第一三六話 武蔵国造と上毛野君の本拠地

秋のバラ園とみんぱく(2017年10月撮影)
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今話テーマは、誰もが答えを知りたい謎。

ある日、古代史の神様がヒントをくれた。
「武蔵国造の本拠を探しているようだな。
諏訪を向く古墳を調べてごらん」

武蔵国造の古墳が、諏訪を向くだろうか。

出雲系氏族は、前方後円墳を造ることが
少ない。
そんな思い込みが、謎解きを難しくして
いたかも知れない。

早速、埼玉県内の古墳で、信州諏訪を向く
古墳を拾うと、次のリストができた。

136話埼玉地図画像

・行田市さきたま古墳群に、諏訪を向く古
墳はなかった。

・埼玉県北西部の児玉郡・大里郡に、諏訪
を向く古墳が4基集中する。
いずれも8期以降の後期古墳であり、8期
は雄略朝、9期は継体・安閑朝にあたる。

・諏訪湖周辺の前方後円墳は、1基のみ。
下諏訪町、青塚古墳(57m22度W 
9期)。

大阪千里万博公園内、みんぱく図書室で、
これら古墳について、書いている本に出合
った。

「北武蔵における古式古墳の成立」
(菅谷浩之著 1984年児玉町教育委員会)

「児玉町に存在する古式古墳の中でも、銚
子塚古墳と生野山16号墳の二基は重要
であり、双方とも前方後円墳である。
6世紀に入って築かれた古墳と考えられる
が、銚子塚古墳は鷺山(さぎやま)古墳
の系譜、生野山16号墳は、物見塚古墳か
らの系譜を辿る重要な意味を持つ前方後
円墳である(P.69)」

「最初に築かれた鷺山古墳は、4世紀第3
四半期前後と想定。
鷺山古墳の後が、金鑚(かなさな)神社古
墳と生野山将軍塚(5世紀前半)。
生野山9号、10号、14号(5世紀第3
~4四半期)。
生野山銚子塚(6世紀第1四半期)。
生野山16号墳(6世紀第2四半期)
(P.86)」

前方後方墳から円墳へ、そして前方後円墳
に移行したことがわかった。
同書には、これらの古墳を築いた勢力に
ついての記述がないのが惜しい。

次図は、児玉町・美里町・岡部町の古墳
周辺図。

136話児玉郡古墳周辺図画像

古墳を囲む人たちで、ブログ筆者が注目し
たのは、
鈴木氏・内田氏(物部氏族)
笠原氏(諏訪神族)
矢島氏(諏訪大神建御名方命後裔)

鷺山古墳は、秩父を経て富士山に向く。
1期は、彦狭島命や日本武尊より古い。
7期の美里諏訪山古墳も秩父を向く。

東国開拓の祖、高皇産霊尊の子、思金命の
子、天下春命につながるか、敬意を表して
いることは間違いない。

だが、8期以降、諏訪を向くのはなぜか。
諏訪氏族が中心になったと考えてよいか。

参考までに、諏訪湖周辺の件数。
 区分  笠原 矢島 鈴木 内田   
茅野市  35 210  70  20
諏訪市 180 120  40  10
下諏訪町 35  20  20   10
岡谷市 180  35  30   10

諏訪大社の神につながる人たちが、信濃国
から武蔵国に多数進出して、大河川地帯を
開発し、国造の地位を得たのだろうか。

埼玉県内の、笠原・矢島氏の分布をプロッ
トすると、笠原氏は、北部・西部の、秩父
市、深谷市、本庄市(児玉町を含む)、
小川町(笠原地名あり、笠原氏多数、
諏訪神社もあり)に多い。

一方、矢島氏は、さいたま市、東松山市、
熊谷市、川越市など、多くの市町村で
笠原氏の数を上回る。
さいたま市大宮神社周辺は、笠原氏より、
矢島氏が大きな集団をなしておられる。

<諏訪を向く群馬県の古墳>
調査範囲を拡げると、群馬県の古墳でも、
諏訪を向く古墳があるとわかった。
墳長100m超の大古墳も含まれる。

136話群馬地図画像

上毛野君の支配地域と考えていた群馬県内
に、諏訪を向く古墳が多いことは、ブログ
筆者には戸惑いだった。

リストの古墳を、個別に調べていった。
その際、正確さに欠けるが、池田・上野・
大野氏を毛野氏族、笠原・矢島氏を諏
訪氏族として検討した。

・御富士山古墳の周りは、毛野氏族と諏訪
氏族矢島氏の件数が拮抗する。
御富士山古墳へは、東松山市にある雷電山
古墳(5期84m35度W)前方部の延長
線上にあたる。
東松山勢力とのつながりが見えてくる。

・群馬町保渡田薬師塚古墳の周りは、諏訪
氏族の矢島氏15件が囲む。
(35年前のデータ)

・高崎市倉賀野町の小鶴巻古墳の周りは、
笠原・矢島氏が多数おられるのに対し、
毛野氏族は1件のみ。

<上毛野君の本拠は見えたか>
群馬県の大古墳を、諏訪氏族が囲む。
戸惑いがあるが、この事実は、受け入れる
しかない。

リストに登場しない、群馬県の地域はどこか。
前橋市と勢多郡の町村だ。
北橘村、赤城村→渋川市へ
大胡町、宮城村、富士見村、柏川村
→前橋市へ
新里村、黒保根村→桐生市へ
東村→みどり市へ

上毛野君は、このあたりに本拠をおき、
平野部に支配地を拡げていったのだ
ろうか。

「富士見村誌」(群馬県勢多郡富士見村
1954年)に、次の記述を見つけた。

「原之郷の九十九山に、あれだけの大古
墳を造ることができた人が、どこに住んで
いたのか、誰も知りたいところであるが、
明らかでない。(中略)
勢多郡には、古墳を造った頃から、上毛
野氏という豪族が住んでいたようである。
その住んだ土地は、荒砥村あたりでは
ないかと、私は思っている。(中略)
赤城神社は、この豪族が氏神として祀
ったものらしい。
この村の古墳も、この一族との関係を考え
てみる必要はあろう」 

(ブログ筆者注)九十九山古墳(60m
21度W)のある原之郷には、毛野氏族と
見る人たちがおられるが、諏訪氏族は
おられない。
同古墳の向く、渋川市中郷、吹屋には、
毛野氏族が30件おられる。

<おまけ:毛野氏族と諏訪氏族の勢力比較図>
136話毛野諏訪勢力図最終
・埼玉県内は、県北部と西部を除き、毛野
氏族が優勢。

・群馬県内は、毛野氏族の優勢は、赤城山
山麓地域に限られ、南部の平野部は、諏訪
氏族に浸食されている構図が浮かんた。

さらに加えると、物部氏族は、埼玉・群馬
両県のほとんどの市町村で、毛野・諏訪
勢力を圧倒している。

平野部における、各古墳被葬者の氏族名
判定は、古墳ごとの、コツコツ作業が必要
と思う。

<武蔵国造内紛とブログ筆者の結論>

安閑朝におきた、武蔵国造内紛事件とは
何か。

児玉町付近にあって、物部氏族と結んだ
笠原直使主(おみ)と、東松山市付近にあ
って、上毛野氏族と結んだ同族の小杵の
争いだったと見る。
これが、現在ブログ筆者が到達した答え。

根拠を求められるだろう。

注目は、東松山市北部の雷電山古墳。
古墳周りの姓氏プロットを進めていた際、
すぐ北側の大谷に、上野氏(上毛野氏族)
が複数おられた。
東松山市中心部や西隣の滑川町にも、
上野氏は多い。

また、この一帯は、建御名方命の御子、
池生命の後裔、諏訪氏族矢島氏の多い
ところ。

5期の雷電山古墳が、伊勢崎市の御富士
山古墳を向き、御富士山古墳が諏訪を向く
ことは、上毛野氏族と諏訪氏族の結びつき
が、この頃始まったと考える。

建御名方命の御子に、八杵命という方が
おられるので、小杵はその流れに従った名
だろう。

一方、児玉町の笠原氏は、物部氏族と結び
ついたと見た。
児玉町内をプロットしていたとき、ある家
が「笠原・鈴木」とあるのを見つけた。
両氏は、昔からつながっていたのだろう。

今話は長文になってしまいました。
ご愛読を感謝いたします。


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総目次(第一話~第一三五話)

大阪千里万博公園花の丘(2017年10月撮影)

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総目次
• 第一三五話 埼玉古墳群の向くところ (09/16)
• 第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編) (09/03)
• 第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた (08/13)
• 第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか (07/19)
• 第一三一話 筑紫君への道 (06/20)
• 第一三〇話 葦分神社探訪記 (06/01)
• 第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏 (04/15)
• 第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2) (03/23)
• 第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1) (02/22)
• 第一二六話 八代の前方後円墳の主たち (01/29)
• 第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者 (01/04)
・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)







第一三五話 埼玉古墳群の向くところ

前話以来、鈴鏡出土古墳調べの日々。
中小古墳が多く、位置確認が難しい。

そんなある日、古代史の神様から一撃。
「関東古墳の謎解き、鈴鏡だけで終わり
か?」

「神様失礼しました。埼玉古墳群のことで
すね。
鈴鏡西関東編の前に書きます」
そんなわけで、今話は予定を変更した。

埼玉古墳群は、武蔵国造家(出雲臣氏族)
の内紛に勝利した、笠原直一族の奥津城
というのが、従来の通説のようです。

ブログ筆者は、過去に一度調べかけたが、
難解さに途中で放棄してしまった。

①古墳群の周りに、笠原氏や出雲臣勢力
と見られる人たちがおられない。
これはどうしたことか?

鴻巣市に笠原の地名があるので、根拠と
されるが、笠原におられるのは、鈴木氏
(物部氏族)と長島氏。

②被葬者を推定する物証として、稲荷山
古墳から金象嵌の鉄剣が出土している。
そこには、被葬者の祖名として「おおひこ
」とある。

大彦命は、孝元天皇とウツシコメノ命の間
に生まれた高名な武将。
おじのウツシコヲノ命は、穂積臣(物部氏
族)の祖であり、被葬者は出雲臣氏族で
はない。

③埼玉古墳群前方部の向きは、全て南西。
115度Wから142度Wで、荒川対岸
東松山市域の北中部を向く。

このため、東松山市域を、被葬者の本拠
と見て、あれこれ、頭を巡らす深みにはま
った。

今回はシンプルに考えよう。
そう決心して、取り組んだ。
次図は、埼玉古墳群を囲む人たち。

135話埼玉囲む人たち

古墳近くには、鈴木・内田氏(物部氏族)
と、大野氏(毛野氏族)。
出雲氏族はおられない。


次図は、8基の前方後円墳の向くところ。

135話埼玉向くところ

①出雲を向く古墳はない。

②大和国桜井茶臼山古墳
同古墳を向く、中の山古墳があった。
桜井茶臼山古墳は、大彦命墓と見ている。
前方部が細く低く長い形が特色。

東京都上野公園内の、すりばち山古墳も
(110度W)、桜井茶臼山古墳を向く。
なお、鈴鏡出土古墳では、長野県飯田市
上溝6号墳(10期120度W)が向く。

③熊野那智大社
鈴木氏は、穂積姓の物部氏族。
熊野から来たとされており、望郷の地。

大形古墳として知られる、群馬県太田市
太田天神山古墳(210m、5期、132
度30分W)や、浦和市塚本塚山古墳
(127度W)も、熊野那智大社を向く。

<ブログ筆者のコメント>
埼玉古墳群の向きは、本拠地を指すだけ
でなく、さらに高い見地から決めていた。

埼玉古墳群の被葬者は、出雲臣氏族の
武蔵国造家ではない。
大彦命、物部氏族、毛野氏族の血を受け
た人たち。

雄略6年、吉備下道国造前津屋一族70人
を、誅殺した事件を思い起こしてほしい。
雄略天皇は、物部の兵に旅の宿を乞わせ
て奇襲させている。

東国に対しても、大和支配を強めるため、
代々杖刀人の首を務めた一族の人物を、
送り込んだ。
それが、大彦命8代目のヲワケノ臣だと、
ブログ筆者は見る。

田中卓氏は、「邪馬台国と稲荷山刀銘」
(著作集3収録、1985年国書刊行会)
でこう書いている。

「古代武蔵豪族は、直姓であり、臣姓の
中央官人が東国に進出した。
大彦命後裔のうち、武将として活躍した
安倍臣と考えられる」と。

ブログ筆者は、安倍、安部、阿部姓分布
が、埼玉古墳群周辺に少ないことから、
穂積姓の物部氏族で、大彦命の後裔の
血を受けた人物と見る。

<笠原直使主と小杵の本拠は?>
この謎に、ブログ筆者は、まだ確信を得て
いない。
そのため、ヒントになりそうな情報を、
読者の皆様にお伝えし、古代史の神様が
教えてくださる瞬間を待ちます。

135話 参考情報

第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編)

鈴鏡は、何氏族が作り配ったのだろうか。

ブログ筆者が到達した、現時点の答えは、
「鈴木さん」。

太田亮氏によれば、
「鈴木氏:天下の大姓。穂積姓。
物部氏族。
熊野国造の族類とすべし」

鈴鏡文化圏を生んだのは、上毛野君でも
なく、武蔵国造笠原直でもなかった。


<謎解きのカギは、宇都宮市雀宮古墳に
あった>

134話雀宮牛塚

栃木県宇都宮市南部にある雀宮牛塚古墳。
全長57mの前方後円墳で、8期の築造と
される。
同古墳からは、全国最多四面の鈴鏡が出土
している。五鈴鏡一面と四鈴鏡三面。

