏が進出
していたと推測する。
尾張氏は、海人族なので、南部の海岸に近
い地を拠点に選んだと見る。

5~7期(中期)に、多摩川を向く古墳が見
当たらない。
これは、物部勢力の大伸長と、毛野勢力が
下野国と分割されたからか。

8~9期(後期)の古墳が、多摩川を向く。
これには、継体天皇即位が影響していると
見る。
尾張氏を重視し、目子媛の産んだ2皇子が
皇位を継ぐ。
尾張氏が、再び浮かび上がった時代だ。
それは、神武以前の、正統な王家であった
からに違いない。

南武蔵多摩川古墳群を築いた勢力は、海部
尾張氏族、というのが、ブログ筆者の見解だ。


それでは、この一族は、有名な武蔵国造の
地位をめぐる争いでは、どちらの勢力に味方
したのだろうか。

毛野氏族でも、池田・大野氏の囲む古墳が
多摩川を向く。
同じ毛野氏族でも、上野氏の古墳は向いて
いない。

次の二枚の図は、東松山市周辺の古墳図と、
囲む人たちの図。

143話東松山周辺古墳図
143話東松山人たち

上野氏は、埼玉県内では、東松山市の、北
中部・滑川町に集まる。
上野氏集団の中に、小熊氏もおられる。
ここにある古墳は、多くが北の方角を向いて、
上毛野君とのつながりを求めているようだ。

一方、これらの古墳を、行田市の埼玉古墳
群の前方部の線が、放射状に抑え込んで
いる。
埼玉古墳群の周りは、鈴木・内田氏(物部
氏族)と大野氏(毛野氏族でも大荒田別命
の後裔)。
東松山市南部の古墳群と、同一勢力だと
気づいた。

結論を言えば、上毛野君小熊と結んだ、
小杵の勢力は、東松山市北中部、吉見町
(横見)、滑川町を中心とする勢力であった
と、筆者は見る。

氷川神社との関係は、次話にいたします。

<多摩川を渡る新幹線>
新幹線 (340x255)

<亀甲山古墳横からの国見>
国見(340x255)

総目次(第一話~第一四二話)

溝咋神社と桜(2018年3月28日撮影)
IMG_4914 (340x255)
IMG_4863 (340x255)

総目次
• 第一四二話 継体宮を向く井出二子山古墳 (04/01)
• 第一四一話 上毛野君の古墳(伊勢崎編) (03/11)
• 第一四〇話 上毛野君出現前の古墳たち (02/26)
• 第一三九話 栃木県南部の初期古墳を判定する (01/27)
• 第一三八話 太田の支配者と鈴鏡の謎を解く (12/24)
• 第一三七話 グーグルホームと邪馬台国 (12/12)
• 第一三六話 武蔵国造と上毛野君の本拠地 (10/21)
• 第一三五話 埼玉古墳群の向くところ (09/16)
• 第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編) (09/03)
• 第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた (08/13)
• 第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか (07/19)
• 第一三一話 筑紫君への道 (06/20)
• 第一三〇話 葦分神社探訪記 (06/01)
• 第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏 (04/15)
• 第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2) (03/23)
• 第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1) (02/22)
• 第一二六話 八代の前方後円墳の主たち (01/29)
• 第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者 (01/04)
・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

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第一四二話 継体宮を向く井出二子山古墳

<継体天皇樟葉宮跡>2018年3月27日撮影
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<樟葉宮跡は交野天神社境内にある>
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今話は、高﨑市(旧群馬町)保渡田古墳群
と、前橋市総社古墳群の、大形前方後円墳
を判定する。

対象古墳は、保渡田古墳群では、
井出二子山  8期 108m
保渡田八幡塚 8期 102m
保渡田薬師塚 8期 105m

総社古墳群では、
 遠見山 8期 70m
 総社二子山 10期 90m
 穂積稲荷山 10期 90m

読者の皆様には、最初に、前橋・高﨑市域
主要古墳の、位置と前方部の方位を記した
分布図を見ていただく。

142話前橋高﨑古墳分布図最終

本図から、古墳間のつながりを読み取ること
ができる。

①保渡田古墳群と下佐野古墳群
保渡田古墳群の井出二子山古墳(8期)を、
下佐野古墳群の長者屋敷天王山古墳
(4期)と、下佐野寺前6号墳の前方部方位
線が通過する。

保渡田古墳群は、井野川上流にあり、下流
の綿貫古墳群とのつながりを指摘する説も
あるが、本図からは、浅間山古墳を含む
倉賀野・下佐野古墳群との関係が深いと
読み取れる。

②綿貫古墳群・下郷古墳群・金古古墳群
綿貫古墳群の方位は、下郷古墳群の方位と
ほぼ同一であり、同じ一族と見る。

ブログ筆者の注目は、綿貫観音山古墳
(10期)の方位線が、金古古墳群をかすめる
ので、つながりありと見る。

③王山古墳と前橋二子山古墳
総社古墳群に含まれる王山古墳(9期)は、
越後の弥彦神社を指している。

また、前橋二子山古墳(10期)の方位線が
貫通することから、前橋八幡山古墳と同じ
物部氏族と見る。

④総社古墳群と金古古墳群
穂積稲荷山古墳と総社二子山古墳は、金古
古墳群をかすめる。
また、金古入道山古墳は、総社古墳群をかす
めており、つながると見る。

⑤金古古墳群と北谷豪族居館遺跡
金古古墳群中の金古高山古墳の方位線は、
北谷豪族居館遺跡を通過する。
北部を北谷の首長が、南部を三ツ寺の首長
が支配していたか。

142話保渡田古墳群

三古墳は、井出二子山、保渡田八幡塚、
保渡田薬師塚の順に築造されたといわれる。
築造時期は、5世紀後半説と、6世紀前半説
があるようだ。

「群馬県史資料編3」(1981年)は、群馬町
保渡田八幡塚古墳について、こう書く。

「昭和45年の調査では、本墳の築造が、榛
名山二ツ岳の前期噴火の直後にあたること
が、周堀内堆積物の状況によって確認され、
(中略)本墳は、6世紀前半に、榛名山南麓
の井野川流域に支配権を確立していた豪族
によって構築されたものと推測したい」
(P.346 梅沢重昭氏)

<井出二子山>
同古墳の方位、N120Wにピタリと合致
するのは、大阪府枚方市樟葉丘の、継体
天皇樟葉宮跡。
現在は、交野天神社境内の小丘。
同宮は、継体天皇が即位し、5年間(507?
~511?)宮とした地。

方位にブレがあったとしても、
N118W  継体弟国宮(518?~526?)
N119W  継体今城塚古墳
N121W  継体筒城宮(511?~518?)
と、所縁の地を指している。

本古墳は、継体天皇の在位初期に築造され
たと見る。

上毛野氏族は、尾張氏とともに、継体朝を
支えた、東国勢力であったと見る。
九州の筑紫君、東国の上毛野君の両方を
同時に敵にまわすことは、しなかったろう。

<保渡田八幡塚>
保渡田八幡塚の方位、N171Eは、秩父を
向く。
榛名山噴火を受けて、南方の領地の守護
を願ったものか。
それとも、東国開拓の祖を向くのか。

<保渡田薬師塚>
保渡田薬師塚の方位、N113Wは、滋賀県
高島市の大荒比古神社にピタリ合う。
大荒比古命の後裔、大野氏の集団は、古墳
群の南方に集まる。
また、紀氏族の菊池氏の集団もおられる。

南に移った首長が、上小塙稲荷山90mを
築いたと見る。

保渡田古墳群と三ツ寺豪族居館遺跡を囲む
人たちで、筆者が注目するのは、矢島氏と
福田氏。
諏訪神族の矢島氏と結びついた上毛野氏族
の跡を、福田氏の集団が今も守っておられる
のか。

<道場1号墳>
三古墳の南にある道場1号墳(10m)は、
上越市を向いている。
長野氏(物部氏族)の集団を、背にしている
ので、物部氏族と判定する。


142話総社古墳群

利根川西岸に築かれた、前橋市総社古墳
群の北支群は、6世紀後半の3基の大形
前方後円墳の他、7世紀の大形方墳、
宝塔山古墳と蛇穴山古墳を含む。

大形前方後円墳の前方部の方位は、
遠見山  109W 塩尻を経て気比神宮
総社二子山  75W 羽咋気多大社
穂積稲荷山 89W 白山比売神社

気比神宮は、応神天皇所縁の地。
白山比売神社は、アマテラスのおば。
羽咋は、継体母の振姫につながる地。
方位からは、上毛野君の古墳と判定できる。

古墳を囲む人たちはどうか。
毛野氏族は少ない。

それでも、7世紀末まで、大形方墳が造られ
たこと、上野国衙が南方に造られたこと等を
思えば、大国主の血を引く諏訪神族と結んだ
上毛野君一族と判定する。


<継体樟葉宮付近の高台から西方を望む>
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第一四一話 上毛野君の古墳(伊勢崎編)