被葬者は、鈴鏡の製造元に、近い人物と
考えてよいだろう。

鈴の付いた副葬品は、鏡だけでなかった。
鈴杏葉、三環鈴、鈴釧も出土しており、
「鈴の王」と名付けたい賑やかさだ。

同古墳は、多数の鈴木氏に囲まれており、
被葬者は、物部氏族以外に考えられない。
また、南方にある、古墳時代前期の前方
後方墳群も、同族と見てよいと思う。

ブログ筆者が特に注目したのは、同古墳
前方部の指す方向。
次図のとおり、173度Eの線に、東関東
の鈴鏡出土古墳が並んでいた。

134話鈴鏡出土古墳東部最終

鈴鏡をもらったのは、何氏族なのか、また
何故もらったのか、1基毎に調査を開始した。

134話石橋町御笹塚

この古墳周りに、鈴木氏はおられない。
上大領の地にあり、また上大領氏もおられ
るので、下毛野君氏が有力候補となる。

群馬県内の上野氏をプロットすると、石橋
町、南河内町(薬師寺あり)、国分寺町、
上三川町、小山市北端、真岡市が、下毛
野君の本拠地だとわかってきた。

北方にある、横塚古墳の向きは、「前方後
円墳集成 関東東北編」によれば、80度
W。
赤城山を指すが、この山は、毛野君の信仰
した山だ。

ではなぜ、下毛野君氏族が、鈴鏡を持って
いたのか。
ブログ筆者は、武蔵国造家の内紛に際し、
下毛野氏が、上毛野氏に組しなかったの
で、もらったと見る。

134話南河内町別処山

この古墳は、鬼怒川と田川の合流地点に
ある。
南河内町にありながらも、古墳周りには、
上野氏も、鈴木氏もおられない。

中心勢力と見られるのは、宇賀持氏。
宇賀持氏が何氏族なのか、太田亮氏は
載せていない。

近江国坂田宮のある宇賀野の地には、息長
氏族の大勢力がおられた。
それとも、藤原姓の宇賀神氏からきたものか。
このどちらかの勢力に対し、物部氏族が贈
ったと見る。

134話足利市機神山

中世に、足利氏は天下を取った。
本図を見ていると、清和源氏や桓武平氏を
支えた基盤に、関東の物部氏族がいたの
ではと思ってしまう。

この古墳の向きは、木曽御嶽山を経て、
敦賀の気比神宮に至る。

134話足利市助戸

この古墳は、鈴鏡二面を出土している
ほか、鈴杏葉が出土している。

雀宮牛塚から出土した三個の鈴杏葉と、
同形のもの。
愛知県志段味古墳からも、鈴鏡の他、
同形の鈴杏葉が出土している。

134話関城町上野最終

同古墳は、茶焙山古墳とも呼ばれる。
鈴木氏は、古墳から遠い。

古墳周りには、岩瀬氏と上野氏。
岩瀬氏は、「天津彦根命後裔の凡河内
氏族。三上氏同祖。」
この氏族が、物部氏に協力して行動し、
鈴鏡をもらったか。
それとも下毛野君がもらったのか。

134話北茨城市神岡最終

北茨城市海岸近くの円墳。
古墳の近くに、鈴木・内田氏の物部勢力。
また、丹氏もおられる。
「丹氏は、丹治、丹比の略称なり」「武蔵
七党の一」と太田亮氏は書いている。
前者ならば、宣化天皇の後裔氏。

134話君津戸崎古墳群

戸崎古墳群は、物部氏族と見て良いと
思う。

134話峰岡東牧

この古墳を築造した勢力は、物部氏族
と見て良いと思う。

西関東の鈴鏡出土古墳の調査結果は、
次話でいたします。

第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた

<森 浩一氏の山津照神社古墳=近江毛野臣説>

2013年に亡くなった森 浩一氏。
著書に、「近江毛野臣は、山津照神社古墳
被葬者の、有力候補者」と書いていた。
「図説 日本の古代5 古墳から伽藍へ」
(1990年中央公論社)

根拠としては、次の三点を挙げる。
①古墳は6世紀前半のものと見られ、規
模や年代の点で矛盾しない。
②石室の作りに、九州的な石屋形が見ら
れる。
③主に東国に分布する、鈴鏡が出土して
おり、東国とのつながりを示す。

関西を本拠に活躍した森氏。
地元に、息長氏族の本拠地という伝承
が強いことは、承知のはず。
説の提唱には、何か感じられるものが
あったのだろう。

ブログ筆者は、森氏の説が、補強でき
るか証拠探しをすることにした。

山津照神社古墳の向きが、100度Wで、
近江毛野臣が没した対馬を向くことは、
支援材料になるだろう。

森氏は、近江毛野臣を、毛野氏族と考えて
いたようだ。

そのため、古墳周りに毛野氏族の人たちが
おられるか、調べよう。
次に、東国の鈴鏡が、毛野氏族の製造配布
したものか、出土古墳を確認しよう。

今話の謎解きは、想像を超えた発見に出会
うことになった。

<山津照神社古墳を囲む人たち>

133話山津照神社古墳を囲む最終

古墳周りに、北村氏(息長氏族)がおられない。

<高居氏>
山津照神社古墳を囲むのは、高居氏。
高居氏は、何氏族か。

太田亮氏は、姓氏家系大辞典の中で、
「高居氏:高井氏に同じ」
「高井氏: 1 高麗族 
 11 佐々木氏族。六角氏より分かる」
毛野氏族とする情報はない。

全国で、高居氏が多い町は、ここ近江町
と、和歌山県吉備町(現有田川町)。
共通点は、ともに鈴鏡が出土している
ことだ。

多和田には、高倉氏(海部尾張氏族)と
池田氏の集団があり、池田氏は、丹生川
沿いにもおられる。

<池田氏>
太田亮氏は、
「池田君:上野国那波郡池田町。
豊城入彦命の裔毛野氏の一族。
池田朝臣:上野の大族。毛野氏の族」
池田氏については、毛野氏の可能性が
ある。

<北村氏>
天野川から分かれた、丹生川沿いの
上丹生に、北村氏がおられる。
姓氏録に、息長丹生真人の名がある。
古代から、ここに息長氏族がいたことは
間違いないだろう。

ブログ筆者は、調査範囲を、横山古墳群
(長浜市)と息長古墳群(近江町)全域に
拡げることにした。

<横山・息長古墳群を囲む人たち>

133話横山息長古墳群を囲む人たち

<北村氏>
本図でも、古墳近くに、北村氏(息長氏
族)はおられない。
ただし、天野川河口付近に、大集団。

<邪馬台国を支えた諸氏族>
本図で存在が目立つのは、
武田氏(海部尾張氏族)、井関氏(魏国へ
の使者イセキ後裔)、加納・川瀬氏(紀直
氏族)、鈴木氏(物部氏族)など。

この氏族分布が、息長氏族の古墳と
判定しにくかった原因の一つだろう。

<池田・上野氏>
太田亮氏は、
「上野氏:毛野氏族 上毛野氏の事なり」

両氏は、毛野氏族の可能性がある。
上野氏は、柏原の津島神社付近にいて、
交通の要衝を押さえている。

ここまで調べたところでは、古墳周りに
毛野氏族がおられる可能性はあるもの
の、確証は得られない。
このままでは、古墳の主が、毛野氏族か
息長氏族か断定できない。

調査は、行き詰まった。

ブログ筆者は、3年前に、「改訂近江国
坂田郡志第1巻 1971名著出版)の
一部を、コピーしていたことを思い出し、
近江の資料袋から取りだした。

「第7章 新羅王子天火槍の吾名邑に来住
」に、
「天火槍は播磨国宍粟(しさは)邑、淡路
島出浅(いでさ)邑、近江国吾名邑に
暫住。
若狭国を経て但馬国に定住・・・」

前話では、対馬にとらわれていた。
もう一度、古墳の向きを調べよう。

最初は、北端の龍ヶ鼻古墳。
前方部の向きは、105度W。

パソコン画面上で、播磨国宍粟市に合致
した。
古代史の神様が、少し教えてくれた瞬間
だった。

次に山ヶ鼻古墳の向きは、135度W.
淡路島出浅(現洲本市由良町)に合致。
いずれも、天火槍の暫住地。

次々に調査した結果は、次図のとおり。

133話横山息長古墳群指す所最終

12基の古墳のうち、6基が暫住地・定住
地を向いていた。
これはもう、息長氏族の古墳と判定して
良いと見た。

例外について、ブログ筆者の意見を述べ
ておこう。

<能美古墳群>
筆者は、石川県小松市・能美市の古墳
群は、道君のものと見ている。
(第87話 道君の本拠、小松市河田町
2014年5月)

しかし、北村氏も、そこで大きな勢力を
持っている。
道君に受け入れられたと見る。

道君は、岡山から分かれた吉備氏族で、
大伴氏により引き立てられた。
息長氏―吉備氏―大伴氏の繋がりが
見えてくる。

継体天皇の子、宣化天皇の時代に、
大伴金村のもとで、吉備氏族の葦北国
造アリシトが働いた。

アリシトの子、日羅が呼ばれたのは、
息長氏の広姫を皇后とした敏達天皇。
敏達天皇の母は、宣化天皇の皇女。

<大荒比古神社>
琵琶湖対岸の高島市新旭町にある。
大荒比古神社の祭神は、豊城入彦命の
後裔、毛野氏族の祖、大荒田別命。

ここを向くというのは、偶然か、それ
とも息長氏族と毛野氏族の血のつな
がりによるのか。

ただし、大荒比古神社を祀るのは、毛野
氏族でも、大野氏の後裔。
大野氏は、近江町と長浜市域には、件数
が少ない。

<近江国安名邑=長浜市鳥羽上>
近江国坂田郡志は、長浜市鳥羽上の地に
ついて、こう書いている。

「西黒田村大字鳥羽上を、中古まで安奈村
と称せし記録あり。・・・この地、およそ
東西壱里、南北壱里、阿那郷と称す」

横山丘陵の、最も東深部の鳥羽上に、
入口を武田氏、井関氏、阿部氏に守ら
れるように、北村氏の集団がおられる。

ここが、天火槍の暫住地だった。

<今話の結論>
読者の皆様には、古墳の主について、
これまでのもやもやが少し晴れただろ
うか。
近江町と長浜市の主要古墳は、息長氏
族のものと見て良いと、今は思う。

天日槍が暫住した地は、倭人の新羅国
王家であった息長氏族と同族の、天氏
族の地だった。

例えば、淡路島の由良町には、武田・
竹田氏16件。
海部尾張氏の地だった。(45年前の
データ)

海部尾張氏の人たちは、近江国坂田郡を
含め、好意的だったが、出雲臣系の地
では、衝突があったようだ。

宍粟でも、3期の龍ヶ鼻古墳は、北村氏
のおられる地域に向いている。
9期の山津照神社古墳は、一の宮伊和
神社を向く。

出雲臣は、武蔵国造家でもある。
宣化天皇時代、武蔵国造家の内紛は、
息長氏に何をもたらしたのか。

近江国の暫住地には、相当な地位の身
内が残り、息長を名乗り、他氏族との
関係構築が進められた。

それが、氏族分布図に現れている。
武田氏が、山津照神社古墳近くにおら
れるのは、息長氏と婚姻関係にあった
証拠となる。

古代に、春日氏、武内氏、物部氏以外
で、豪族の女から直接立后できたのは、
尾張氏と息長氏のみ。

山津照神社古墳の被葬者は、敏達天皇
后となった広姫の父、息長真手王と見る。

広姫の母の名が未詳というが、母の出身
地が、息長陵のある村居田なのだろう。

鈴鏡出土古墳を囲む人たちの調査結果は
次話でいたします。

第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか

筑紫君の謎解きを、磐井と対話した近江毛
野臣の古墳探しから始めよう。

継体天皇時代の近江に、今後の謎解きの鍵
を見つけたいと考えた。

<新修彦根市史第一巻(2007年彦根市
)は、野洲の林之腰古墳を、近江毛野臣
墓の可能性が高いと記す>

該当部分を抜粋すると、
「林之腰古墳は、全長90mという県内有
数の規模を誇る古墳であり、しかも前方
部が後円部の直径より幅広く撥形に開き、
馬蹄形の二重の周濠を巡らせている。

その形状は今城塚古墳と相似形を呈してお
り、大王またはその重臣級の古墳である可
能性が非常に強い。

近江に関する継体天皇の側近に、近江毛野
臣がいる。

毛野臣は、任那復興の失敗により帰国途中
、対馬で没したとされ、その亡骸は「日本
書紀」によれば「河の尋に、近江に」運び
入れられている。

近江で埋葬されたとすれば、この時期の
近江最大級の古墳が該当するはずであ
り、規模や墳形から、林之腰が近江毛野
臣の墓である可能性が高い。」

<林之腰古墳の築造時期は合致するか>

林之腰古墳の発見は、1996年なので、
「前方後円墳集成近畿編」(1992年
山川出版社)の編年表に登場しない。

「前方後円墳集成補遺編」(2000年山
川出版社)に掲載されたが、古墳位置を、
新幹線北側(実際は南側)としたり、
前方部の方向を90度W(実測値は98
度~100度W)とした点が惜しまれる。

築造時期について、地元の野洲市教育委員
会の見解は、変化している。

2001年には、「出土遺物から5世紀の
後半に築造されたと考えられる」(史
跡大塚山古墳・円山古墳・甲山古墳
調査整備報告書)としていた。

2006年には、「出土した埴輪から6世
紀前半の築造と考えられる」(史跡
大岩山古墳群・大塚山古墳調査整備報
告書)と変更している。

6世紀前半ならば、527年の磐井の乱と
時代が合う。

野洲の林之腰古墳は、形状と築造時期か
ら、最有力候補とわかった。

<ブログ筆者の出番はこれから>
近江毛野臣は、そもそも何氏族なのか。
太田亮氏は、武内氏族、羽田八代宿禰後裔
とするが、毛野に着目して、毛野臣と見る
説もある。

また、継体天皇や近江毛野臣が活躍した、
集成編年8、9期の他の古墳(例えば山津
照神社古墳を候補とする説もある。

これらを確かめたうえで、なお林之腰古墳
が候補に残っても、最後にクリアすべき謎
がある。

何故、物部氏と三上祝氏の繋がりが深い
野洲の地に、武内氏族の大古墳が築造さ
れたか、説明が求められるだろう。

ブログ筆者は、5枚の図を用意した。
さあ、これらの謎を解く旅に出発しよう。

<野洲古墳群前方部の指す方向>
132話野洲古墳群前方部方向最終

・林之腰古墳(9期)
実測値100度Wは、対馬を指す。
近江毛野臣が没した地だ。

・古富波山・大岩山・大岩山2番古墳
この3古墳からは、三角縁神獣鏡が出土し
た。
その間に、銅鐸が多数出土している。
銅鐸祭祀を行っていた人たちが、大和政権
に従属したことが、証拠とともに残る。

・前期古墳の、富波古墳は、宗像大社を向
き、冨波2号古墳は三上山を指しており、
旧来の信仰を捨てていないように見える。

・中期古墳(6期)の野洲大塚山古墳は、
全長72mで林之腰古墳に次ぐ大きさ。
前方部は、富波古墳を経て、韓半島漢城を
指している。
ただし、応神・仁徳朝の頃だ。

・林之腰古墳に先行する8期には、鴨稲荷
山古墳を指す天王山古墳(49m)と、彦
根荒神山古墳を経てはるか越後弥彦神社
を指す越前塚古墳(53m)がある。

鴨稲荷山古墳は、継体の父が住んだ三尾
の里に近い。

前方部は、継体の山背国筒城宮を指す。
継体とのつながりを示す古墳だ。

越前塚古墳は、日本武尊と初代安国造の
女、フタジヒメの間に生まれた、稲依別王
の墓、荒神山古墳を指している。

・10期の穴蔵古墳は、南東の雪野山古墳
(3期)を指している。
雪野山古墳は、日子坐王と三上祝の女、息
長水依媛の間に生まれた水穂真若王(アワ
ミ)の墓と見ている。

<野洲古墳群を囲む人たち>
132話野洲古墳群囲む人たち最終

・意外なことは、三上氏が、三上山近くよ
りも、近江八幡市との境に集まっておら
れたこと。
これはどうしたことだろう。

・南西の新川神社は、物部氏族が囲む。
三上祝の女が、2代続けて物部氏に嫁して
いることから、想像したとおり、物部氏族
の多い地域となっている。

・しかし、数の多さと広がりは、武内氏族
が一番だ。
ブログ筆者には、後から入り込んだように
感じられるが、どうだろうか。

・富波の前期古墳近くに、岩井氏の集団。
太田亮氏によれば、岩井氏は物部直氏族。
武蔵一宮の神官家が岩井氏。
物部臣でなく、武蔵国造家一族と、太田亮
氏は書いている。

さすれば、出雲臣系の祝氏族か。
真実を知っておられる人たちだ。

<近江国南部主要古墳の指す方向>
132話近江国南部主要古墳方向最終

この図から、文献では得られない何かが見
つかるだろうか。

・ブログ筆者は、琵琶湖西岸の西羅1号墳
に注目した。

50mの中期古墳の向きは、野洲と線が
往復している。
西羅1号墳を囲むのは、三上氏と北村氏
(息長氏族)。
狐塚3号墳からも、線が伸びてくるが、水
穂真若王の兄、丹波道主王後裔が治め
た地。

湖西の近淡海国造(古事記)と湖東の淡海
安国造がある謎は、同族であると知れば、
解決する。

・湖南の古墳が指す方向は、大神神社、
宇佐神宮、四国西予2代女王イヨの地
など、邪馬台国勢力の地を指している。
瀬田唐橋東岸には、宗像氏族の深田
氏の大集団がおられる。

・本堅田の春日山1号墳は、海岸に春日、
竹内、北村氏がそろう。
大阪府高槻市の今城塚古墳(継体陵)付近
を指す。
春日山1号墳と今城塚古墳は、北村氏が多
い点が共通する。

・東部の雪野山古墳は、水穂真若王の墓と
書いた。
丹波を攻略した日子坐王の子、丹波道主王
が、丹波大県主に対抗して、網野銚子塚古
墳を築いたように、近江を任された水穂真
若王が、安土瓢箪山古墳の主に対抗して、
雪野山古墳を築いたと見る。

・彦根の荒神山古墳は、21世紀に入り
発見された大古墳。

犬上郡を押さえていた天津彦根族が、安国
造の女と日本武尊の間に生まれた稲依別王
に領地を譲ったと見る。

荒神山古墳近くには、建部氏が4件。
犬上君と建部君が後裔だ。
ただし、犬上郡は、荒神山古墳のある宇曽
川と愛知川の間を除いては、北村氏と竹内
氏が大勢力を占めている。

これは、神功皇后と対抗した、忍熊王側の
将軍に稲依別王後裔の倉見別がついて
敗死したため失ったと見る。

そして、野洲地域に、武内氏族が多いの
も、この戦いの後と見る。

安国造家の女と羽田八代宿禰の間に近江
臣が生まれ、後裔が近江毛野臣と見る。
(系譜参照)

<近江国北部主要古墳の指す方向>
132話近江国北部最終

本図は、拾いもれがないよう、念のために
作成したもの。
すると、8、9期の前方後円墳で、かつ
対馬を指す古墳が、2基出てきた。

坂田郡の山津照神社古墳(9期100度
W45m)と、高月町の横山神社古墳
(8、9期100度W32m)。
山津照神社古墳は、近江毛野臣墓説が
ある。


132話近江臣の系譜最終


第一三一話 筑紫君への道

(長岡天神参道:道真が配流の途中寄った地)2017年4月撮影
IMG_3805 (340x255)

(太宰府天満宮:道真の眠る地)2017年5月撮影
IMG_4064 (340x255)


第一二三話で予告した、「筑紫君への道」
の執筆に、取り掛かる日が来た。

ブログ筆者にとって、筑紫君は謎の塊に
見える。
謎と感じるところを、思いつくままに挙げる。

<近江毛野臣>
最も有名な対話シーンだ。
近江毛野臣は、筑紫君イワイの友か、それ
とも伴か?
何故、新羅遠征を、言い含められ止めたか?

「伴」の文字が使われているのに、解釈書
はどれも友と訳しているが、部下だった
のではないか?

太田亮氏の「姓氏家系大辞典」は、近江毛
野臣を、武内宿禰後裔羽田臣氏族とする。
しかし、物部氏と関係が深い、近江の野洲
に葬られたとされるのは何故か?

近年発見された、林の腰古墳は、その墳墓か?

前方後円墳集成補遺編(山川出版社)に従
えば、方位は西。
彼が活躍しそして失敗した、日本府のおか
れた安羅国を指している。

<肥前を向く筑紫君一族の古墳>
石人山、石戸山等、筑紫君一族のものと
見られる前方後円墳は、殆どが前方部を
西の肥前国に向けている。

筑紫君のルーツを指しているのではないか?
初代筑紫国造、田道宿禰の名を負った、
田道ヶ里が肥前国神埼にあるが、関係ある
のか?

<筑紫火君・火中君>
筑紫君の子とされる、筑紫火君・火中君の
本拠地はどこか?
鳥栖、山鹿で良いのか?

<安倍氏と筑紫君>
安倍氏と同祖とされるが、どう系譜がつな
がるのか?
大彦命の子、タケヌナカワワケ命の後裔
なのか?

<肥筑豊に築いた大勢力>
肥筑豊に大勢力を誇ったとされる筑紫君。
どのような氏族が結びつき、支えたのか?

<筑紫君は筑紫倭王なのか>
白村江の戦いに先立ち編成された、倭国遠
征軍の中に、筑紫君の名は見当たらない。

超越した存在だったのか?

これらの謎に、どこから、どのように取り
組めば良いのか。
何を手がかりにすればよいのか。
ヒントは見つかったか。

この数年間、遠回りを重ねてきて、「いま
書き出さずしていつやる」という条件が
そろった。

「筑紫君への道」とは、筑紫君が肥筑豊に
またがる大勢力に成長していった道であ
り、また、ブログ筆者が、筑紫君の真相に
迫る道でもある。

第一三〇話 葦分神社探訪記

(大阪府茨木市の葦分神社)
130話葦分神社正面額写真
130話 葦分神社拝殿燈籠写真

前話に登場した葦分(あしわけ)神社を、
ブログ筆者は訪ねた。

同神社の所在地、茨木市島1-1-21。
祭神は、天照大神。

旧村名では、宮島村の北辺にあたる。
宮島村は、南を安威川が流れ、北は玉櫛村
と溝咋村に接していた。
同神社敷地は、玉櫛村に食い込んでいる。

溝咋村は、三島溝咋耳。玉櫛村は、溝咋耳
の子、玉櫛彦と玉櫛媛ゆかりの地。
玉櫛村の東奈良遺跡からは、銅鐸鋳型が出
土しており、青銅器が作られ、各地に供給
されていた。

神武天皇の皇后を出した、三島縣主の勢力
圏に隣接して、集落を築いたのは、どんな
人たちか。

<葦分神社を囲む人たち>
葦分神社を囲むのは、ブログ筆者が中心と
見る武田氏(海部尾張氏)を別にすれば、
西島氏が目立つ。

西島氏は、太田亮氏の著作によれば、
「①藤原姓 ②秦河勝後裔の名族」と
ある。
茨木市は、前に書いたが、藤原・中臣氏族
の聖地だ。
(第73話:継体陵はどちらか 
第74話:伝継体陵は雷大臣命  
2013年8月)

葦分神社東隣にある、葦分神社東方遺跡。
茨木市教育委員会の発掘調査概要報告書を
見ると、同神社を中心に、平安時代中期
(11世紀中葉頃)に集落が成立したもの
と思われるとある。
古代については、推測するしかない。

<大燈籠の寄進者:岸本氏>
神社入口に、大きな燈籠が二基。
天保年間、吉志部東村の岸本藤助さんが、
願主として寄進したとわかる。
岸辺の地名は、葦分神社南西、約4キロ離
れた吹田市域にあり、今も岸本氏が多数住
んでおられる。
信仰した人たちは、現在の氏子の範囲より
広がっていたとわかる。

岸本氏がどんな人たちか、良く教えてくれ
るのが、島根県雲南市加茂町神原。
神原神社を中心に、速水氏と共に、岸本氏
が囲む。
速水(はやみ)氏が、ニギハヤヒ命(海部
尾張氏の祖)の後裔と見れば、岸本氏は、
大物主を囲む人たちだった。

<葦分神社参拝線は、亀岡出雲大神宮を指す>
葦分神社の参拝方向は、N2度E。
京都府亀岡市にある出雲大神宮を指してい
る。

葦分神社を支えた人たちは、海部尾張氏を
中心として、取り巻く岸本氏、中臣氏族の
人たちであったと見る。

第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏

(クイーン・エリザベス号神戸来航)2017年3月撮影
エリザベス号 (278x370)

前話では、肥後国浄水寺の大檀那、真上氏
が、何氏かわからないままに終わった。

このまま、ほっとくわけにいかない。

筆者は、近くのケーキ店、「プチ・プラン
ス」茨木舟木店で、半焼チーズ・ショコラ
(1個120円)を買ってきて、口に頬張
りつつ次の作戦を立てた。

スイーツの効用か、次々にヒントが見つかった。

<ヒント1:宇佐神宮間近に真上さん発見>
第125話に、宇佐神宮上社を囲む中山氏
の図を載せた。
データを改めて追いかけると、何と中山さ
ん達よりもさらに社殿間近に、真上さんが
おられた。
次図は、真上さんを書き加えたもの。

129話中山氏

宇佐女王を、アマミクの後継者とすれば、
真上氏は、男子王の武田氏(海部尾張
氏)の位置にくる。
真上氏は、海部尾張氏ではないかと、筆者
は考え始めた。

<ヒント2:小隈野の在地領主舛田氏>
二つ目のヒントは、妙見神が鎮座した小隈
野から見つかった。

鎌倉時代、小熊野村の在地領主に、徳王丸
西仏という人物がいた。
後継氏は、舛田氏と云い、代々用水管理を
司ったという。
出典:「肥後国南部における地域社と領主
権力」
(村上豊喜氏 1988年熊本史学64・
65合併号)

舛田氏のデータは、全国900件。
1位 広島県125件
2位 熊本県90件 宇城市が最多18件
で全て豊野町。
次図は、舛田氏をプロットしたもの。

129話小隈野時代支えた氏族図
129話小隈野時代支えた下半分図

城南町藤山では、武田氏の間に挟まれて
いる。
豊野町山崎でも、武田氏のすぐ近くにおら
れる。

そして、太田亮氏の、姓氏家系大辞典は、
「舛田氏 越後弥彦社上條神官にあり」。

弥彦社は、海部尾張氏の祖神を祀る。
海部尾張氏が、浄水寺・妙見神の支援者で
あった可能性が高まった。

<ヒント3:長田王の巡察地>
奈良時代初め、長田王という人物がいた。
734年、朱雀門で歌垣が催されたとき、
王は頭となり、「風流人」と、続日本紀に
書かれている。

筆者の推測では、長田王は、長皇子(父:
天武天皇、母:天智皇女大江皇女)の子
で、690年頃?~737年卒と見る。
万葉集に、和歌数首が選ばれている。

神亀元年(724年)~2年(725年)
頃、大宰少弐石川君子の同行を受け
て、肥薩国境を巡察した時の和歌。

720年に、大隅国司が殺害される事件が
起こり、大伴旅人が大将軍となって隼人を
鎮圧。
724年3月には、陸奥国で蝦夷の反乱が
起こり、藤原宇合が大将軍となって鎮圧に
向かった時期。

長田王の作れる歌一首
「隼人の 薩摩の迫門(せと)を 雲居な
す 遠くも吾は 今日見つるかも」

長田王、筑紫に遣さえて 水島に渡りし時
の歌二首
「聞くがごと まこと貴く 奇しくも 
神さびをるか これの水島」
「葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 
水島に行かむ 波立つなゆめ」