今話は、現伊勢崎市域の古墳について、
判定を試みた。
最初に全体図を示した後、5つのエリアに
分けて、分析・判定を行った。

141話伊勢崎編全体図

141話御富士山

御富士山古墳(5期)は、広瀬川と荒砥川の
合流点にあり、大型前方後円墳としては、
市域で最初に登場した。

ブログ筆者は、被葬者を上毛野君と判定した。
理由は次のとおり。

北西の前橋市域にある、今井神社古墳(8
期)前方部の方位は、御富士山古墳をかす
め、多摩川古墳群に至る。
両古墳は、血縁のつながりがあると見る。
今井神社古墳周辺は、池田氏(毛野氏族)
が集まるので、同族と見た。

奈良氏の大集団は、橘奈良麻呂の後裔と
する説(群馬県姓氏家系大辞典:角川
書店)もあるが、他地域では、毛野氏族の
奈良原氏(三夜沢赤城神社神官家)と
隣接しておられるので、本来は毛野氏族と
見る。

埼玉県東松山市所在の、雷電山古墳(5期
)より、35度Wの線が、御富士山古墳を貫く。
諏訪神族の矢島氏と、上毛野氏族が結び
ついたのが、この被葬者か。

御富士山古墳の前方部は、106度W。
諏訪氏族の下諏訪を通過し、応神天皇と
所縁の深い気比神宮を指している。

本古墳を築いた勢力は、東北部、波士江町
の大野氏(毛野氏族)と見る。

141話前赤堀茶臼山最終

赤堀茶臼山古墳(6期)は、伊勢崎市北部の
旧赤堀町にあり、御富士山古墳(5期)に続き
築造された。

前方部の向きは、91度30分W。
大室古墳群の後二子山古墳を貫いて、群馬
町、小松市、さらに韓半島に至る。

6期は、仁徳朝頃だ。
西方の、大黒塚古墳(9期)や大室古墳群
(9期)も、まだつくられていない時期。

旧赤堀村側では、阿部氏の人たちが最も
近いが、部下だったろうか?
物部氏族の人たちは、近くにおられないこと
から、上毛野君一族と判定する。

「赤堀村誌上」(1978年)は、赤堀茶臼山
古墳について、
「中央の丘陵地は、上毛野君竹葉瀬命の弟
田道命の居住した館跡である」との説を、力
を込めて書いている。

日本書紀仁徳紀53年は、上毛野君竹葉瀬
命が新羅に派遣されたこと、後に弟の田道
命が新羅と激しく戦ったことを記している。

とすれば、御富士山古墳が上毛野君竹葉
瀬命であり、赤堀茶臼山古墳は、弟の田道
命が、遥かに韓地を眺めているのか?

141話丸塚山

本図は、前図の南側で、伊勢崎市域の中央
部にあたる。
粕川に沿って、古墳が造られている。

(華蔵寺裏山古墳)
「前方後円墳集成東北関東編」(1994年
山川出版社)は、伊勢崎市域で最古の3期
古墳とする。
既に破壊され、原形が失われており、方位
角度がわからない。

古墳周辺に、毛野氏族の人たちは見えず、
物部氏族も少ない。
菊池氏(紀氏族)、大賀氏(三輪氏族)、藤井
氏(鴨県主氏族)が目立つので、紀氏族を母
に持つ豊城入彦命の、先遣隊の古墳と見る。

(丸塚山古墳)
赤堀茶臼山古墳(6期)に続く、7期の古墳。
方位174度Eは、広瀬川と粕川の合流点
付近を目指したものか。

古墳西方に、上植木廃寺跡がある。
寺域の中心には、矢島・鈴木・鯉登氏がおら
れる。
諏訪神族と繋がった後の、上毛野君一族と
見る。

(五目牛二子山古墳・五目牛清水田古墳)
両古墳は、旧赤堀村域の南端にある。
菊池氏(紀氏族)と神沢氏(諏訪神族、後に
藤原氏族)の大集団がおられることから、
上毛野君一族と判定する。

五目牛清水田古墳は、伊勢神宮を向く。
豊城入彦命の同母妹、豊鍬入姫命が、アマ
テラスを笠縫に祀ったことにつながる。

(片田山古墳)
同古墳の南側に、内田氏(物部氏族)の大
集団。
方向線は、大黒塚古墳を経て、柏崎市に
向かう。
片田山古墳は、物部氏族と判定する。

(荷鞍山古墳)
豊城町にある10期の古墳で、南東を向く。
著者が関心を持ったのは、東側の権現山。
ここにも、鯉登氏がおられる。
また、権現山にある蓮神社は、豊城入彦命
を祀る。
同古墳も、上毛野君一族と判定する。

141話上武士天神山

上武士天神山古墳は、広瀬川と粕川の合流
点にある。
池田氏(毛野氏族)が、大集団をなしており、
上毛野君首長墓と判定する。

高木氏(紀氏族)も多い。
九州の博多湾岸を、高木氏は埋め尽くす。
筑紫肥前肥後に繁栄した、紀氏族が、豊城
入彦命の母方であるのを知れば、根拠を補
強するものとなる。
後世に、上野国守護が、この地に居館を置い
たのも、上毛野君首長の地と知ったためか。

筆者が注目するのは、古墳周辺の川田氏と
松島氏。
川田氏は、前図で、原之城(げんのじょう)
豪族居館跡の周りを囲む人たち。
原之城も、上毛野君の遺跡と判定できる。

141話雷電神社跡古墳

伊勢崎市東部、旧東村と旧境町エリアには、
4基の古墳がある。

北側の雷電神社跡古墳(10期)と下谷A号
古墳(10期)は、大野氏(毛野氏族)、萩原氏、
松島氏に囲まれており、上毛野君一族と判定
する。

雷電神社跡古墳の方位は、赤堀茶臼山古墳
付近を通過し、下谷A号古墳は、三夜沢赤城
神社を指しており、これも根拠となる。

南側の上淵名雙児山古墳(10期)と、采女
村30号古墳は、どうか?

上淵名雙児山古墳は、大室山古墳群に向い、
采女村30号古墳は、赤堀茶臼山古墳を貫
通する。
方位からは、上毛野君の可能性が高いが、
周辺に毛野氏族の人たちが少ない。
判定を保留する。


<<ブログ筆者のあとがき>>
読者の皆様には、もう気がつかれたと思う。
上毛野君の古墳と判定するカギは何か?

<カギ1:方位はアマテラス>
豊城入彦命の母は紀国造家の出身。
紀氏族は、アマテラスとのつながりが深く、
妹は、アマテラスを祀った。

このため、古墳の方位は、
アマテラス大神を祀る伊勢神宮を向く。
あるいは、アマテラスの叔母で、乳母を務め
た、白山姫所縁の神社や白山を向く。
あるいは、親戚の皇子たちを祀る神社を向く
などが、カギとなる。

<カギ2:古墳を囲むひとたち>
池田、上野、大野など、毛野氏族が集まる
古墳は、100%上毛野君。
毛野氏族がおられずとも、高木・菊池・川瀬
氏などの紀氏族や、萩原氏・川田氏・松島
氏・福田氏などが集まる古墳も、可能性が
高い。

今回、入手したカギを手にして、高﨑・前橋
の古墳判定に進もう。
次回、保渡田古墳群に関わる三ツ寺豪族
居館跡を囲むのも、福田氏だ。

第一四〇話 上毛野君出現前の古墳たち

上毛野君の古墳が、最初に築造されたのは、
いつ頃だろうか。

140話上毛野君系譜

日本書紀は、驚くことを書いている。
「景行55年、豊城入彦命の孫、彦狭嶋王を
東国の都督に任じたが、病気で薨去した。
東国の百姓は、その王がこられないのを
悲しみ、ひそかに王の屍を盗み、上野国に
葬った。
翌年、御諸別王に東国を治めるよう命じ、
王は東国に行って統治した」

群馬県の中・西部には、多数の古墳がある。
彦狭嶋王又は御諸別王の陵と言われる古
墳が、いくつもあるが、どれが正当なのか。

いっぺんに答えを出すのは難しい。
古墳時代から現代まで積み重なった、人の
層を、一層ずつ剥がす作業が必要だった。

今話では、その謎解きの序章として、中・西
部にある、古墳編年2・3期の古墳の判定に
取り組んだ。

140話群馬初期古墳の向き最終

本図に登場する古墳を、個別に見ていこう。

①元島名将軍塚古墳
同古墳には、島名神社があり、彦狭嶋王が
祭神となっている。
しかし、古墳周りには、内田氏4件、鈴木氏
1件で、毛野氏族の人たちはおられない。
物部氏族と判定する。


140話玉村町古墳

②玉村町下郷10号墳
同古墳周りには、物部・毛野氏族の人たち
がおられない。
囲むのは、清和源氏の後裔と伝える石関氏
たち。
隣接する古墳の方向は、香川金刀比羅宮と、
小野神社を向いている。
また、高﨑下佐野古墳群の漆山古墳の線が
本古墳を通過する。
金刀比羅宮から、物部氏族と判定する。

③玉村町川井稲荷山古墳
古墳周りには、毛野氏族の人たちがおられ
ない。
北東に、鈴鏡を出土している大塚越3号墳が
ある。

前橋市東片貝町の桂萱大塚古墳(10期)の
線が、本古墳を貫通する。
桂萱大塚古墳の周りは、鈴木氏15件で、
毛野氏族の人たちはおられない。
物部氏族と判定する。

140話前橋広瀬古墳群

④前橋八幡山古墳
2期の大古墳は、東国開拓神を祀る小野神
社を向く。

⑤前橋天神山古墳
本古墳の方位は、元島名将軍塚古墳をか
すめ、高﨑浅間山古墳(4期)を通過する。

朝倉広瀬古墳群におられる人たちを、最も
古いデータと照合すると、物部氏族が残る。
両古墳とも物部氏族と判定する。

140話前橋市初期古墳

⑥荒砥中山A1号墳
あえて言えば、スサノオ命につながる須賀
氏か?
⑦堤東2号墳
あえて言えば、海部尾張氏か?