石川大夫、和ふる歌一首
「沖つ波 辺波立つとも わがせこが
御船の泊り 波立ためやも」

長田王を乗せた船は、葦北の野坂の浦を出
て、八代の水島に向かった。

野坂の浦の比定地は、過去論争があった。
田浦町(現芦北町)は、同町田浦とする。
熊本県は、南方の佐敷・計石とする様子。
次図は、二つの候補地。

129話野坂浦候補地

田浦とすれば、出迎えたのは、武田氏(海
部尾張氏)となるが、佐敷・計石とすれ
ば、三島氏となる。
田浦は、奈良時代の宝亀年間に、郡司と
なった檜前氏の、後世までの根拠地。

水島は、八代市球磨川河口の小島。
第126話に登場した、鼠蔵島の南。

129話楠木山古墳周辺図
129話八代市小島

景行天皇が巡幸した際、水が見つかったと
いう伝説の島。
景行天皇を出迎えた人たちとは、鼠蔵島に
楠木山古墳を築いた、海部尾張氏の人たち
だったろう。

風流人の長田王は、自らを景行天皇に見立
て巡幸を再現しようとしたに違いない。
同行した太宰少弐石川君子も、王の意図
に気付き、御船と詠んで王を喜ばせた。

撰者の大伴家持は、長田王の和歌に込めら
れた趣向の面白さに気付き、万葉集に入れ
たと見る。
そう、水島で長田王を迎えた人たちは、景
行天皇を迎えた人たちの後裔、海部尾張氏
であったろう。

<ヒント4:葦分神社>
国造本紀では、葦分国造と書かれている。
文字が同じ、葦分(あしわけ)神社が、筆
者の住む大阪府茨木市南部にある。

神社のすぐ側に、武田氏がおられる。
肥後の葦北も、元は海部尾張氏が支配者
だった証拠か。
また、阪急京都線をはさみ、竹原氏が11
件おられる。(45年前のデータ)

吉備国には、大和朝廷軍の吉備津彦兄弟が
攻め込み、弟の稚武彦命が統治者となる。
肥後葦北国も、元は海部尾張氏が支配して
いたが、兄の大吉備津彦の子孫(日羅一族
)が支配することになった。
八代は、神八井耳命の後裔が、支配するよ
うになった。

これが、歴史の真相と筆者は見る。

次図は、宇城市松橋町の松橋大塚古墳を
囲む人たちの図。

129話松橋大塚古墳囲む人達

いまヒントを得て、改めて見ると、中山氏
、中本氏(ニギハヤヒ命近親者)、紀直
氏族の集団が囲んでいる。

筆者は、同古墳被葬者は、海部尾張氏と
いう確信に達した。

第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2)

(万博公園の春景2017年3月撮影)
IMG_3514 (278x370)

大阪千里万博公園内に、みんぱく(国立民
族学博物館)がある。

本館展示室と、特別展「世界のビーズ」を
見た。
人間は、世界のどこにあっても、衣服や飾
り物を作り続けてきたと知らされる。
特に、神官たちは、特別あつらえの衣装を
身にまとい、大きな首飾りや腕輪を付けて
いる。

信仰が継続するには、神官たちの衣食住の
保証が欠かせない。
このためには、支援者が必要だ。

八代妙見神社群のなぞ解きの第二話は、
初期に妙見神を支援した氏族探しをテー
マとした。

<寄港地・植柳(うやなぎ)妙見宮を囲む人たち>
128話植柳神社周辺図

同社は、八代市植柳元町に鎮座する。
妙見神は、白鳳9年(681年)に、大陸
から来朝し、植柳の津に寄港したとされ
る。(妙見宮縁起)

植柳妙見宮を囲む人たちの中で、注目する
のは、武田氏と淪氏。
武田氏は、海部尾張氏族。
この地で支援したのは、海部尾張氏族であ
ったろうと、筆者は見る。

淪氏は「さざなみ」とお読みするらしい。
姓氏辞典では、熊本県の名家で、八代市に
多いとされる。
太田亮氏の、姓氏家系大辞典に、淪氏はな
いが、同じ読み方で、「楽浪(さざなみ)
氏」が記載されている。

「百済族にして、楽浪河内という人あり。
神亀元年に姓を高丘(たかおか)連と賜う。
近江朝、百済より帰化せし沙門詠の子也」

高丘といえば、桓武天皇の孫で、皇太子を
廃された高岳(たかおか)親王(794~
865?)がいる。
出家して空海の弟子になり、862年に
入唐。
さらに天竺を目指したが、途中でなくなっ
た人物。

皇太子を養育した氏族とすれば、百済でも
特に高貴な血筋か。
寄港した妙見神が、百済王族の可能性を
示す人たちだ。

<上陸地・竹原神社(妙見宮)を囲む人たち>
128話竹原神社周辺図

同社は、八代市竹原町に鎮座する。
祭神は、天御中主命。
妙見神は、この地に、三年滞在したと伝わる。

同社を囲む人たちの中で、注目したのは、
三島・三嶋氏。
吉川氏は、筆者がいつも書くように、三島
氏の護衛隊なので、三島・三嶋氏(葛
城直氏族)が支援したと見る。

竹原神社の参拝方向は、北東N30度E.。
今回の新たな発見は、城南町陳内の甚九郎
山古墳を指していたこと。
これに気付いたのは、妙見神が、竹原から
遷座した益城郡小隈野に、下郷神社があり
、その参拝方向が甚九郎山古墳を指してい
たからだ。

竹原の支援者、三島氏から、次の小隈野の
支援者を指して、竹原妙見宮は建てられた
と見る。

<小隈野鎮座時代の支援者を探せ!!>
妙見神は、小隈野に、80~90年鎮座し
たと伝えられる。

幅があるのは、八代横嶽(上宮地)に遷座
した時期について、二説があるからだ。
天平宝字2年(758年か、宝亀2年(7
71年)か。
どちらであるかにより、小隈野を去って
八代横嶽に遷座した理由が、異なって
くるだろう。

少なくとも、3世代以上という時間を支援
した氏族探しを、読者の皆様と共にやっ
てみよう。
ドロ-ンで調査するかのように、判定に有
益と思われる情報を盛り込んで、次図を
作成した。

128話小隈野時代支えた氏族図
128話小隈野時代支えた下半分図

<小隈野>
浜戸川の支流に、小隈野川があり、豊野町
(現宇城市)を流れる。
薄灰色の楕円が、小隈野時代を過ごしたと
見られるエリア。
ここには、妙見神ゆかりの三神社がある。

その三社の正面線と参拝方向線を引いたと
き、支援者の謎が解け始めた。

<白木神社>
現在は阿蘇大神を祀る、同社の正面線は、
旧浄水(きよみず)寺址の下郷神社を貫き
、さらに松橋町(現宇城市)の松橋大塚
古墳を指していた。

白木神社は、浄水寺の檀越と松橋大塚古墳
の被葬者につながると見てよいだろう。

<小隈野神社>
祭神は、天御中主命であり、元妙見宮と称
したことが、下益城郡誌(501頁)に記
されている。
筆者が驚いたのは、小隈野神社もまた、
正面線が松橋大塚古墳を指していたこ
とだ。

松橋大塚古墳被葬者の氏族が、妙見神を支
えていた証拠だと見る。

<下郷神社>
祭神は、イザナギ、イザナミ、大三輪神等。
下益城郡誌は、「元浄水寺の鎮守山王社た
りしを、維新後社格を得て始めて現社名を
附せしものならん」とする。
下郷神社の参拝方向は、北北東N10度E。
これは、白木神社の正面線N80度Wと、
直角に交差する。

指している先は、城南町陳内の甚九郎山古
墳。
前述のとおり、八代市竹原神社と豊野町下
郷神社の参拝方向線が、甚九郎山古墳で
重なる。

<宮原三神宮>
本図の南方、氷川の南岸に鎮座する宮原
三神宮も、妙見神ゆかりの神社。

同社は、平家全盛の平治元年(1161年
)に、八代妙見宮中宮と共に造営された
と伝わる。
同社の参拝方向(N)がどこを指すのか、
第一二六話で氷川流域の古墳周辺図を
作成した時点では、わからなかった。

今回、豊野町の二つの神社の正面線が、
松橋大塚古墳をさしていると判明した。
改めて計測した結果、宮原三神宮もまた、
同古墳を指していた。

この発見も、筆者にとって驚きだった。
平家一門が、妙見神創祀の経緯を、良く知
っていて、社殿の方向を定めたと見る。

<二古墳の被葬者の氏族が、妙見神の支援
者>
「古墳と神社の向きは、嘘をつかない」と
いうのが、これまでの教訓だ。

神社群の指す方向から、上記の二古墳の氏
族が、初期妙見神を支援していたと、筆者
は確信するに至った。

二古墳の被葬者については、前々話までに
、判定している。
甚九郎山古墳は火君氏族(第一二四話)。
松橋大塚古墳は大神氏族(第一二五話)。

この判定は、そのままで良いだろうか?
参考にすべきは、下郷神社の敷地に残る、
浄水寺四石碑の一つ、燈籠碑(延暦20年
801年)の銘文。
「奘善和上  御願造奉  燈楼一基 延
暦廿年 七月十四日 真上日乙  肥公
馬長 化僧薬蘭」
ここに刻された、真上氏と火君氏が、80
1年には、同寺の大檀越(支援者)で
あったとわかる一級資料だ。

ただし、浄水寺が完成したのは、延暦九年
(790年)頃であり、既に妙見神は、
小隈野を去って、八代に再遷座していた。
浄水寺完成5年後の795年、桓武天皇に
より、妙見神は国費で、上宮社殿が造営
される。

浄水寺檀越の真上氏とは何氏族か?
燈籠碑では、肥公より先に名前が書かれて
いる。
寺領をより多く提供したか、それとも官位
が上位か?

豊野村史(1991年)は、真上氏につい
て、こう書いている。
「浄水寺碑文に、肥公の名前が見えること
から、火君一族の援助のもとに寺が建てら
れたと考えてよい。
碑文にあるもう一人の援助者真上日乙につ
いては、浄水寺の位置が大野川の上流に
あたっている点を考慮し、豊福郷か小河郷
の郷長であろう」と、推測している。

果たして、筆者が作成した図から、同じ判
定が出るだろうか?

松橋大塚古墳は、大野川流域を勢力圏とし
た人物と見られるが、何氏族か?
古墳の周りには、海部尾張氏族、紀直氏族
、大神氏族等が集まる。
共通するのは、ニギハヤヒ命(大神)を奉
戴する人たちであること。
同古墳を指す、小隈野神社の参拝方向線は
、N118度Eで、日向一宮の都農神社を指す。
三輪(大神)氏が、大集団を形成している
地だ。

苦しいときは、太田亮氏頼み。
姓氏家系大辞典によれば、真上=真髪=
もとは白髪部(御名代部の一つ)。
真髪を名乗った氏族は、鴨県主氏族、吉備
氏族、出雲臣氏族、ニギハヤヒ命の後裔氏
族等があり、特定氏族と断定できない。

さらに、肥後の真髪氏として、「天長10
年(833年)肥後国葦北郡真髪部福益
云々。各々私物を輸して飢民を滋ふを
以って也」とある。

天長10年(833年)といえば、浄水寺
が定額寺に指定された天長5年(82
8年)に近い時期だ。
日羅の本拠、芦北郡の人物が、浄水寺や妙
見神の支援者だったのだろうか?

松橋大塚古墳被葬者の氏族については、大
神氏族か、海部尾張氏族か、又は紀直氏
族か、判定がまだ揺れる。

第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1)

前話では、八代の前方後円墳の主を、火君
とあっさり判定した。

その後、筆者の関心は、八代の妙見神社群
に向かった。

筆者は、「能勢妙見は、源氏の祖・多田満
仲の鎮守とぞ」と教えられて育った。
関東の相馬、千葉等の妙見宮は、桓武平氏
の信仰したところ。

八代は、妙見神が最初に上陸したとされる
、妙見信仰の本拠地。

その八代妙見神社群が、どこを指して建て
られているのか、確かめておきたかった。

読者の皆様には、八代妙見神社群の位置
図を見ていただく。

127話八代妙見神社向かう先


次図は、各神社の指すところと、妙見神の
遷座の歴史を書き加えたもの。

127話八代神社向かう先最終予備

本図を完成させたとき、ブログ筆者は大い
に戸惑った。

植柳妙見宮(寄港地)の参拝方向線と、八
代妙見宮の正面線が、南西の日羅を祀る
百済来(くだらき)地蔵堂で重なった。

妙見神と日羅はつながっていたのか?
いやこれは偶然か?


もう一つの驚きは、竹原神社(上陸地)と
八代妙見宮の参拝方向線が、指すところ
だった。

城南町の宮地および陳内の二ヶ所。
益城町の古閑・福富付近。

過去の、益城国府論争に登場した、3つの
候補地を向いていた。

昨年の夏、九州の大地図を八畳間サイズに
貼り合わせて作り、全前方後円墳の位置と
前方部の方向線を記入した。
その図に、今回書き加えてみると、益城町
の福富にある妙見神社に行き当たった。

隣には、妙見川が流れており、神社を豊田
氏が囲む。

豊田氏について、太田亮氏は、姓氏家系大
辞典で、「天御中主命の後裔と称す」と記
している。
天御中主命とは妙見神だ。


さらに、もう一つの驚きは、球磨川南岸の
遥拝(ようはい)神社だった。

妙見神を祀ってはいないが、同神社の正面
線は、浅井神社(寄港地)と八代妙見五社
の一つ、松崎神社を貫いて、百済国王都
扶余を指していた。

遥拝神社は、日羅と妙見宮を繋ぐものか?