磐座のある古代祭祀の行われた小山を、
左右から守るように、2つの小規模な初
期古墳がある。
物部・毛野氏族の人たちが、ほとんどおら
れない。

中心にある大黒塚古墳からは、鈴鏡が
出土している。

大黒塚古墳を囲む鯉登(こいと)さんたち。
戦国時代に、千葉県君津の小糸からきて、
産泰神社を祀ったと伝える。
君津から鈴鏡が出土したことは、前に書いた。

元は小糸氏。
全国では、鈴木氏の多い地域におられるが、
君津市小糸は、毛野氏族の人たちが集まっ
ている。

大黒塚古墳と大室山古墳群(前中後二子)
の判定は、独立した一話を要する。

第一三九話 栃木県南部の初期古墳を判定する

栃木県内の市町村史には、共通して登場
する図がある。

それは、栃木県内の初期古墳分布図だ。
「殆ど前方後方墳なのが特徴」と書く。

最初に、図に出会ったのは、二宮町史。
ブログ筆者に、ピンとくるものがあった。
「これは、手法の確認に使えるぞ」

登場する古墳は、いずれも、古墳編年が
2-4期。
下野国造に、奈良別命が最初に任じられ
た時期は、仁徳朝とすれば、編年5期頃。
毛野氏族は、この中にいないと見て良い。

古墳周辺図を作り、前方部の方向と、古墳
を囲む人たちから、被葬者氏族を判定する
筆者の手法が、有効か確認できると見た。

判定対象古墳のリストは、次表のとおり。
参考に、5-6期の前方後円墳も加えた。

139話栃木那南部古墳リスト修正

139話1藤本観音山浅間山


藤本観音山古墳は、前話で書いたとおり、
物部氏族。
宇都宮市茂原大日塚古墳(2期)の方向線
が向いているので、同族と見る。

10期に正善寺古墳が、その線上に築造さ
れている。
正善寺古墳の方向線は、太田天神山古墳
(5期)をかすめている。

足利市南端に所在する小曽根浅間山古墳。
2期で最古の前方後円墳は難問だ。

方位は、後に鈴鏡を出土した、足利市助戸
を指し、その先は新潟市に至る。
古墳の北西には、鈴木氏集団と、生駒神社
があることから、物部氏族か。
ただし、古墳を囲む神谷氏は、海部尾張氏
族に近いと見る人たちだ。

139話2佐野市

松山古墳は、囲む人たちから物部氏族。

多摩川を向く古墳は、いくつもあり、被葬
者は何氏族か知りたくなるところ。

古墳を囲む人たちをプロットすると、多摩
川古墳群の前方後円墳は海部尾張氏で
あり、鈴鏡を出土した円墳等は、物部氏
族だと、ブログ筆者は見ている。

馬門愛宕塚古墳は、例外の前方後円墳。
何故、前方後円墳かわからないが、佐野の
南口を守っており、物部氏族と見る。

139話3藤岡町大枡塚

山王寺大枡塚古墳の方位は、「藤岡町史」
記載の実測図により、55度Wと計測。
石上氏を向くので、物部氏族と見る。

隣接する小山市域に、8期に築造された
茶臼塚古墳等も、近くに石上氏がおられる
ので、物部氏族と見る。


139話4茂原古墳群

本図は、第134話鈴鏡東関東編でも使った。

リスト中で、最古の初期前方後方墳である
茂原大日塚古墳(2期)は、はるかに足利
市藤本観音山古墳を指している。
その先は、香川県金刀比羅宮に至る。

茂原愛宕塚古墳と茂原権現山古墳はほぼ
南を向く。
南河内町絹板にある別処山古墳(10期)
は、鈴鏡を出土。

別処山古墳周りには、毛野氏族配下と見る
伊沢氏がおられるので、別処山古墳は毛野
氏族と今回判定する。


139話5南河内町三王山南塚

「南河内町史」は、三王山南塚2号墳に
ついて、
「すぐ北の朝日観音遺跡から出土した土器
と同じ弥生土器が出土したことから、その
集落と関連が強い」と書いている。
物部氏族と見る。

7世紀初頭には、さらに北方に、三王山古
墳等が築造された。
中央で物部宗家が滅亡した後である。
上野氏の集団から、毛野氏族と見る。


139話6市貝町上根二子塚

二つの古墳は、物部氏族。


139話7益子町星の宮浅間塚

4期の星の宮浅間塚古墳は、東方の入定塚
古墳を通過して、鹿島灘に至る。
入定塚は、栃木県史通史編1によれば、5
世紀後半の築造。

七井は、物部氏族が中心と見る。


139話8真岡市山崎古墳

山崎1号墳、2号墳ともに、多摩川古墳群
を向く。

古墳を囲む高松氏が、どちらの勢力なのか
わからない。
他の地域では、高松氏の隣家は、武田氏で
あったり、鈴木氏であったり。
ここでは、南方の武田氏の集団を優先して
考える。


139話9芳賀町八ツ木古墳

古墳を囲む人たちは、物部氏族。


139話10芳賀町亀の子

古墳を囲む大根田氏は、芳賀町が全国最多
だが、よくわからない。
大田亮氏の「姓氏家系大辞典」でも、
コメントなし。

同じ稜線上に、穴不動古墳があり、武田氏
が囲む。
南方の武田氏の大集団を考慮すれば、海部
尾張氏族と見る。

139話11おまけ奈良別古墳

これは付録。

1977年に再版された、宇都宮市史は、
「崇神48年 豊城入彦命
景行56年 御諸別王 東国都督
仁徳朝 毛野国を上毛野、下毛野2国に
わけ、豊城入彦命4世孫奈良別命を国造。
宇都宮付近を中心として統治したるもの
なるべし」

奈良別命の古墳候補は、図の3古墳。

<江曽島雷電山古墳>
「宇都宮の旧跡」(1989年)は、
「江曽島城は、未確認ですが全長230m
の大前方後円墳(雷電山古墳)の上に築
かれた城で、古墳の周溝をそのまま堀に
用いたともいわれています」

実在したとすれば、間違いなく奈良別命の
古墳だが、あまりに情報が少ない。

現状は、宇都宮氏(藤原氏族)の後を受
け、藤原氏族の人が多く囲む。
毛野氏族とその協力氏族の人は、近くに
見当たらない。

<東谷笹塚古墳>
ブログ筆者は、従来、同古墳周りに、毛野
氏族の人たちがおられないので、物部氏族
と考えていた。

今回詳細に見ると、古墳周りに、毛野氏に
近い福田氏16件。(47年前のデータ)

東に隣接する上三川町磯岡には、毛野氏
族に早くから配下となった伊沢氏9件。
さらに鬼怒川との間に、上野氏10件。

また、同古墳方向線は、毛野氏族が囲む
三夜沢赤城神社を指す。
(一方、二宮赤城神社周りは、物部氏族が
囲む)
これらから、毛野氏族と判定する。

<塚山古墳>
同古墳方向線が通過する、壬生町羽生田
には、奈良氏が集まる。

その先、琵琶湖西岸、滋賀県新旭町の大
荒比古神社に至る。
この神社は、上毛野君祖、大荒田別命と
豊城入彦命を祀る。
別名河内大明神。

大荒田別命は、豊城入彦命4世孫。
初代下野国造奈良別命も、豊城入彦4世
孫(国造本紀)又は6世孫(姓氏録)。

同古墳近くには、物部氏族の人たちが
おられない。
近くに、奈良氏、三島氏、伴(大伴)氏。
奈良別命には、弟がいたと姓氏録にある。

第一三八話 太田の支配者と鈴鏡の謎を解く

鈴鏡の出土面数は、群馬県が最多。

最初は、「鈴鏡西関東編」をあっさりと
書くつもりで調べていた。

関係市町村史誌を、みんぱく等で読んだ。
古墳の説明は詳しいが、最後に、「残念な
がら被葬者はわからない。ただ上毛野君が
有力な氏族だった」で終わるものが多い。

県内大古墳の被葬者が、全て上毛野君
氏族であるかのように感じさせられた。
また、鈴鏡についても、上毛野君のものと
示唆する記述が見られた。

はたして、そうだろうか。

群馬県内の古墳被葬者の謎を解かねば、
鈴鏡が集中する本当の理由も解明でき
ないと感じた。

このままわからないままで、人生を終わ
るよりも、「半分でも正解だったら良い。
自分なりの答えを出してみよう」
そう決心した。

各前方後円(方)墳ごとに、前方部の
向く目標推定地、方向線が貫通又は
接する他の古墳、逆に貫通又は接さ
れている他の古墳の表と、各古墳を
囲む氏族勢力図を、全力で作成した。

皆様に見ていただくために、県内地域を
いくつかに分け、注目する古墳に絞って、
図に表示することにした。

今話は、東毛の太田市域を取り上げた。
大泉町と千代田町も含めた。
ここは、古墳時代前期に、西方の前橋等
と並び、大古墳が築かれた地。

今話の結論を先に云えば、
①太田市域の古墳被葬者
物部氏族とその協力氏族が被葬者。
毛野氏族の古墳は、この地域には見当た
らない。

②鈴鏡の保有者
鈴鏡は、新規開発地域の古墳から出土
している。
保有者は、物部氏族と協力氏族である。

138話太田古墳と方位最終

①前期古墳(2~3期) 赤色表示
太田の象徴といわれる金山南麓の、2期
太田八幡山古墳は、富士山を指して築造
されている。
利根川下流の、3期古海松塚古墳は、
浅間山(火山)を指している。

2期屋敷内B1号墳は、前橋天神山
古墳を通過する。
この時代の盟主を指していると見る。

東方を守る、2期矢場鶴巻山古墳は、
同期の屋敷内B1号墳を通過し、諏訪上
社本宮に至る。
3期の、藤本観音山古墳は、同期の矢場
薬師塚古墳を通過後、太田北方を守る
2期寺山古墳を通過し、糸魚川に至る。

これら東方の3古墳は、諏訪、糸魚川に
繋がる人たちと見られる。

南方を守る、富沢7号墳と朝子山古墳。
朝子山古墳は、南東の古海を向いており、
同族らしい。

②中期古墳(4期~6期) 緑色表示
西方の、4期別所茶臼山古墳、東方の関
東最大で5期の太田天神山古墳、南東の
5期古海天神山古墳が該当する。

別所茶臼山古墳は、武蔵国小野神社を、
太田天神山古墳は、紀州熊野を指して
築造されている。

古海天神山古墳は、古海松塚古墳を通
過し、石川県寺井町和田山古墳群に至る。

③古墳中期(7~8期) 青色表示
北西の7期太田鶴山古墳、南西の7期
米沢二ツ山古墳、南東の古海松塚11号
墳、北東の8期焼山古墳が該当する。

古海松塚11号墳は、古海天神山古墳
同様に、石川県寺井町和田山古墳群
に至る。

④古墳後期(9~10期) 茶色表示
9期に、南方の東矢島に、100m級の
4古墳が築造される。
いずれも、総社古墳群を向く。
この時代の盟主を指していると見る。

北西の、10期二ツ山1号墳は、昭和村を
向く。
南東の10期真福寺観音山古墳は、諏訪
湖と出雲大社を向く。

同期の真福寺八幡山古墳は、東矢島古墳
群、別所茶臼山古墳を経て、大室山古墳群
を通過する。
繰り返し確認したところでは、後二子古墳
と中二子古墳を貫通している。

この時代の盟主墳と考えられるが、前橋編
で再検討する。

138話太田氏族密集地最終

本図は、太田市域の氏族集中地域を示す。
姓氏データは、46年前のデータ。

なぜ、毛野氏族(池田、大野、上野)が
ないのか。

17年前(2000年)のデータで作成
すると、結構プロットされるが、46
年前のデータと照合すると、ほとんど
が消えてしまう。
新しい家だった。

太田市域の古墳は、ほとんど物部氏族だ。

ブログ筆者が、迷ったのは、武内氏族が
いくつかの古墳被葬者ではないかという
ことだった。
群馬県内で、武内氏族最多の市が太田市
だからだ。

太田天神山古墳と米沢二ツ山古墳付近を
詳しく調べると、密集地は若干古墳から
距離が離れていると見た。

南方の、富沢7号墳は、物部氏族に同行
した大隅氏族が被葬者と見る。

138話太田古墳と鈴鏡出土古墳最終
本図は、太田市域の、鈴鏡出土古墳図。
鈴鏡は、物部氏族集中地域の古墳から
出土していることが、はっきりわかる。

北西の、二ツ山1号墳からは出土して
いないが、前方部が指す昭和村の古墳
から鈴鏡が出土している。

南東の、古海松塚11号墳は、鈴鏡を
出土しているほか、向かっている和田山
1号墳からも出土している。

最大の発見は、本図外の西方、玉村町
の大塚越3号墳前方部が指す方向線
(87度E)上に、兵庫塚古墳(旧
新田町)、太田八幡山古墳、矢場薬師
塚古墳がならぶこと。

兵庫塚からは、鈴鏡が出土している。
新田町上江田は、埼玉県内を含めて、
関東の須賀氏の総本拠地。

スサノヲ命につながる、有力な人たちで
ある。

太田八幡山古墳と矢場薬師塚古墳を
貫通していることは、鈴鏡は物部氏族の
ものであった証拠と見る。

また、新規開発地域から出土している
ことは、物部氏族が、同族又は協力氏族
に対し、その功により贈物としたと見る。


第一三七話 グーグルホームと邪馬台国

永観堂より京都市内を望む
(2017年11月撮影)
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「時代に遅れないように」と言って、子供
からグーグルホームをもらった。

セット完了で、早速質問してみた。
「ねえ、グーグル。
邪馬台国はどこにある?」
「邪馬台国は、東京都新宿区歌舞伎町に
あります」と即答してきた。

すぐに、古代史人工知能を相手に、古代史
論争をする時代が来そうだ。

しばらく、ブログを更新できなかった。
美しい紅葉の季節。
京都や奈良に遊んだ日もあるが、鈴鏡出土
古墳の位置を、各地の市町村に照会して、
教えていただいた。

また、群馬県内の前方後円墳の謎解きの
ために、縦1.5m、横2mの地図を貼り
合わせ、古墳位置と、前方部の方向線、
周囲を囲む人たちをプロットする作業を、
コツコツとやっていた。

この古墳の被葬者は、何氏族なのか?
どの古墳と親しい関係にあるか?
大きな地図で、推理を試みている。

古墳前方部が指す方向は、高い確率で、
重要な情報を示している。


大阪梅田阪急百貨店のクリスマス飾り
(2017年12月撮影)
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第一三六話 武蔵国造と上毛野君の本拠地

秋のバラ園とみんぱく(2017年10月撮影)
IMG_4228 (340x255)

今話テーマは、誰もが答えを知りたい謎。

ある日、古代史の神様がヒントをくれた。
「武蔵国造の本拠を探しているようだな。
諏訪を向く古墳を調べてごらん」

武蔵国造の古墳が、諏訪を向くだろうか。

出雲系氏族は、前方後円墳を造ることが
少ない。
そんな思い込みが、謎解きを難しくして
いたかも知れない。

早速、埼玉県内の古墳で、信州諏訪を向く
古墳を拾うと、次のリストができた。
136話埼玉地図最終
・行田市さきたま古墳群に、諏訪を向く古
墳はなかった。

・埼玉県北西部の児玉郡・大里郡に、諏訪
を向く古墳が4基集中する。
いずれも8期以降の後期古墳であり、8期
は雄略朝、9期は継体・安閑朝にあたる。

・諏訪湖周辺の前方後円墳は、1基のみ。
下諏訪町、青塚古墳(57m22度W 
9期)。

大阪千里万博公園内、みんぱく図書室で、
これら古墳について、書いている本に出合
った。

「北武蔵における古式古墳の成立」
(菅谷浩之著 1984年児玉町教育委員会)

「児玉町に存在する古式古墳の中でも、銚
子塚古墳と生野山16号墳の二基は重要
であり、双方とも前方後円墳である。
6世紀に入って築かれた古墳と考えられる
が、銚子塚古墳は鷺山(さぎやま)古墳
の系譜、生野山16号墳は、物見塚古墳か
らの系譜を辿る重要な意味を持つ前方後
円墳である(P.69)」

「最初に築かれた鷺山古墳は、4世紀第3
四半期前後と想定。
鷺山古墳の後が、金鑚(かなさな)神社古
墳と生野山将軍塚(5世紀前半)。
生野山9号、10号、14号(5世紀第3
~4四半期)。
生野山銚子塚(6世紀第1四半期)。
生野山16号墳(6世紀第2四半期)
(P.86)」

前方後方墳から円墳へ、そして前方後円墳
に移行したことがわかった。
同書には、これらの古墳を築いた勢力に
ついての記述がないのが惜しい。

次図は、児玉町・美里町・岡部町の古墳
周辺図。

136話児玉郡古墳周辺図画像

古墳を囲む人たちで、ブログ筆者が注目し
たのは、
鈴木氏・内田氏(物部氏族)
笠原氏(諏訪神族)
矢島氏(諏訪大神建御名方命後裔)