次々に現れる謎。
筆者は、この謎ときに、本気で取り組むこ
とにした。

まず追いかけたのは、日羅や檜前氏後裔。
さらに、各神社を囲む人たちだった。
                     (つづく)

第一二六話 八代の前方後円墳の主たち

熊本県八代市の前方後円墳は、旧鏡町の有
佐大塚古墳を別にすれば、次図のとおり、
川田町、上片町付近に集中する。

126話 八代前方後円墳周辺図

古墳を囲む人たちには、園田氏(火君氏族
)を除けば、前方後円墳の主となる氏族は
おられない。
これらの前方後円墳の主は、火君一族と見
て間違いない。

「八代大塚古墳」(1993年熊本県教育
委員会)は、こう書いている。

「中核となるのが、全て前方後円墳から成
っている、大塚古墳群で、長塚(消滅)、
八代大塚、茶臼山、高取上の山が順に
北から並んでいる。

大形古墳が多く、茶臼山古墳は全長100
mを超えると推定され、この古墳群が八代
平野の最有力者の墳墓群と考えることが
できる」(P5)

あまりに、あっさりと答えは出た。
それでは、氷川町(旧竜北町)の野津古墳
群と、八代の古墳群は、どちらが先に築造
されたのだろうか。

<熊本県南部の前方後円墳編年表>
次表は、整理のため、ブログ筆者が作成し
たもの。

126話熊本南部古墳編年表

「前方後円墳集成」(1992)では、野
津古墳群を6~7期、八代古墳群を
7~8期とする。

しかし、「新宇土市史」(2003年)は
、八代古墳群を5~6期とする。
新宇土市史の説を採れば、八代が火君の
本拠地となる。
どちらが正しいのだろうか。

<八代市鏡町有佐大塚古墳>
ブログ筆者は、第一二三話において、同古
墳被葬者の判定を保留していた。
次図は、氷川流域の古墳周辺図。

126話氷川流域古墳周辺図

有佐大塚古墳の主は、野津古墳群と同じ火
君なのか、それとも異なるのか。
これは、かなりの難問だった。

・氷川流域で捉えれば、野津古墳群の数と
大きさは圧倒的なので、火君か?
・いや、有佐大塚古墳周りに、園田氏(火
君氏族)が全くおられないぞ。
・有佐大塚古墳の場所は、貝塚上で、築造
当時は海岸線。
そこに、火君が造るだろうか?

・野津古墳群は6~7期築造とされる。
有佐大塚古墳は4期で、宇土半島基部の主
要古墳群と同じ時期。
これが火君の古墳とすれば、火君最古の古
墳となるが、それでよいのか?

この謎ときには、時間がかかった。
八代の本当の謎があって、それが判定を困
難にしているのではないか、と考えた。
本当の謎が、茫洋と見え始めた時、答えが
現れた。

同古墳を囲む人たちを、丹念に見ると、小
島氏が多いと気付いた。
小島氏は、どんな人たちなのだろう。

答えを導いたヒントは、「前方後円墳集成
」の編年表の中にあった。

円墳だが、3期に楠木山古墳、4・5期に
大王山1号・2号墳が記載されていた。
重要な円墳と見られたから、記載されたに
違いない。
筆者は、これらの古墳の調査に移った。

<楠木山古墳>
同古墳は、八代市を流れる球磨川の河口に
ある。
干拓以前は、海に浮かぶ小島であった。
次図は、同古墳の周辺図。

126話楠木山古墳周辺図

同古墳を囲むのも、小島氏だった。

大鼠蔵山と小鼠蔵山には、鼠蔵(そぞう)
古墳群がある。

「楠木山古墳は、前期様式の竪穴式石室を
持ち、碧玉製紡錘車と古い形式の土師器が
出土しており、築造年代は、4世紀と考え
られる。
八代平野南部では、最も古い古墳として注
目される。」(「八代大塚古墳」1993年)

<大王山古墳群>
もう一度、氷川流域の古墳周辺図を見てい
ただきたい。

同古墳群は、旧宮原町早尾にある。
1号墳は、大王山山頂付近、2号墳は横穴
式石室、3号墳は竪穴式石室で舟形石棺。
築造時期は、有佐大塚古墳とほぼ同じ。
そして、近くに小島氏がおられた。

あらためて、小島氏とはどういう人たちか?
全国データでは、
1位  愛知県 4800件
2位  神奈川県 3700件
3位  埼玉県   3600件

九州沖縄データでは、
福岡県 750件  長崎県 660件
熊本県 420件  鹿児島県 250件
佐賀県 200件  大分県  150件
宮崎県 100件  沖縄県   15件

ブログ筆者は、次の町の小島氏に注目した。
①高知県宿毛市平田町
次図は、第一二五話で中山氏の説明に登場
した図を、拡大補筆したもの。

126話小島氏宿毛平田町最終

曽我山古墳を、びっしり取り囲む小島氏。
波多国造本拠地で、武田氏(海部尾張氏族
)が首長と見る。

②高知県高知市長浜
太平洋に面する高知市の長浜海岸には、
武田氏70件が集中する。
小島氏は、西に隣接する春野町に70件。

③長崎県対馬市
小島氏240件は、1位の阿比留氏(津島
国造後裔)450件に次ぐ、2位。
北端の上対馬町鰐浦から、美津島町、厳原
町まで、広く分布する。

④福岡県朝倉市
八代市・氷川町の真北に当たる、朝倉市小
田、小隈は、有名な平塚川添遺跡に極め
て近い場所。
ここに2つの前方後円墳がある。

小田茶臼塚古墳(6期55m)は、N17
度Wで前方部は、宗像大社を指す。
神蔵(かんのくら)古墳(1期40m)は
、N47度Wで、志賀島を指す。

古墳の主は、高倉氏(海部尾張氏族)又は
高木氏(紀直氏族)と見られるが、小島氏
40件が古墳を囲む。

⑤愛知県一宮市
同市の中心部に、尾張国一宮の真清田(ま
すみた)神社が鎮座する。
祭神は、尾張氏の祖神、天火明命。
ここを中心に、江南市、犬山市を含めて、
約1000件の小島氏。

⑥名古屋市南東部、知多半島基部
名古屋市の小島氏総数は、約1200件。
緑区190件、天白区150件、南区120件。
南に隣接する東海市400件、知多市130件。

緑区大高町には、尾張国造館跡の火上姉子
神社があり、ここを中心に、小島氏約11
00件が集まっている。

ブログ筆者は、ようやく確信を得た。
小島氏は、対馬では倭国の防衛に当たり、
朝倉においては、邪馬台国防衛の最前線
にあった。
海部尾張氏の行くところ、高知、伊勢志摩
、尾張、相模、武蔵へと展開している。

平時には、南北の交易に従事し、戦時には
勇敢な海兵隊として活躍した氏族と見た。

<結論>
八代市の前方後円墳の主は、有佐大塚古墳
を除き、火君一族のもの。
しかし、その前の時代は、海部尾張氏が、
八代に勢力を持ち、古墳を築造していたと
わかった。

古代史文献は、大和朝廷多氏族の将軍が、
同地を平定したところから始まっているが
、既に海部尾張氏が治めていた。
これは、吉備国とほぼ似た状況だ。

海部尾張氏は、首長位を明け渡したが、
権威と勢力は存続したと見る。

第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者

今話の謎解きの対象は、宇土半島基部の
宇土市・宇城市の前方後円墳。

これらの古墳の主は火君一族か、何氏族なのか。
これが難問であることは、次の文章が教えている。

「宇土半島基部の古式古墳は、4世紀にさ
かのぼるものが多い。
この半島基部の豪族の首長が肥君と別のも
のか、肥君とつながりのあるものか、また
肥君の祖にあたるものか、考古学の資料
からはわからない。
肥君の先駆文化として説かれ、また邪馬台
国論争にも無視できないとされている」

(出典:「宇土市栗崎町城ノ越古墳出土の
三角縁神獣鏡」(富樫卯三郎著 1967
年2月熊本史学第33号)

<古墳を囲む人たちと指す方向>
読者の皆様には、古墳を囲む人たちと、前
方部が指す方向図を見ていただこう。

125話宇土半島基部墳+方向線本終版
125話氏族の解説最終

ブログ筆者は、本図から次のようなことに気づいた。

①中山氏が囲む古墳が多いが、どんな人たちか。
②境氏は、県内最古の前方後円墳とされる
、城ノ塚古墳近くにおられるが、どんな人たちか。

③釜賀氏は、天神山、潤野3号の前期古墳
近くにおられるが、どんな人たちか。
④多氏族が囲む古墳が少ない。
園田氏(肥直族)、伊豫氏(多氏族)はお
られるが、古墳の主と見られる古墳が
ない。

⑤武田氏(海部尾張氏族)は、向野田古墳
近くにおられ、その護衛隊と見る吉川氏も
多い。
男子王と見られる海部尾張氏は、この地域
に影響力を残していたと見られる。

<古墳の方向線の延長図>
次図は、各古墳前方部の指す方向線を、さ
らに引き延ばした図。

125話宇土半島基部墳の指す方向図最最終

ブログ筆者は、次のことに気づいた。

①被葬者又は築造者の意図が、はっきりと
わかる古墳がある。

城ノ越  宮崎県都農町都農神社
向野田  宗像大社
天神山  祖母山、さらに紀伊熊野
潤野3号 高知県宿毛市平田町
    波多国造(崇神朝、天韓襲命)本
拠地
    曽我山古墳
高知坐神社(つみは八重事代主命)
同神社は、大神氏族の祖神を祀る
祖母山を向く。

②島原半島南部を指す古墳がある。
スリバチ山、国越、弁天山、仁王塚

前に、島原半島北東部が、玉名市の紀氏族
、大野氏の元の本拠地であったと書いた。
南島原も、紀氏族、高木氏の拠点であり、
被葬者は、紀氏族の可能性がある。

③韓半島を指す二つの古墳
楢崎古墳(5期)と松橋大塚古墳(9期)
の延長線は、韓半島に至る。

前方後円墳集成は、楢崎20度W、松橋大
塚40度Wとする。
そのまま線を引くと、楢崎古墳は新羅王都
慶州に、松橋大塚古墳は、百済王都扶余
に至る。

二つの古墳近くには、中山氏集団があり、
太田亮氏著作に、「中山氏:第1項、百済
族、百済人韓遠智等に、中山連を賜う 」
とある。
これを繋ぐと、被葬者は百済王族となる。

しかし、ブログ筆者は、楢崎古墳が、箱式
石棺から舟形石棺など、弥生以来の伝統
の4種の石棺を用いており、百済王族では
ないと見た。

調査報告書「ヤンボン塚古墳・楢崎古墳」
(1986宇土市教育委員会)には、墳丘
主軸は19度Wとあった。
これを採用すると、南関町の武田氏集団
(21件)の真上を通過する。

松橋大塚古墳については、最新の調査報告
書を見つけた。

「松橋大塚古墳」(2015宇城市教育委員会)。

同書に、「この発掘調査では、幅5m以上
の周濠が付設されていることが判明した。
周濠を墳丘測量図に加えれば、主軸はN
45度Wと修正されよう」

45度Wを採用すると、武雄市おつぼ山神
護石に至った。
神護石は、旧地名で楢崎にあり、楢崎及び
延長線上に中山氏がおられる。

神護石とは、女性首長が祭祀を行った齋域
を、後世に整備した場所とみてよいだろうか。

<中山氏・境氏・釜賀氏>
これらはどんな人たちか。
実際に、どの氏族に近い人たちかを調べた
ので、次図に示す。

125話中山氏
125話境・釜賀氏

<被葬者氏族の判定表>
これまでの調査データに基づき、各古墳の
被葬者氏族の判定表を作成した。

125話被葬者氏族の判定表

<ブログ筆者のコメント>
宇土半島基部の前方後円墳の被葬者は、古
墳を囲む人たちと、前方部の方向等から判
定すると、海部尾張氏族、紀氏族、宗像氏
族と見られる。

海部尾張氏族と紀氏族は、義兄弟の深い繋
がりがあり、ともに宗像三女神、宇佐女王
を奉戴する。

宇土市西岡台に居館をおいた首長の奥津城
は、周りの古墳群だとすれば、男子首長は、
海部尾張氏族と紀氏族、女子は宗像氏族
の血を引く人物であったと見る。

総目次(第一話~第一二四話)

(船団のような住吉大社の四本宮)平成28年12月撮影
IMG_3234.jpg

・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

(溝咋神社境内社・厳島神社の秋景)平成28年11月撮影
IMG_3091 (2)

第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6)

ブログ筆者は、若い頃に、熊本市田迎町で
暮らしたことがある。

毎日利用したのは、御船・甲佐・城南行の
熊本バス。
4階のベランダから南を眺めると、加勢川
、緑川を越え家が点在し、後方に南九州の
山塊が横たわる。

北側の部屋から見ると、熊本城と金峰山が
正面。
東方に阿蘇の外輪山。
西方に有明海と雲仙岳。
遮るもののない大パノラマを味わった。

<御船町・城南町の古墳位置図>
124話御船町・城南町の古墳位置図

熊本市南部は、古代は海底。近世になって
も、白川から緑川までの一帯は、水害に見
舞われてきた。
標高5m線が、縄文時代の海岸線。
貝塚がその証拠。

御船町の豊秋台地、城南町の吉野山・塚原
台地は、岬の高台から、北に広がる大スペ
クタルを眺める、最高の場所となる。
弥生~古墳時代にかけて、古墳が連綿と作
られたのも頷ける。

御船町には2基、城南町には5基(消滅し
た土取塚を含む)の前方後円墳がある。

はたして、これらは、全て火君一族のもの
だろうか。

いつものやり方で探索を開始する前に、地
元自治体の見解を紹介する。

<御船町史2007年>
「長塚古墳は、5世紀代に築造、6世紀に
かけて使われたと推定される。
今城大塚古墳は、6世紀の築造と考えられる。
規模の大きな2基の前方後円墳は、この一
帯で最高の力を持った豪族の墓である。
これらの墓に葬られた一族の名前はわから
ない」