鷺山古墳は、秩父を経て富士山に向く。
1期は、彦狭島命や日本武尊より古い。
7期の美里諏訪山古墳も秩父を向く。

東国開拓の祖、高皇産霊尊の子、思金命の
子、天下春命につながるか、敬意を表して
いることは間違いない。

だが、8期以降、諏訪を向くのはなぜか。
諏訪氏族が中心になったと考えてよいか。

参考までに、諏訪湖周辺の件数。
 区分  笠原 矢島 鈴木 内田   
茅野市  35 210 70  20
諏訪市 180 120 40  10
下諏訪町 35 20  20   10
岡谷市 180 35  30   10

諏訪大社の神につながる人たちが、信濃国
から武蔵国に多数進出して、大河川地帯を
開発し、国造の地位を得たのだろうか。

埼玉県内の、笠原・矢島氏の分布をプロッ
トすると、笠原氏は、北部・西部の、秩父
市、深谷市、本庄市(児玉町を含む)、
小川町(笠原地名あり、笠原氏多数、
諏訪神社もあり)に多い。

一方、矢島氏は、さいたま市、東松山市、
熊谷市、川越市など、多くの市町村で
笠原氏の数を上回る。
さいたま市大宮神社周辺は、笠原氏より、
矢島氏が大きな集団をなしておられる。

<諏訪を向く群馬県の古墳>
調査範囲を拡げると、群馬県の古墳でも、
諏訪を向く古墳があるとわかった。
墳長100m超の大古墳も含まれる。
136話群馬地図最終
上毛野君の支配地域と考えていた群馬県内
に、諏訪を向く古墳が多いことは、ブログ
筆者には戸惑いだった。

リストの古墳を、個別に調べていった。
その際、正確さに欠けるが、池田・上野・
大野氏を毛野氏族、笠原・矢島氏を諏
訪氏族として検討した。

・御富士山古墳の周りは、毛野氏族と諏訪
氏族矢島氏の件数が拮抗する。
御富士山古墳へは、東松山市にある雷電山
古墳(5期84m35度W)前方部の延長
線上にあたる。
東松山勢力とのつながりが見えてくる。

・群馬町保渡田薬師塚古墳の周りは、諏訪
氏族の矢島氏15件が囲む。
(35年前のデータ)

・高崎市倉賀野町の小鶴巻古墳の周りは、
笠原・矢島氏が多数おられるのに対し、
毛野氏族は1件のみ。

<上毛野君の本拠は見えたか>
群馬県の大古墳を、諏訪氏族が囲む。
戸惑いがあるが、この事実は、受け入れる
しかない。

リストに登場しない、群馬県の地域はどこか。
前橋市と勢多郡の町村だ。
北橘村、赤城村→渋川市へ
大胡町、宮城村、富士見村、柏川村
→前橋市へ
新里村、黒保根村→桐生市へ
東村→みどり市へ

上毛野君は、このあたりに本拠をおき、
平野部に支配地を拡げていったのだ
ろうか。

「富士見村誌」(群馬県勢多郡富士見村
1954年)に、次の記述を見つけた。

「原之郷の九十九山に、あれだけの大古
墳を造ることができた人が、どこに住んで
いたのか、誰も知りたいところであるが、
明らかでない。(中略)
勢多郡には、古墳を造った頃から、上毛
野氏という豪族が住んでいたようである。
その住んだ土地は、荒砥村あたりでは
ないかと、私は思っている。(中略)
赤城神社は、この豪族が氏神として祀
ったものらしい。
この村の古墳も、この一族との関係を考え
てみる必要はあろう」 

(ブログ筆者注)九十九山古墳(60m
21度W)のある原之郷には、毛野氏族と
見る人たちがおられるが、諏訪氏族は
おられない。
同古墳の向く、渋川市中郷、吹屋には、
毛野氏族が30件おられる。

<おまけ:毛野氏族と諏訪氏族の勢力比較図>
136話毛野諏訪勢力図
・埼玉県内は、県北部と西部を除き、毛野
氏族が優勢。

・群馬県内は、毛野氏族の優勢は、赤城山
山麓地域に限られ、南部の平野部は、諏訪
氏族に浸食されている構図が浮かんた。

さらに加えると、物部氏族は、埼玉・群馬
両県のほとんどの市町村で、毛野・諏訪
勢力を圧倒している。

平野部における、各古墳被葬者の氏族名
判定は、古墳ごとの、コツコツ作業が必要
と思う。

<武蔵国造内紛とブログ筆者の結論>

安閑朝におきた、武蔵国造内紛事件とは
何か。

児玉町付近にあって、物部氏族と結んだ
笠原直使主(おみ)と、東松山市付近にあ
って、上毛野氏族と結んだ同族の小杵の
争いだったと見る。
これが、現在ブログ筆者が到達した答え。

根拠を求められるだろう。

注目は、東松山市北部の雷電山古墳。
古墳周りの姓氏プロットを進めていた際、
すぐ北側の大谷に、上野氏(上毛野氏族)
が複数おられた。
東松山市中心部や西隣の滑川町にも、
上野氏は多い。

また、この一帯は、建御名方命の御子、
池生命の後裔、諏訪氏族矢島氏の多い
ところ。

5期の雷電山古墳が、伊勢崎市の御富士
山古墳を向き、御富士山古墳が諏訪を向く
ことは、上毛野氏族と諏訪氏族の結びつき
が、この頃始まったと考える。

建御名方命の御子に、八杵命という方が
おられるので、小杵はその流れに従った名
だろう。

一方、児玉町の笠原氏は、物部氏族と結び
ついたと見た。
児玉町内をプロットしていたとき、ある家
が「笠原・鈴木」とあるのを見つけた。
両氏は、昔からつながっていたのだろう。

今話は長文になってしまいました。
ご愛読を感謝いたします。


総目次(第一話~第一三五話)

大阪千里万博公園花の丘(2017年10月撮影)

IMG_4312 (340x255)
IMG_4323 (340x255) (340x255)

総目次
• 第一三五話 埼玉古墳群の向くところ (09/16)
• 第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編) (09/03)
• 第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた (08/13)
• 第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか (07/19)
• 第一三一話 筑紫君への道 (06/20)
• 第一三〇話 葦分神社探訪記 (06/01)
• 第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏 (04/15)
• 第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2) (03/23)
• 第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1) (02/22)
• 第一二六話 八代の前方後円墳の主たち (01/29)
• 第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者 (01/04)
・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)







第一三五話 埼玉古墳群の向くところ

前話以来、鈴鏡出土古墳調べの日々。
中小古墳が多く、位置確認が難しい。

そんなある日、古代史の神様から一撃。
「関東古墳の謎解き、鈴鏡だけで終わり
か?」

「神様失礼しました。埼玉古墳群のことで
すね。
鈴鏡西関東編の前に書きます」
そんなわけで、今話は予定を変更した。

埼玉古墳群は、武蔵国造家(出雲臣氏族)
の内紛に勝利した、笠原直一族の奥津城
というのが、従来の通説のようです。

ブログ筆者は、過去に一度調べかけたが、
難解さに途中で放棄してしまった。

①古墳群の周りに、笠原氏や出雲臣勢力
と見られる人たちがおられない。
これはどうしたことか?

鴻巣市に笠原の地名があるので、根拠と
されるが、笠原におられるのは、鈴木氏
(物部氏族)と長島氏。

②被葬者を推定する物証として、稲荷山
古墳から金象嵌の鉄剣が出土している。
そこには、被葬者の祖名として「おおひこ
」とある。

大彦命は、孝元天皇とウツシコメノ命の間
に生まれた高名な武将。
おじのウツシコヲノ命は、穂積臣(物部氏
族)の祖であり、被葬者は出雲臣氏族で
はない。

③埼玉古墳群前方部の向きは、全て南西。
115度Wから142度Wで、荒川対岸
東松山市域の北中部を向く。

このため、東松山市域を、被葬者の本拠
と見て、あれこれ、頭を巡らす深みにはま
った。

今回はシンプルに考えよう。
そう決心して、取り組んだ。
次図は、埼玉古墳群を囲む人たち。

135話埼玉囲む人たち

古墳近くには、鈴木・内田氏(物部氏族)
と、大野氏(毛野氏族)。
出雲氏族はおられない。


次図は、8基の前方後円墳の向くところ。

135話埼玉向くところ

①出雲を向く古墳はない。

②大和国桜井茶臼山古墳
同古墳を向く、中の山古墳があった。
桜井茶臼山古墳は、大彦命墓と見ている。
前方部が細く低く長い形が特色。

東京都上野公園内の、すりばち山古墳も
(110度W)、桜井茶臼山古墳を向く。
なお、鈴鏡出土古墳では、長野県飯田市
上溝6号墳(10期120度W)が向く。

③熊野那智大社
鈴木氏は、穂積姓の物部氏族。
熊野から来たとされており、望郷の地。

大形古墳として知られる、群馬県太田市
太田天神山古墳(210m、5期、132
度30分W)や、浦和市塚本塚山古墳
(127度W)も、熊野那智大社を向く。

<ブログ筆者のコメント>
埼玉古墳群の向きは、本拠地を指すだけ
でなく、さらに高い見地から決めていた。

埼玉古墳群の被葬者は、出雲臣氏族の
武蔵国造家ではない。
大彦命、物部氏族、毛野氏族の血を受け
た人たち。

雄略6年、吉備下道国造前津屋一族70人
を、誅殺した事件を思い起こしてほしい。
雄略天皇は、物部の兵に旅の宿を乞わせ
て奇襲させている。

東国に対しても、大和支配を強めるため、
代々杖刀人の首を務めた一族の人物を、
送り込んだ。
それが、大彦命8代目のヲワケノ臣だと、
ブログ筆者は見る。

田中卓氏は、「邪馬台国と稲荷山刀銘」
(著作集3収録、1985年国書刊行会)
でこう書いている。

「古代武蔵豪族は、直姓であり、臣姓の
中央官人が東国に進出した。
大彦命後裔のうち、武将として活躍した
安倍臣と考えられる」と。

ブログ筆者は、安倍、安部、阿部姓分布
が、埼玉古墳群周辺に少ないことから、
穂積姓の物部氏族で、大彦命の後裔の
血を受けた人物と見る。

<笠原直使主と小杵の本拠は?>
この謎に、ブログ筆者は、まだ確信を得て
いない。
そのため、ヒントになりそうな情報を、
読者の皆様にお伝えし、古代史の神様が
教えてくださる瞬間を待ちます。

135話 参考情報再位修正

第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編)

鈴鏡は、何氏族が作り配ったのだろうか。

ブログ筆者が到達した、現時点の答えは、
「鈴木さん」。

太田亮氏によれば、
「鈴木氏:天下の大姓。穂積姓。
物部氏族。
熊野国造の族類とすべし」

鈴鏡文化圏を生んだのは、上毛野君でも
なく、武蔵国造笠原直でもなかった。


<謎解きのカギは、宇都宮市雀宮古墳に
あった>

134話雀宮牛塚

栃木県宇都宮市南部にある雀宮牛塚古墳。
全長57mの前方後円墳で、8期の築造と
される。
同古墳からは、全国最多四面の鈴鏡が出土
している。五鈴鏡一面と四鈴鏡三面。

被葬者は、鈴鏡の製造元に、近い人物と
考えてよいだろう。

鈴の付いた副葬品は、鏡だけでなかった。
鈴杏葉、三環鈴、鈴釧も出土しており、
「鈴の王」と名付けたい賑やかさだ。

同古墳は、多数の鈴木氏に囲まれており、
被葬者は、物部氏族以外に考えられない。
また、南方にある、古墳時代前期の前方
後方墳群も、同族と見てよいと思う。

ブログ筆者が特に注目したのは、同古墳
前方部の指す方向。
次図のとおり、173度Eの線に、東関東
の鈴鏡出土古墳が並んでいた。

134話鈴鏡出土古墳東部最終

鈴鏡をもらったのは、何氏族なのか、また
何故もらったのか、1基毎に調査を開始した。

134話石橋町御笹塚

この古墳周りに、鈴木氏はおられない。
上大領の地にあり、また上大領氏もおられ
るので、下毛野君氏が有力候補となる。

群馬県内の上野氏をプロットすると、石橋
町、南河内町(薬師寺あり)、国分寺町、
上三川町、小山市北端、真岡市が、下毛
野君の本拠地だとわかってきた。

北方にある、横塚古墳の向きは、「前方後
円墳集成 関東東北編」によれば、80度
W。
赤城山を指すが、この山は、毛野君の信仰
した山だ。

ではなぜ、下毛野君氏族が、鈴鏡を持って
いたのか。
ブログ筆者は、武蔵国造家の内紛に際し、
下毛野氏が、上毛野氏に組しなかったの
で、もらったと見る。

134話南河内町別処山

この古墳は、鬼怒川と田川の合流地点に
ある。
南河内町にありながらも、古墳周りには、
上野氏も、鈴木氏もおられない。

中心勢力と見られるのは、宇賀持氏。
宇賀持氏が何氏族なのか、太田亮氏は
載せていない。

近江国坂田宮のある宇賀野の地には、息長
氏族の大勢力がおられた。
それとも、藤原姓の宇賀神氏からきたものか。
このどちらかの勢力に対し、物部氏族が贈
ったと見る。

134話足利市機神山

中世に、足利氏は天下を取った。
本図を見ていると、清和源氏や桓武平氏を
支えた基盤に、関東の物部氏族がいたの
ではと思ってしまう。

この古墳の向きは、木曽御嶽山を経て、
敦賀の気比神宮に至る。

134話足利市助戸

この古墳は、鈴鏡二面を出土している
ほか、鈴杏葉が出土している。

雀宮牛塚から出土した三個の鈴杏葉と、
同形のもの。
愛知県志段味古墳からも、鈴鏡の他、
同形の鈴杏葉が出土している。

134話関城町上野最終

同古墳は、茶焙山古墳とも呼ばれる。
鈴木氏は、古墳から遠い。

古墳周りには、岩瀬氏と上野氏。
岩瀬氏は、「天津彦根命後裔の凡河内
氏族。三上氏同祖。」
この氏族が、物部氏に協力して行動し、
鈴鏡をもらったか。
それとも下毛野君がもらったのか。

134話北茨城市神岡最終

北茨城市海岸近くの円墳。
古墳の近くに、鈴木・内田氏の物部勢力。
また、丹氏もおられる。
「丹氏は、丹治、丹比の略称なり」「武蔵
七党の一」と太田亮氏は書いている。
前者ならば、宣化天皇の後裔氏。

134話君津戸崎古墳群

戸崎古墳群は、物部氏族と見て良いと
思う。

134話峰岡東牧

この古墳を築造した勢力は、物部氏族
と見て良いと思う。

西関東の鈴鏡出土古墳の調査結果は、
次話でいたします。

第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた

<森 浩一氏の山津照神社古墳=近江毛野臣説>

2013年に亡くなった森 浩一氏。
著書に、「近江毛野臣は、山津照神社古墳
被葬者の、有力候補者」と書いていた。
「図説 日本の古代5 古墳から伽藍へ」
(1990年中央公論社)

根拠としては、次の三点を挙げる。
①古墳は6世紀前半のものと見られ、規
模や年代の点で矛盾しない。
②石室の作りに、九州的な石屋形が見ら
れる。
③主に東国に分布する、鈴鏡が出土して
おり、東国とのつながりを示す。

関西を本拠に活躍した森氏。
地元に、息長氏族の本拠地という伝承
が強いことは、承知のはず。
説の提唱には、何か感じられるものが
あったのだろう。

ブログ筆者は、森氏の説が、補強でき
るか証拠探しをすることにした。

山津照神社古墳の向きが、100度Wで、
近江毛野臣が没した対馬を向くことは、
支援材料になるだろう。

森氏は、近江毛野臣を、毛野氏族と考えて
いたようだ。

そのため、古墳周りに毛野氏族の人たちが
おられるか、調べよう。
次に、東国の鈴鏡が、毛野氏族の製造配布
したものか、出土古墳を確認しよう。

今話の謎解きは、想像を超えた発見に出会
うことになった。

<山津照神社古墳を囲む人たち>

133話山津照神社古墳を囲む最終

古墳周りに、北村氏(息長氏族)がおられない。

<高居氏>
山津照神社古墳を囲むのは、高居氏。
高居氏は、何氏族か。

太田亮氏は、姓氏家系大辞典の中で、
「高居氏:高井氏に同じ」
「高井氏: 1 高麗族 
 11 佐々木氏族。六角氏より分かる」
毛野氏族とする情報はない。

全国で、高居氏が多い町は、ここ近江町
と、和歌山県吉備町(現有田川町)。
共通点は、ともに鈴鏡が出土している
ことだ。

多和田には、高倉氏(海部尾張氏族)と
池田氏の集団があり、池田氏は、丹生川
沿いにもおられる。

<池田氏>
太田亮氏は、
「池田君:上野国那波郡池田町。
豊城入彦命の裔毛野氏の一族。
池田朝臣:上野の大族。毛野氏の族」
池田氏については、毛野氏の可能性が
ある。

<北村氏>
天野川から分かれた、丹生川沿いの
上丹生に、北村氏がおられる。
姓氏録に、息長丹生真人の名がある。
古代から、ここに息長氏族がいたことは
間違いないだろう。

ブログ筆者は、調査範囲を、横山古墳群
(長浜市)と息長古墳群(近江町)全域に
拡げることにした。

<横山・息長古墳群を囲む人たち>

133話横山息長古墳群を囲む人たち

<北村氏>
本図でも、古墳近くに、北村氏(息長氏
族)はおられない。
ただし、天野川河口付近に、大集団。

<邪馬台国を支えた諸氏族>
本図で存在が目立つのは、
武田氏(海部尾張氏族)、井関氏(魏国へ
の使者イセキ後裔)、加納・川瀬氏(紀直
氏族)、鈴木氏(物部氏族)など。