(注)今城大塚古墳の向きは、「前方後円
墳集成九州編」(1992山川出版社)はN
22度Eとするが、ここでは、御船町史掲載
の復元図を基に、N160度Wを採用した。

 <城南町史1965年>
「城南町に前方後円墳が5基存在すること
は、きわめて注目にあたいする。
城南町の古墳群は、3つの大群にまとめら
れる。

①吉野山 山頂の舟形石棺はもっとも古く
、5世紀初期である。
周囲をへいげいする位置にきづかれ、共同
体首長の墳墓にふさわしい。
②塚原  琵琶塚、花見塚、土取塚古墳
浜戸川沿いの塚原台地。これは、益城国造
肥君の墳墓を中心とする一群と思われる。
③沈目・陳内  甚九郎山、狐塚古墳
塚原台地の対岸にある。6世紀後半。

<熊本県文化財調査報告書「塚原」1975年>
編纂当時の、熊本県の考えが良く書かれて
いると思われるので、引用する。

・吉野山山頂出土の舟形石棺は、菊池川流
域が顕著で、中でも岱明町(現玉名市)院塚
古墳は、4基の舟形石棺を配置する。
吉野山山頂の石棺も、院塚など県内諸例
からみて、5世紀前半と考えられる。
・沈目・陳内古墳群
甚九郎山古墳は、巨石を用いた横穴式石
室であろうと推定。6世紀後半頃。

・塚原台地は、標高20~30mの平坦な
地形で、総面積は30万㎡に及ぶ。
台地上に、家一軒見出すことはできない。
塚原台地の琵琶塚は、本古墳群の主墳であ
ることには変わりはない。5世紀頃か。
円墳の石之室古墳(径20m)の横口式家
形石棺は、菊水町江田の船山古墳のもの
とともに、著名である。

・火君と塚原古墳群
付論において、熊本大学の松本雅明氏は、次
の説を述べておられる。
「火君は、塚原・沈目付近におこり、つい
で宇土半島基部付近に進出して、そこを
本拠とし、5世紀後期から八代平野に移動
している」

以上、長々と文献を引用したのは、古墳被
葬者の判定が容易でなかったからだ。

これらの文献情報を頭に入れて、剣根流の
なぞ解きを、開始しよう。

<御船町の前方後円墳を囲む人たち>
124話御船町古墳を囲む人たち

・本図を作成して気付いたのは、2つの古
墳周りに、火君につながる人たち、すなわ
ち園田氏と甲斐氏の少なさだ。

・長塚古墳を囲む主勢力は、江原氏と緒方
氏(大神氏族)。
江原氏は、太田亮氏の著作によれば、清和
源氏とされ、埼玉、群馬に各700件以上。
九州では、佐賀110件、福岡95件、熊
本40件。
実際に、江原氏が多い地域を調べると、中
原、菊池、内田(物部)、武田(海部尾
張氏)、三輪、香山(海部尾張氏)、長
谷川氏(中原氏)等、ブログ筆者が邪馬
台国連合勢力と見る人たちに近い。

長塚古墳の被葬者が、火君一族と示すもの
が、ここには見つからない。

・今城大塚古墳は、9期の築造とされ、最
終期に近い。
園田、甲斐氏はおられるが、数や位置から
は遠い。
しかし、前方部の向きが160度Wとすれ
ば、城南町甚九郎山古墳と同じであり、
築造時期も近いので、火君の可能性は
排除できない。

ブログ筆者が着目したのは、今城大塚古墳
に最も近い位置におられる、山下氏と高木
氏(紀直族)。
山下氏は、広川町の石人山古墳に近い最
大勢力。
石人山は、筑紫君磐井の祖父世代とも
いわれる。
高木氏は、菊水町の江田船山古墳の指す
勢力。

父親が紀直族で、母が山下氏の出身の人物
がいる。武内宿祢だ。

筑紫君勢力、玉名菊水の紀直族、火君の血
を受けた人物が、磐井の乱後に逃れてきて、
この地に眠っているのだろうか。

<城南町の前方後円墳を囲む人たち>
124話城南町の古墳を囲む人たち

本図を作成して気付くのは、前方後円墳の
周りに人が少ないこと。
これは、居住の地と墳墓の地が、分けられ
ていた証拠だろう。
被葬者たちは、どこに居住していたのか。

・舟形石棺が出土し、玉名院塚古墳とのつ
ながりが指摘される吉野山。
前方後円墳はないが、円墳が多く、うち7
基が弥生時代からの箱式石棺。
弥生時代からの勢力が、ここにいたに
違いない。

吉野山の主勢力は、緒方氏と南部氏。
南部氏は、太田亮氏の著作によれば、清和
源氏。
全国では、福井、北海道に各400件以上。
九州では、熊本80件、福岡70件、長崎
70件。
九州の市町村では、熊本市34件、佐世保
市32件。

実際に南部氏が多い地域を調べると、
佐世保市では湯浅氏(紀直族)。
福井県永平寺町では、南部氏100件以上
に対し、鈴木氏(物部氏)。
滋賀県長浜市では、武田氏(海部尾張氏)。

海部尾張氏の大和の本拠、御所市櫛羅にも
、南部氏は複数おられ、近さがわかる。
南部氏は、紀直族、物部氏、尾張氏に近い
人たち。
そして、吉野山には、本命の武田氏もおら
れる。

・城南町の中世以降の中心地、宮地。
ここには、火君につながる園田氏、甲斐氏
が集団を形成している。
それでも、ブログ筆者が注目するのは、浜
戸川沿いに集まる高木氏。
武田氏に続いて高木氏が来て、古墳時代の
主役となり、その後に火君族がやってきた
と見るからだ。

<古墳の指す方向図とブログ筆者の判定>
古墳を囲む人たちからの判定が難しいとき
は、古墳の指す方向から謎を解こう。

各古墳の指す方向図と、ブログ筆者の判定を書く。
そのあとに、コメントする。
124話長塚今城大塚方向図
124話城南甚九郎山方向図
124話城南琵琶塚方向図

上記の各古墳の向きをまとめると、次図となる。
124話御船城南町古墳指す方向図

<ブログ筆者のコメント>
・ブログ筆者が、今話を書いていて驚いた
ことは、御船町・城南町の地域と、菊池川
流域のつながりが、見えてきたこと。

すなわち、御船町長塚古墳の向きは、玉名
市岱明町の院塚古墳(4期)の真上を通過
する。
院塚古墳の南には、紀直族の大野氏が密集
する。

院塚古墳の向きは、112度Eで、大野氏後
裔の築地氏の本拠を指す。
院塚からは、4基の舟形石棺が出土してお
り、吉野山から出土したのは、人のつながり
があったからに違いない

・城南町の花見塚古墳は、大村市箕島付近
を指す。
長崎空港が、大村から湾内の箕島に移転し
たとき、箕島の市杵島神社は、大村市富松
神社境内社として存続した。
箕島は、大村湾を囲むどこからも、拝する
ことができる聖地であった。

この箕島を指す前方後円墳は、花見塚古墳
だけではない。
玉名市 稲荷山古墳、大坊古墳、藤光寺古

大牟田市 倉永古墳
これらの被葬者は、全て肥前をルーツとす
る紀直族と見る。

江田船山古墳と同じ、横口式家形石棺が、
城南町の塚原古墳群から出土している。
菊水町の江田船山古墳、塚坊主古墳は、
島原半島の北東部、有明町を指す。
ここも、紀直族が有明海を渡る前の本拠
地だ。

紀直族は、筑紫君勢力の発展に伴い、熊
本県南部に進出したと見る。
それが、紀直族の影響を受けた古墳たちが
生まれた理由だろう。

それでは、今城大塚古墳、甚九郎山古墳、
狐塚古墳は、なぜ火君族の古墳と言えるの
か。

今城大塚古墳は9期、甚九郎山古墳は、こ
の地域最後の前方後円墳といわれる。
筑紫君磐井の乱による権力の空白期に、
火君族はこの地に進出し築造したと見る。

この進出は、決して敵対的なものではない
だろう。
その証拠は、城南町宮地におられる、石井
氏、水間氏、久我氏だ。
筑紫君と血縁関係にあった火君族は、磐井
の乱を逃れた磐井一族、水間一族等を保護
したと見る。

今城大塚、狐塚、甚九郎山古墳が、磐井の
乱後に築造されたことは、新宇土市史の図
を、次に引用して示す。

124話熊本県内古墳築造年代図

(安威川堤上から見る、溝咋神社の大イチ
ョウと、藤原鎌足の眠る阿武山)平成28年
11月撮影
IMG_3102.jpg

第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5)

今回のテーマも、5話目となった。
火君の古墳探索を開始しよう。

熊本県南部、宇土半島~八代海沿岸の
古墳が、候補だとわかるが、そのうちの
どれが、火君なのか。
個別撃破で、曖昧な現状に決別しよう。

<氷川町野津古墳群周辺図>
123話氷川町野津古墳群周辺図最終

宇城市と八代市に挟まれた、氷川町の
野津古墳群は、火君候補の大本命。
近い所にある、大野窟古墳、有佐大塚
古墳も図に加えた。

正解かどうかを、今話で確認しよう。

<野津古墳群の説明>
氷川町(旧竜北町)野津・大野に所在
する、姫の城、中の城、端の城、物見櫓
古墳は、70m~120mの前方後円墳。

築造時期は、6~7期(前方後円墳集成
九州編)、あるいは6世紀初めから前半
(新宇土市史2003年)と、文献は記す。

阿蘇・大分の古墳は、4・5期だった。
野津古墳群が、火君の古墳とすれば、
火君勢力は、阿蘇君・大分君に遅れ、
6・7期に最盛期を迎えたことになる。

火君系譜は、どうなっているのか。

<大野窟古墳>
野津古墳群の北1.5kmに、全長123
m、県下最大級の大野窟古墳。

「大野窟古墳調査概要報告」(2007年
氷川町)は、こう紹介する。
「長さ14mの横穴式石室を有する、6世
紀中頃から後半の築造、熊本県で最も
新しい前方後円墳と考えられている」

<有佐大塚古墳の説明>
八代市(旧鏡町)有佐の前方後円墳。
野津古墳群と異なり、真西を向く。

築造期は、野津古墳群よりかなり古い、
4期(4世紀)と推定される。

これも、火君の古墳なのか。

<ブログ筆者のコメント>
結論から言えば、野津古墳群と大野窟
古墳の被葬者は、火君一族と見る。
その根拠は、次のとおり。

①野津古墳群と大野窟古墳の近くに、
園田氏(多氏族)が、集団を形成する。

これほどの大古墳群を築造できる、
別の勢力が、近くに見当たらない。

②大分君の古墳と判定した、大分市
蓬莱山古墳前方部は、130度W。

阿蘇火口を通過し、旧小川町(現宇城
市)、氷川町、八代市を指す。
宇土半島基部古墳群のある、御船町、
城南町、宇土市、松橋町(現宇城市)は、
通過しない。

阿蘇火口・大分君・火君の古墳が、一直
線につながるのは、この地域だ。

また、証拠の一つとして、線上(旧小川
町南端)に、全国でも数少ない、八井氏
が複数おられる。
八井氏は、多氏族と見てよいだろう。

③有佐大塚古墳の築造時期は、4期。
宇土市の女性首長が葬られた、向野田
古墳と同時期。
阿蘇長目塚古墳の築造が、4期5期の
境であることを考えれば、この時期に、
火君がこの古墳を築きえたか。

そして、南方の八代市妙見宮。
参拝した時の方向(20度E)は、有佐
大塚古墳をかすめる。
八代古墳群と繋がる古墳なのか。
旧鏡町(現八代市)エリアにあるので、
八代市古墳群を検討する際に、判断
したい。

④氷川町の北東、城南町所在の甚九郎
山古墳の向きは、160度W。
線を引けば、氷川町野津古墳群の真中
を通過し、かつ中の城古墳の向き160
度Wと一致する。

甚九郎山古墳の被葬者は、火君とつな
がる可能性があるが、城南町の古墳群
を論ずる際に、判断したい。

⑤火君の系譜
火君全盛期が、阿蘇君(4・5期)、大分
君(4期)の後だとわかる系譜はあるか。

第119話で紹介した、「高千穂阿蘇:総
合調査報告」(1960年神道文化会編)
所収の、「古代阿蘇氏の一考察」(田中
卓氏1958)に、火君の系譜を記した
「阿蘇家略系譜」がある。

田中卓氏が、阿蘇神社で発見したもの。
火君の該当部分を中心に、抜粋して掲
載させていただく。

123話火君の系譜

まず、大分君が、火君と大変近い同祖
とわかる。

ブログ筆者が、なによりも注目したのが、
建緒組命から4代目の建加恵命に付さ
れた次の注。
「火君忠世宿禰等の祖也」

忠世(ただよ)宿禰は、続日本後紀 巻
第18 仁明天皇嘉祥元年8月6日條に
登場する。
国史大系第3巻(吉川弘文館1966)
続日本後紀の原文は次のとおり。

肥前国養父郡人大宰少典従八位上筑
紫「公」火公貞直。兄豊後大目大初位
下筑紫「公」火公貞雄等。賜姓忠世宿
禰。貫附左京大條三坊。

「公」について、編者の黒板勝美氏は、
凡例において、こう書いている。
「衍字(よけいな字)が入っていると思わ
れるものは、その上下に「 」を加えて旧
により之を存し、以て他日の検討に資
せり」と。

同注は、筑紫君と火君が、姻戚関係に
入った時期と人物を、教えてくれる。

謎の5世紀だ。
この結びつきにより、火君は、6・7期に
大古墳を連続して築造できる力を得た
と見る。
筑紫君もまた、筑肥豊にまたがる大勢
力へと成長を始めたと見る。

具体的に、筑紫君勢力と火君勢力は、
どの地で結びついたのか。
その謎解きは、「筑紫君への道」のテー
マで行う予定だ。

高良山を向く古墳や神社。
石棺がこなごなに砕かれた山鹿・菊池
の古墳たち。
鳥栖・八女・日田などに集まる、磐井の
後裔たち。
石人山など、筑紫君所縁の古墳を囲む
人たち。