この氏族分布が、息長氏族の古墳と
判定しにくかった原因の一つだろう。

<池田・上野氏>
太田亮氏は、
「上野氏:毛野氏族 上毛野氏の事なり」

両氏は、毛野氏族の可能性がある。
上野氏は、柏原の津島神社付近にいて、
交通の要衝を押さえている。

ここまで調べたところでは、古墳周りに
毛野氏族がおられる可能性はあるもの
の、確証は得られない。
このままでは、古墳の主が、毛野氏族か
息長氏族か断定できない。

調査は、行き詰まった。

ブログ筆者は、3年前に、「改訂近江国
坂田郡志第1巻 1971名著出版)の
一部を、コピーしていたことを思い出し、
近江の資料袋から取りだした。

「第7章 新羅王子天火槍の吾名邑に来住
」に、
「天火槍は播磨国宍粟(しさは)邑、淡路
島出浅(いでさ)邑、近江国吾名邑に
暫住。
若狭国を経て但馬国に定住・・・」

前話では、対馬にとらわれていた。
もう一度、古墳の向きを調べよう。

最初は、北端の龍ヶ鼻古墳。
前方部の向きは、105度W。

パソコン画面上で、播磨国宍粟市に合致
した。
古代史の神様が、少し教えてくれた瞬間
だった。

次に山ヶ鼻古墳の向きは、135度W.
淡路島出浅(現洲本市由良町)に合致。
いずれも、天火槍の暫住地。

次々に調査した結果は、次図のとおり。

133話横山息長古墳群指す所最終

12基の古墳のうち、6基が暫住地・定住
地を向いていた。
これはもう、息長氏族の古墳と判定して
良いと見た。

例外について、ブログ筆者の意見を述べ
ておこう。

<能美古墳群>
筆者は、石川県小松市・能美市の古墳
群は、道君のものと見ている。
(第87話 道君の本拠、小松市河田町
2014年5月)

しかし、北村氏も、そこで大きな勢力を
持っている。
道君に受け入れられたと見る。

道君は、岡山から分かれた吉備氏族で、
大伴氏により引き立てられた。
息長氏―吉備氏―大伴氏の繋がりが
見えてくる。

継体天皇の子、宣化天皇の時代に、
大伴金村のもとで、吉備氏族の葦北国
造アリシトが働いた。

アリシトの子、日羅が呼ばれたのは、
息長氏の広姫を皇后とした敏達天皇。
敏達天皇の母は、宣化天皇の皇女。

<大荒比古神社>
琵琶湖対岸の高島市新旭町にある。
大荒比古神社の祭神は、豊城入彦命の
後裔、毛野氏族の祖、大荒田別命。

ここを向くというのは、偶然か、それ
とも息長氏族と毛野氏族の血のつな
がりによるのか。

ただし、大荒比古神社を祀るのは、毛野
氏族でも、大野氏の後裔。
大野氏は、近江町と長浜市域には、件数
が少ない。

<近江国安名邑=長浜市鳥羽上>
近江国坂田郡志は、長浜市鳥羽上の地に
ついて、こう書いている。

「西黒田村大字鳥羽上を、中古まで安奈村
と称せし記録あり。・・・この地、およそ
東西壱里、南北壱里、阿那郷と称す」

横山丘陵の、最も東深部の鳥羽上に、
入口を武田氏、井関氏、阿部氏に守ら
れるように、北村氏の集団がおられる。

ここが、天火槍の暫住地だった。

<今話の結論>
読者の皆様には、古墳の主について、
これまでのもやもやが少し晴れただろ
うか。
近江町と長浜市の主要古墳は、息長氏
族のものと見て良いと、今は思う。

天日槍が暫住した地は、倭人の新羅国
王家であった息長氏族と同族の、天氏
族の地だった。

例えば、淡路島の由良町には、武田・
竹田氏16件。
海部尾張氏の地だった。(45年前の
データ)

海部尾張氏の人たちは、近江国坂田郡を
含め、好意的だったが、出雲臣系の地
では、衝突があったようだ。

宍粟でも、3期の龍ヶ鼻古墳は、北村氏
のおられる地域に向いている。
9期の山津照神社古墳は、一の宮伊和
神社を向く。

出雲臣は、武蔵国造家でもある。
宣化天皇時代、武蔵国造家の内紛は、
息長氏に何をもたらしたのか。

近江国の暫住地には、相当な地位の身
内が残り、息長を名乗り、他氏族との
関係構築が進められた。

それが、氏族分布図に現れている。
武田氏が、山津照神社古墳近くにおら
れるのは、息長氏と婚姻関係にあった
証拠となる。

古代に、春日氏、武内氏、物部氏以外
で、豪族の女から直接立后できたのは、
尾張氏と息長氏のみ。

山津照神社古墳の被葬者は、敏達天皇
后となった広姫の父、息長真手王と見る。

広姫の母の名が未詳というが、母の出身
地が、息長陵のある村居田なのだろう。

鈴鏡出土古墳を囲む人たちの調査結果は
次話でいたします。

第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか

筑紫君の謎解きを、磐井と対話した近江毛
野臣の古墳探しから始めよう。

継体天皇時代の近江に、今後の謎解きの鍵
を見つけたいと考えた。

<新修彦根市史第一巻(2007年彦根市
)は、野洲の林之腰古墳を、近江毛野臣
墓の可能性が高いと記す>

該当部分を抜粋すると、
「林之腰古墳は、全長90mという県内有
数の規模を誇る古墳であり、しかも前方
部が後円部の直径より幅広く撥形に開き、
馬蹄形の二重の周濠を巡らせている。

その形状は今城塚古墳と相似形を呈してお
り、大王またはその重臣級の古墳である可
能性が非常に強い。

近江に関する継体天皇の側近に、近江毛野
臣がいる。

毛野臣は、任那復興の失敗により帰国途中
、対馬で没したとされ、その亡骸は「日本
書紀」によれば「河の尋に、近江に」運び
入れられている。

近江で埋葬されたとすれば、この時期の
近江最大級の古墳が該当するはずであ
り、規模や墳形から、林之腰が近江毛野
臣の墓である可能性が高い。」

<林之腰古墳の築造時期は合致するか>

林之腰古墳の発見は、1996年なので、
「前方後円墳集成近畿編」(1992年
山川出版社)の編年表に登場しない。

「前方後円墳集成補遺編」(2000年山
川出版社)に掲載されたが、古墳位置を、
新幹線北側(実際は南側)としたり、
前方部の方向を90度W(実測値は98
度~100度W)とした点が惜しまれる。

築造時期について、地元の野洲市教育委員
会の見解は、変化している。

2001年には、「出土遺物から5世紀の
後半に築造されたと考えられる」(史
跡大塚山古墳・円山古墳・甲山古墳
調査整備報告書)としていた。

2006年には、「出土した埴輪から6世
紀前半の築造と考えられる」(史跡
大岩山古墳群・大塚山古墳調査整備報
告書)と変更している。

6世紀前半ならば、527年の磐井の乱と
時代が合う。

野洲の林之腰古墳は、形状と築造時期か
ら、最有力候補とわかった。

<ブログ筆者の出番はこれから>
近江毛野臣は、そもそも何氏族なのか。
太田亮氏は、武内氏族、羽田八代宿禰後裔
とするが、毛野に着目して、毛野臣と見る
説もある。

また、継体天皇や近江毛野臣が活躍した、
集成編年8、9期の他の古墳(例えば山津
照神社古墳を候補とする説もある。

これらを確かめたうえで、なお林之腰古墳
が候補に残っても、最後にクリアすべき謎
がある。

何故、物部氏と三上祝氏の繋がりが深い
野洲の地に、武内氏族の大古墳が築造さ
れたか、説明が求められるだろう。

ブログ筆者は、5枚の図を用意した。
さあ、これらの謎を解く旅に出発しよう。

<野洲古墳群前方部の指す方向>
132話野洲古墳群前方部方向最終

・林之腰古墳(9期)
実測値100度Wは、対馬を指す。
近江毛野臣が没した地だ。

・古富波山・大岩山・大岩山2番古墳
この3古墳からは、三角縁神獣鏡が出土し
た。
その間に、銅鐸が多数出土している。
銅鐸祭祀を行っていた人たちが、大和政権
に従属したことが、証拠とともに残る。

・前期古墳の、富波古墳は、宗像大社を向
き、冨波2号古墳は三上山を指しており、
旧来の信仰を捨てていないように見える。

・中期古墳(6期)の野洲大塚山古墳は、
全長72mで林之腰古墳に次ぐ大きさ。
前方部は、富波古墳を経て、韓半島漢城を
指している。
ただし、応神・仁徳朝の頃だ。

・林之腰古墳に先行する8期には、鴨稲荷
山古墳を指す天王山古墳(49m)と、彦
根荒神山古墳を経てはるか越後弥彦神社
を指す越前塚古墳(53m)がある。

鴨稲荷山古墳は、継体の父が住んだ三尾
の里に近い。

前方部は、継体の山背国筒城宮を指す。
継体とのつながりを示す古墳だ。

越前塚古墳は、日本武尊と初代安国造の
女、フタジヒメの間に生まれた、稲依別王
の墓、荒神山古墳を指している。

・10期の穴蔵古墳は、南東の雪野山古墳
(3期)を指している。
雪野山古墳は、日子坐王と三上祝の女、息
長水依媛の間に生まれた水穂真若王(アワ
ミ)の墓と見ている。

<野洲古墳群を囲む人たち>
132話野洲古墳群囲む人たち最終

・意外なことは、三上氏が、三上山近くよ
りも、近江八幡市との境に集まっておら
れたこと。
これはどうしたことだろう。

・南西の新川神社は、物部氏族が囲む。
三上祝の女が、2代続けて物部氏に嫁して
いることから、想像したとおり、物部氏族
の多い地域となっている。

・しかし、数の多さと広がりは、武内氏族
が一番だ。
ブログ筆者には、後から入り込んだように
感じられるが、どうだろうか。

・富波の前期古墳近くに、岩井氏の集団。
太田亮氏によれば、岩井氏は物部直氏族。
武蔵一宮の神官家が岩井氏。
物部臣でなく、武蔵国造家一族と、太田亮
氏は書いている。

さすれば、出雲臣系の祝氏族か。
真実を知っておられる人たちだ。

<近江国南部主要古墳の指す方向>
132話近江国南部主要古墳方向最終

この図から、文献では得られない何かが見
つかるだろうか。

・ブログ筆者は、琵琶湖西岸の西羅1号墳
に注目した。

50mの中期古墳の向きは、野洲と線が
往復している。
西羅1号墳を囲むのは、三上氏と北村氏
(息長氏族)。
狐塚3号墳からも、線が伸びてくるが、水
穂真若王の兄、丹波道主王後裔が治め
た地。

湖西の近淡海国造(古事記)と湖東の淡海
安国造がある謎は、同族であると知れば、
解決する。

・湖南の古墳が指す方向は、大神神社、
宇佐神宮、四国西予2代女王イヨの地
など、邪馬台国勢力の地を指している。
瀬田唐橋東岸には、宗像氏族の深田
氏の大集団がおられる。

・本堅田の春日山1号墳は、海岸に春日、
竹内、北村氏がそろう。
大阪府高槻市の今城塚古墳(継体陵)付近
を指す。
春日山1号墳と今城塚古墳は、北村氏が多
い点が共通する。

・東部の雪野山古墳は、水穂真若王の墓と
書いた。
丹波を攻略した日子坐王の子、丹波道主王
が、丹波大県主に対抗して、網野銚子塚古
墳を築いたように、近江を任された水穂真
若王が、安土瓢箪山古墳の主に対抗して、
雪野山古墳を築いたと見る。

・彦根の荒神山古墳は、21世紀に入り
発見された大古墳。

犬上郡を押さえていた天津彦根族が、安国
造の女と日本武尊の間に生まれた稲依別王
に領地を譲ったと見る。

荒神山古墳近くには、建部氏が4件。
犬上君と建部君が後裔だ。
ただし、犬上郡は、荒神山古墳のある宇曽
川と愛知川の間を除いては、北村氏と竹内
氏が大勢力を占めている。

これは、神功皇后と対抗した、忍熊王側の
将軍に稲依別王後裔の倉見別がついて
敗死したため失ったと見る。

そして、野洲地域に、武内氏族が多いの
も、この戦いの後と見る。

安国造家の女と羽田八代宿禰の間に近江
臣が生まれ、後裔が近江毛野臣と見る。
(系譜参照)

<近江国北部主要古墳の指す方向>
132話近江国北部最終

本図は、拾いもれがないよう、念のために
作成したもの。
すると、8、9期の前方後円墳で、かつ
対馬を指す古墳が、2基出てきた。

坂田郡の山津照神社古墳(9期100度
W45m)と、高月町の横山神社古墳
(8、9期100度W32m)。
山津照神社古墳は、近江毛野臣墓説が
ある。


132話近江臣の系譜最終


第一三一話 筑紫君への道

(長岡天神参道:道真が配流の途中寄った地)2017年4月撮影
IMG_3805 (340x255)

(太宰府天満宮:道真の眠る地)2017年5月撮影
IMG_4064 (340x255)


第一二三話で予告した、「筑紫君への道」
の執筆に、取り掛かる日が来た。

ブログ筆者にとって、筑紫君は謎の塊に
見える。
謎と感じるところを、思いつくままに挙げる。

<近江毛野臣>
最も有名な対話シーンだ。
近江毛野臣は、筑紫君イワイの友か、それ
とも伴か?
何故、新羅遠征を、言い含められ止めたか?

「伴」の文字が使われているのに、解釈書
はどれも友と訳しているが、部下だった
のではないか?

太田亮氏の「姓氏家系大辞典」は、近江毛
野臣を、武内宿禰後裔羽田臣氏族とする。
しかし、物部氏と関係が深い、近江の野洲
に葬られたとされるのは何故か?

近年発見された、林の腰古墳は、その墳墓か?

前方後円墳集成補遺編(山川出版社)に従
えば、方位は西。
彼が活躍しそして失敗した、日本府のおか
れた安羅国を指している。

<肥前を向く筑紫君一族の古墳>
石人山、石戸山等、筑紫君一族のものと
見られる前方後円墳は、殆どが前方部を
西の肥前国に向けている。

筑紫君のルーツを指しているのではないか?
初代筑紫国造、田道宿禰の名を負った、
田道ヶ里が肥前国神埼にあるが、関係ある
のか?

<筑紫火君・火中君>
筑紫君の子とされる、筑紫火君・火中君の
本拠地はどこか?
鳥栖、山鹿で良いのか?

<安倍氏と筑紫君>
安倍氏と同祖とされるが、どう系譜がつな
がるのか?
大彦命の子、タケヌナカワワケ命の後裔
なのか?

<肥筑豊に築いた大勢力>
肥筑豊に大勢力を誇ったとされる筑紫君。
どのような氏族が結びつき、支えたのか?

<筑紫君は筑紫倭王なのか>
白村江の戦いに先立ち編成された、倭国遠
征軍の中に、筑紫君の名は見当たらない。

超越した存在だったのか?

これらの謎に、どこから、どのように取り
組めば良いのか。
何を手がかりにすればよいのか。
ヒントは見つかったか。

この数年間、遠回りを重ねてきて、「いま
書き出さずしていつやる」という条件が
そろった。

「筑紫君への道」とは、筑紫君が肥筑豊に
またがる大勢力に成長していった道であ
り、また、ブログ筆者が、筑紫君の真相に
迫る道でもある。

第一三〇話 葦分神社探訪記

(大阪府茨木市の葦分神社)
130話葦分神社正面額写真
130話 葦分神社拝殿燈籠写真

前話に登場した葦分(あしわけ)神社を、
ブログ筆者は訪ねた。

同神社の所在地、茨木市島1-1-21。
祭神は、天照大神。

旧村名では、宮島村の北辺にあたる。
宮島村は、南を安威川が流れ、北は玉櫛村
と溝咋村に接していた。
同神社敷地は、玉櫛村に食い込んでいる。

溝咋村は、三島溝咋耳。玉櫛村は、溝咋耳
の子、玉櫛彦と玉櫛媛ゆかりの地。
玉櫛村の東奈良遺跡からは、銅鐸鋳型が出
土しており、青銅器が作られ、各地に供給
されていた。

神武天皇の皇后を出した、三島縣主の勢力
圏に隣接して、集落を築いたのは、どんな
人たちか。

<葦分神社を囲む人たち>
葦分神社を囲むのは、ブログ筆者が中心と
見る武田氏(海部尾張氏)を別にすれば、
西島氏が目立つ。

西島氏は、太田亮氏の著作によれば、
「①藤原姓 ②秦河勝後裔の名族」と
ある。
茨木市は、前に書いたが、藤原・中臣氏族
の聖地だ。
(第73話:継体陵はどちらか 
第74話:伝継体陵は雷大臣命  
2013年8月)

葦分神社東隣にある、葦分神社東方遺跡。
茨木市教育委員会の発掘調査概要報告書を
見ると、同神社を中心に、平安時代中期
(11世紀中葉頃)に集落が成立したもの
と思われるとある。
古代については、推測するしかない。

<大燈籠の寄進者:岸本氏>
神社入口に、大きな燈籠が二基。
天保年間、吉志部東村の岸本藤助さんが、
願主として寄進したとわかる。
岸辺の地名は、葦分神社南西、約4キロ離
れた吹田市域にあり、今も岸本氏が多数住
んでおられる。
信仰した人たちは、現在の氏子の範囲より
広がっていたとわかる。

岸本氏がどんな人たちか、良く教えてくれ
るのが、島根県雲南市加茂町神原。
神原神社を中心に、速水氏と共に、岸本氏
が囲む。
速水(はやみ)氏が、ニギハヤヒ命(海部
尾張氏の祖)の後裔と見れば、岸本氏は、
大物主を囲む人たちだった。

<葦分神社参拝線は、亀岡出雲大神宮を指す>
葦分神社の参拝方向は、N2度E。
京都府亀岡市にある出雲大神宮を指してい
る。

葦分神社を支えた人たちは、海部尾張氏を
中心として、取り巻く岸本氏、中臣氏族の
人たちであったと見る。

プロフィール

ツルギネ

Author:ツルギネ
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伏見稲荷千本鳥居で厄除け
2018年11月撮影)

見やすいように、150%に
拡大してお読みください。

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