5~6話先になりますが、お楽しみに。

第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4)

<剣根命を祀る葛木御縣神社 平成28年10月撮影>
122話葛木御縣神社1
122話葛木御縣神社2
122話葛木御縣神社3
122話葛木御縣神社4

奈良県葛城市の葛木御縣神社は、真東の伊
勢神宮を向いている。
参拝時は、真西の二塚古墳を向く。
(第57話剣根の古墳が指す山 2012年11
月参照)
さらに、真西に線を伸ばすと、後漢・魏の都、
洛陽に至る。

ブログ筆者は、同神社の数百m東で生まれ
たと、戸籍に書かれている。
葛城国造護衛隊の密集地の真ん中だ。

現在住むのは、二塚古墳が指す、大阪府茨
木市南東部。
すぐ南は旧玉櫛村。東は旧溝咋村(現五十
鈴町)。
三島剣根命が、葛城国造に任じられて出発
した地に戻って、このブログを書いている。

<三重・七ツ森古墳群へのブログ筆者コメント>

大分県最大の河川、大野川の中流域、三重
盆地に築かれた三重古墳群と、上流域に築
かれた七ツ森古墳群。
これらの前方後円墳の被葬者は、何氏族
なのか。

ブログ筆者が、最初に注目したのは、盆地
入口の、三重町宮野・浅瀬に住む人たち。

難波氏(難波吉士氏族)、武田氏(海部尾
張氏族)、深田氏(宗像氏族)、伊美氏(膳
伴氏族)、丹生氏。
この集団を見れば、もともとは邪馬台国を
支えた人たちの拠点であったことがわかる。
しかし、この人たちは、ここに前方後円墳を
築いていない。

それでは、阿蘇氏(多氏族)が築いたか。
しかし、三重・七ツ森古墳群の前方部が向
く方向の特徴は、大野川本流沿いの立野
古墳を除くと、阿蘇火口や草部吉見神社
等の、阿蘇氏ゆかりの地を外している。
これはどうしたことだろう。

三重盆地の支配者を探すと、三重町内田
に集まる、内田氏(物部氏族)が浮かび
上がる。
傍には、深田氏(宗像氏族)、高知穂氏
(大神氏族)、阿南氏(大神氏族)。

大神、すなわち、ニギハヤヒ命につながる
人たちである。

それでは、すべての古墳が物部氏族か。
それは言い切れない。

大野川河口に、野間・亀塚等の前方後円墳
が築かれた時代は、前方後円墳編年表で
4・5期。
阿蘇の二つの前方後円墳が築かれたのも、
4・5期。

ところが、三重古墳群のうち、秋葉鬼塚古
墳(2期)、小坂大塚古墳(3期)、道ノ上
古墳(3期)は、それ以前に築かれたと
される。

各古墳について、個別に検討していこう。


①秋葉鬼塚古墳(2期46m)
三重盆地の南西部にある同古墳は、囲む人
たちに特色がある。

難波氏と鎌倉氏。
難波氏は、宮野に大集団があるが、古墳近
くにおられるのは、同古墳に限られる。
難波吉士氏族が、この古墳につながる理由
がわからなかった。
北西(82度W)を向く同古墳が、どこを指して築か
れたかも、わからなかった。

突然解明されたのは、82度Wの線を延長
した時。後漢・魏の都、洛陽に突き当たった。
光武帝から金印をもらい、難升米が中郎将
に任じられた都である。

倭国の外交を担当してきた難波吉士氏族に
とって、洛陽の都は、祖先たちの華々しい
活躍の舞台であった。

鎌倉氏は、難問だ。
太田亮氏の著作は、鎌倉氏について、
・鎌倉別 「日本武尊裔」
・桓武平氏 「平忠通、鎮守府将軍となりて
、鎌倉郡にあり。その子景通よりて鎌倉氏
を称すと云ふ。
(中略)出自区々にして一定せず。鎌倉別
の後にあらざるか」と、断定していない。
ブログ筆者は、被葬者は難波氏と見る。

②小坂大塚古墳(3期40m)
この古墳も、囲む人たちに特色がある。
伊見(伊美)さんは、膳伴氏族であり、半
島で難波氏とともに活躍した人たち。

同古墳の向きは、南島原市口之津に至る。
ここも海外との窓口であった。
ブログ筆者は、被葬者は膳伴氏と見る。

③道ノ上古墳(3期71m)
三重古墳群で最大の古墳。
古墳を囲む、34件の赤嶺氏(34年前のデータ)。
赤嶺は、高良と同じく、有力な琉球姓である。
それも、那覇の重要な赤嶺御嶽(うたき)
祭祀に係る人たち。

女性首長の最高位が、宗像姫とすれば、深
田氏(宗像氏族)の可能性がある。
しかし、同古墳は熊本市河内町の内田氏密
集地を通過し、野間1号墳と同じく雲仙岳に
至ることから、被葬者は内田氏(物部氏族)
か。

④立野古墳(4期60m)
唯一、大野川本流沿いにあることと、古墳
の周りに黒木氏がおられる点が特色。
黒木氏を菊池氏族とみれば、阿蘇氏に近い。
加えて、同古墳の向きは、阿蘇山火口を通
過し、熊本市の健軍神社(祭神:建緒組命
多氏族)を通過する。
被葬者は、多氏族の人物と見る。

なお、健軍神社は、雲仙岳を正面(94度
W)に、祖母山を背(86度E)にして作ら
れている。

⑤七ツ森古墳群(4期51m・53m)
阿蘇と竹田を結ぶ街道沿いに、七ツ森古墳
はある。
2つの前方後円墳からは、6面の銅鏡が出
土したと伝えられ、強い勢力を有していたと
うかがえる。

古墳を囲む人たちは、大塚氏が多数。
これに、緒方氏(大神氏族)が加わる。
古墳の向く先には、甲斐氏と深田氏がおられる。

大塚氏はどんな勢力だろうか。
太田亮氏の著作は、九州の大塚氏を、土持
七党の一つとする。
土持氏は日下部氏族なので、大塚氏も日下
部氏族となる。

大塚氏の集団を実例で見ると、
・竹田市向山田 
七ツ森の北東部、向山田に大塚氏6件。
近くには、阿南氏(大神氏族)3件。
ここでも、大神氏族に近い。
・中津市下池永 
亀山古墳周辺に13件(43年前のデータ)。
今は消滅した古墳だが、70度Wとすると
、宗像大社を向いていたことになる。
古墳近くに、武田氏(海部尾張氏族)。
・みやま市大草
女山神護石のすぐ西側に、大塚氏16件
(43年前のデータ)。
これは、女性首長を鎮護する人たちか。
同じように女山を囲む壇氏は、宇佐神人たち。
・八女市新庄
大塚氏8件の近くに、壇氏4件(46年前のデータ)
・熊本県大津町
大津町大津・室に、大塚氏53件(33年前のデータ)。
近くには、他氏が少ないほどの大集団。
あえて挙げれば緒方氏(大神氏族)。

これらをみると、大塚氏は、日下部氏族の
中で、大神側に立った人たちに見える。
これが、彦八井命の後裔か。

⑥重政古墳(5期52m)
同古墳の向きは、北西68度Wであり、三重
古墳群の中で、最も北を向いている。
阿蘇地方を向いていないが、古墳群の一つ
としてコメントする。

久留米市草野町草野(大塚氏21件)、久
留米市善導寺飯田(内田氏)、木塚古墳
(鹿子島氏、高木氏)を通過し、糸島市二
丈吉井に至る。
囲む人たちは、甲斐、阿南、大塚、赤嶺氏
などだが、はっきりとつかめない。
ブログ筆者は、立地から、三重町内田に集
中する、内田氏(物部氏族)の勢力と見る。

⑦赤嶺竜ケ崎古墳(中期32m)
「大分の前方後円墳」(1998年大分県
教育委員会)は、同古墳のみ編年を記
載していない。
「前方後円墳集成(九州編)」(山川出版
社)は、他の古墳と同じく中期とする。
  
同古墳の特色は、ここに登場する古墳中、
最も南を向いていること(110度W)
南阿蘇村、御船町を通過し、宇土市野鶴町
の天神山古墳付近に至る。
宇土市には、城ノ越古墳(3期)や向野田
古墳(4期)などがある。

これらは、多氏族の火君の古墳なのか。

古墳を囲む人たちから判断すると、違うと
いう答えがでる。
宇土市の園田氏(多氏族)について、最近
のデータを地図上にプロットし、34年前の
データと照合すると、ほとんどが消えてしま
った。

すなわち、天神山古墳や、城ノ越古墳の近
くには、多氏族はほとんどおられない。
古墳を囲むのは、三輪氏(大神氏族)、石
上氏(物部氏族)、境氏(武内氏族か)など。

天神山古墳の向き(77度E)は、祖母山を
指す。
大神氏族が祖神を祀る山である。
また、城ノ越古墳の向き(120度E)は
、日向国の一之宮都農神社を指す。
都農神社の周りは、三輪氏39件(35年
前のデータ)が囲んでいる。

もう一つ、向野田古墳の被葬者は、女性首
長とみられている。
同古墳の向き(7度W)は、宗像大社に
ピタリと合致する。

これらをつなぎ合わせていくと、三重古墳
群等の被葬者は、立野古墳を別にすれば
、大神すなわちニギハヤヒ命や宗像姫を
奉戴する人たちであると、ブログ筆者は
見る。

第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3)

今回の謎解きは、竹田市七ツ森古墳と、
豊後大野市三重古墳群。

前方部が、阿蘇を向く前方後円墳たち。

読者の皆様には、最初に、各古墳を囲む
人たちと、前方部が指す方向の図を見て
いただく。

古墳被葬者の氏族を推理していただき、
次回に、ブログ筆者のコメントを予定
している。

真相は少しずつ明らかになる。
そう思って、お付き合いをお願いします。

<七ツ森古墳を囲む人たち>
121話竹田市七ツ森古墳の周辺図

<三重古墳群を囲む人たち>
121話豊後大野市三重町古墳周辺図補正

<古墳が指す方向:総括図>
121話七ツ森三重古墳群の指す方向

<古墳が指す方向:個別図>
121話古墳の方向1補正

121話古墳の方向2

121話古墳の方向3

121話古墳の方向4












第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2)

今回の謎解きは、大分君の本拠地探し。

阿蘇君・大分君・火君は、同祖の多氏族。
それならば、前方後円墳の向きがつながる
か、もしくは古墳を囲む人たちが共通する
はずと、ブログ筆者は見る。

<阿蘇地方を指す豊後の前方後円墳は?>
次図は、大分県豊後地方にある前方後円墳
のうち、阿蘇地方を指す古墳とその向きを
描いたもの。

120話阿蘇地方を向く豊後の古墳

図から気付いたこと。

①前方部の方向が、阿蘇山火口を通過する
のは3基。
前話で書いた、阿蘇市上鞍掛塚古墳を除け
ば、大分市蓬莱山古墳と豊後大野市三重町
立野古墳。

意識して築造されたと見る。
これらは、最有力候補だ。

②大分君の本拠地として有力な大分市。
しかし、大分市内の古墳のうち、蓬莱山古
墳と野間1号墳しか阿蘇地方を向いては
いない。

これはどうしたことか。
他の古墳は、他氏族のものだろうか。

③豊後大野市三重盆地の古墳は、多くが阿
蘇地方を向いている。
これらの古墳は、多氏族のものだろうか。

この疑問を解くために、古墳周りの人たち
の調査を進めた。

<大分市蓬莱山古墳の周辺図>
120話大分蓬莱山古墳周辺図

本図は、大分川の流れる、大分市西部の台
地が、大分君の本拠地とする説を裏付ける
ものとなった。

被葬者が、大分君恵尺または稚臣の墓とい
われる方墳の古宮古墳は、蓬莱山古墳と
同じ台地にある。
園田氏(多氏族)と甲斐氏(日下部・菊池
氏族)がびっしりと囲んでいる。
阿蘇古墳群の周りの人たちと全く同じだった。

異なるのは、蓬莱山古墳の南方に集中する
田崎氏。
田崎氏は、長崎県が約700件と最多で、
2位茨城県約600件。
九州では、熊本県が6位約300件。
大分県が10位約200件、そのうち15
0件が大分市で、賀久(蓬莱山古墳南の
平野部一帯)に集中する。

多氏族の建借間命が、常陸国に侵攻したと
き、率いた軍勢は肥前の出身だった。
大分君も、田崎氏の人たちを同行してきた
と見る。

<大分市野間古墳群の周辺図>
120話大分市野間古墳群周辺図

大分市東部、大野川河口近くに、野間古墳
群がある。
前方後円墳は50m級3基があり、うち原
形を留めているのは、野間1号墳のみ。
2号墳は消滅、3号墳は後円部のみ現存。

「前方後円墳集成九州編」(1992年山
川出版社)(以下、「集成」という)は、
1・3号墳の築造時期を4期とする。
これは、60mの蓬莱山古墳と同時期だ。
これらも、大分君(多氏族)が築いたもの
だろうか。

<野間古墳群は多氏族の築造ではない>
ブログ筆者は、次の理由から、大分君のも
のではないとの結論に至った。

野間古墳群の南方の宮河内に、阿蘇神社が
ある。
このため、阿蘇君同族の大分君のものとす
る見方が生じる。

しかし、阿蘇神社が勧請された時期は、室
町時代。
新領主の大友氏が、社殿を設けたもの。
神社近くに、椎原氏(大友氏族)が集まっ
ているのが証拠だろう。
また、多氏族につながる人たちは、この図
の範囲におられない。

<野間古墳群の向きは、物部氏族を示す>
「集成」は、野間1号墳の向きを110度
Wとするのみ。
そのため、「野間古墳群緊急発掘調査」
(1967大分市教育委員会)に掲載され
ている復元図から計測すると、2号墳
55度E、3号墳105度W。

各古墳前方部は、どこを向いているのか。

・野間1号墳 110度W
阿蘇市の国造神社北方を通過。
熊本県植木町の塚園古墳付近に至る。
玉東町、天水町を経て島原湾を渡り、雲仙
普賢岳に至る。

植木町の塚園古墳周りは、内田氏が18件
集中する。
塚園古墳の向きは98度W、雲仙市吾妻町
の守山大塚古墳70mに至る。

守山大塚古墳周りには、最近のデータで、
内田氏が19件集まっておられる。

・野間2号墳 55度E
丹生川に沿って北東へ。
坂ノ市の内田氏密集地を向く。
念のため、この先は、松山市、今治市を経
て、敦賀市の気比神社に至るが、意図し
たものかはわからない。

・野間3号墳 105度W
竹田市北端、久住連山、菊池市、鹿央町を
経て、玉名市院内古墳付近に至る。
島原湾を渡り、内田氏の集まる雲仙市吾妻
町の守山大塚古墳に至る。

<豊後最大級の亀塚古墳も物部氏>
大分台地の蓬莱山古墳の築造時期は4期。
一方、海部地域にある豊後最大級113m
の亀塚古墳は、5期に作られている。
亀塚古墳の周りは、内田氏が密集する。

海部地域にある、野間古墳、上ノ坊古墳、
亀塚古墳は、全て物部氏のものと、ブロ
グ筆者は 見る。
すなわち、同時期の豊後国に、大分君と
物部氏は首長として併存していた。

亀塚の向きは170度W。
宮崎県都農町の日向一宮都農神社に至る。
主祭神は大己貴命だが、社殿の周りには、
三輪氏(大神氏族)が密集する。

野間古墳群に近い、丹生(にう)神社の周
りにも、大神氏族の池見氏が集まって
おられる。

<前方後円墳の編年表>
参考までに、本話に登場した古墳と、今後
登場する古墳の編年表を付けた。

古墳編年表

大分君の勢力は、蓬莱山古墳でピークを作
り、壬申の乱における活躍で、輝きを取り
戻した。

一方、日本の歴史形成に物部氏が活躍した
記録は、歴史に埋もれた。
しかし、その勢力の強さは、現代にも地図
上に現れていると判ったことが、今回の
大きな発見だった。

第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1)

神武天皇皇子、神八井耳命後裔の多氏族。

古事記には、全国各地の首長に任じられた
ことが書かれている。

例えば、建借間(たけかしま)命は、常陸
に攻め込み、仲(那珂)国造に任じられた。
鹿島神宮は、同命の古墳の方角を向いて社
殿が建っていることは、第一一二話(2015
年11月)に書いた。

今回、ブログ筆者が注目したのは、九州の
多氏族。
阿蘇君・大分君・火君という君姓の多氏族
が、丁度九州を横断するように並んでいた
ことになる。

この文献記事が、事実だという証拠がみつ
かるか、本拠がわかればよい。
初めは、そんな軽い気持ちで始めた謎解き
だった。

<阿蘇君の古墳周辺図>
119話阿蘇君の古墳周辺図

熊本県阿蘇地方の前方後円墳は二基のみ。
阿蘇神社と北の国造神社の間に、長目塚
古墳(111.5m)と、上鞍掛塚一号墳
(65.5m)がある。

長目塚古墳は、熊本県下でも最大級の古墳
で、前方部からは、女性の被葬者が見つか
っている。
首長か首長並みの扱いを受けている。

同古墳の築造時期は、前方後円墳集成九州
編(山川出版社)では、「4・5期の境目」
とし、阿蘇町史第一巻通史編(2004年)は、
「4世紀末から5世紀初め」とする。

前方部の向きは、N108度Eで南東を向
いている。
大分県と宮崎県の境付近から海に出て、
その先に陸地はない。

同古墳の前に、大円墳の勝負(菖蒲)塚が
あり、この被葬者とつながりがあるのだろ
うか。

もう一基の前方後円墳、上鞍掛塚一号墳の
前方部の向きは、N170度Wで南を向いて
いる。
阿蘇山の火口を通過し、さらにニニギ命を
主祭神とする霧島神宮に至る。
阿蘇君に所縁があると伝わる、阿蘇神社や
高森の草部吉見神社には、何故か向いて
いない。

ブログ筆者は、古墳周りの人に注目する。
30年前のデータでは、甲斐氏13件、
園田氏5件、北西の山裾に井氏9件。

<阿蘇神社周辺図>
119話阿蘇神社周辺図増補版

両古墳の南方、一の宮町宮地に、阿蘇神社
が鎮座する。
3軒ならぶ阿蘇氏の隣に、甲斐氏と井氏が
おられる。
この近さが、これから進める謎解きのヒン
トになりそうだ。

<園田氏は神八井耳命の後裔だった>
太田亮(おおたあきら)氏は、園田氏につ
いて、
「12。肥直  神八井耳命数世の後、肥
直4世の孫が祖名を以て氏となす」と
書いている。(姓氏家系大辞典)

もうここで、多氏族を発見!!

<甲斐氏は難問>
太田亮氏は、甲斐氏について、
「1.甲斐国造 古事記開化段、サホヒ
コ王は、日下部(くさかべ)連、甲斐国造
の祖。
15.菊池氏族 領地をめぐる争いから、
甲斐国に逃れた菊池勢力の一派が、
足利尊氏に属し、大友勢と共に菊池を
攻めたとする伝承を紹介。

しかし、太田氏は、これらは後世の仮冒で
はないか。甲斐国云々も容易に信じがた
し」と記している。

後世に、阿蘇大宮司が逃れてきた時に匿う
など、阿蘇と甲斐氏は、きわめて近いことは
間違いない。

<井氏は古代の祝氏族か>
一文字の井氏が多いのは、熊本県。
特に集中しているのは阿蘇市。

他県で集中しているのは、長崎県対馬市美
津島町加志。
ここでは、中臣氏族にとって最重要人物、
中臣鳥賊津使主(雷大臣)を祀る、大祝
詞神社付近に集まる。

中臣氏族の橘氏、増田氏よりも、神社近く
に井氏が多数おられるのは、古代の祝氏
族であったからだろうか。

大阪茨木市の伝継体天皇陵が、雷大臣の陵
であることは、第七十四話(2013年8月)に
書いた。
見破れたのは、橘さんが前方部におられた
からだった。

<太安麻呂は真実を語ったか>
甲斐氏には、サホヒコ王系統の日下部氏が
おられることがわかった。
しかし、それよりも先に、日子八井命(ひ
こやいのみこと)が草部(くさかべ)を名
乗っていた。
日子八井命系統の日下部氏が、歴史から
消えている。

さらに、草部吉見命は、建久々知(たけく
くち)命の子とする系図が、田中卓氏の著
作(古代阿蘇氏の一考察、高千穂阿蘇:
綜合学術調査報告1960年所収)の冒頭
にある。

高森町の草部吉見神社周辺における、最多
の姓は甲斐氏。

太田亮氏は、甲斐氏は菊池氏族と書いてい
るが、伝承された内容について疑っている。

狗奴国のククチヒコと、日子八井命が、接
点を持ち生まれたのが、甲斐氏ではないか。
これまでの人生で出会った甲斐さんには、
知略に優れた人が多い。

大胆な仮説を、ブログ筆者は立てて、筑紫
編を書き続けてみようと思う。

太安麻呂は、古事記の献上にあたり、渾身
の上表文を書いた。
日子八井命は、神八井耳命の兄であると
書いた。
日子八井命の名前は残した。
真実を語ったのではないか。

太安麻呂の撒いた謎は、日子八井命の後裔
とする手島氏にも及ぶ。
手島・手嶋を合わせて、全国最多200件の
地は、謎の朝倉市。

筑紫古代の謎は、日子八井命と筑紫君の謎
が解けたときに、爆発的に解明される。         
(続く)


第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編

第二部筑紫編では、九州内の全前方後円墳の向きと
古墳を囲む人たちの姓氏を可能な限り調べている。

そこから得た教訓は、第一に半数の古墳は被葬者の
氏族が明らかになるとわかったこと。
第二に前方後円墳の被葬者となる氏族は、限定され
ているとわかったこと。
これらの知見を基に、謎解きを深めていきます。

<九州・沖縄の難波氏(灘波氏を含む)分布件数>
(最近のデータによる)
118話九州沖縄の難波氏分布図

県別では、1位大分県、2位福岡県。

市町村別では、
1位 大分県  国東市  36件
2位 大分県  大分市  25件
3位 大分県  豊後大野市 21件
4位 福岡県  北九州市 18件
5位 福岡県  福岡市  17件
6位 鹿児島県 南九州市 13件

<筆者コメント>
難波氏は、奄美諸島におられない。
南から北上した豊饒の民の集団ではなかった。

<国東半島南東部の主要古墳と難波氏の分布図>
(37年前のデータに基づき作成)
118話国東半島東南部の主要古墳と難波氏の分布図

難波氏は、国東半島北部の国見町や、国東町の北中部に
おられず、国東町南部の綱井、武蔵町糸原、安岐町下原に
集中する。

<注目した二つの前方後円墳>
①安岐町下原の下原(しもはる)古墳
同古墳は、25mと小型だが、弥生墳丘墓説がある。
「周溝内出土の供献土器から、1期あるいはそれ以前にさ
か上る可能性がある」(前方後円墳集成:九州1989年)

「出土遺物としては土器類のみであるが、土師器の最古
段階と考えられるものがあり、この小型の前方後円墳の
時期については、古墳時代のもっとも初期のころとされる。」
(日本の古代遺跡49:大分 森 浩一企画、橘 昌信著
保育社 1995年)

ブログ筆者が注目した理由は、難波氏が分布する南限に、
同古墳があること。
ここから北側は、難波吉士氏の領地だと示していると見る。
そして、同古墳のすぐ近くに難波氏がおられる。

岡ケ塚古墳、狐塚古墳、行者塚古墳群近くの難波氏も
考慮すれば、被葬者は難波吉士氏以外に考えられない。

下原古墳は、卑弥呼に仕えた難升米の墳丘墓と考える。
前方部は、宇佐女王卑弥呼につながる、奈多海岸と竹田
市の深田氏(宗像氏族)・高倉氏(海部尾張氏)集団を指
していると見る。

武蔵町・安岐町の難波氏に近い人たちを見ると、藤井氏
(鴨県主族)、安部・阿部氏がおられる。
古代、難波吉士氏の大拠点が、国東半島南東部にあった。

②杵築市三塚の小熊山(こぐまやま)古墳
下原古墳の南6kmにある、全長120m、豊後で最大の
古墳である。
3期ないし4期と考えられている。

この時期に、皇子クラスの大古墳を築いた勢力は、成務
朝に国前国造に任じられた吉備臣同祖、吉備都命の6世
孫牟佐自(むさし)命が考えられる。
牟佐自命は、豊国造に任じられた宇那足尼と同一人物と
も言われる。

岡山の吉備を攻略し、難波吉士氏を配下に収めたように、
国東でも、吉備氏の一族が、難波吉士氏の本領を、領地
として得たと見る。
小熊山古墳を囲むのは、美那元(みなもと)さんたち。
国前国造につながる人たちだろう。

<吉備氏・難波吉士氏・膳氏>
ここまでで、豊後国東半島に、吉備氏と難波吉士氏が
そろった。
ブログ筆者は、雄略朝に、高句麗の攻勢を受けた新羅
国を支援した、任那日本府の3将軍の勢力が、筑紫島
でも近くにいたのではと考え、膳(かしわで)姓を探した。

「武蔵町史」(1962年)に次の記述を見つけた。
「行者原古墳群は、大小20余の古墳あり。すべて円墳か
楕円墳。大きいものは径20m。
イ 岡の塚古墳  最も大きい
ロ 狐塚
ハ 伊美の山古墳
  国東鉄道行者原臨時駅の向い側にある。
  一番形の整った径25mの円墳。
  伊美○○氏の所有。

昭和60年に廃線となった国東鉄道は、杵築駅から国東
半島の海岸線に沿い、国東駅まで引かれていた。
大海田駅と武蔵駅の間に、夏場の海水浴客のために、
行者原臨時駅が設けられていた。
現在は、国道213号線バイパスができているが、旧道を
南から進み、左に曲がる角付近に旧臨時駅跡がある。

そのすぐ隣に、武蔵町指定遺跡・行者原古墳群を解説し
た、案内版が立つ。
「武蔵町は、国前の国造牟佐自命の政庁の地であった」
と書かれている。
そして、難波氏の集団の近くに、伊美氏がおられたこと
がわかった。

大田亨氏は、伊美氏を、膳伴(かしわでとも)氏の後裔で
あるとする。
これに従えば、膳の名を負った人たちが、おられたことに
なる。

伊美氏について、さらに調べてみた。
<国東半島北部の国東市国見町伊美付近図>
(37年前のデータを基に作成)
118話国東半島北部国見町付近図

伊美川沿いに、伊美氏が2件おられる。
「国見町史」(1993年)は、「伊美町には有力者がいて、
(宇那手を祖とする国前臣の)国前国造の支配を受けて
いたものであろう」とする。(164頁)

しかし、伊美氏の出自は、日田の大蔵氏であると書く。
大蔵氏は、9世紀に豊後介に任じられて下向し、12世紀
に源平合戦の功で、国崎郡の伊美郷をもらった。

伊美市は、膳伴姓か大蔵姓か、どちらが正しいのか。

ブログ筆者は、紀姓岐部氏の養子に、大蔵氏がなった
ように、膳伴姓の伊美氏が、後世に大蔵姓に変わった
と見る。
近くにおられるのは、安部氏、竹田氏(海部尾張氏か)。
そして、卑弥呼が遣使した魏曹操の後裔で、邪馬台国
を頼り倭国に亡命した野上氏たちがおられる。

<国東半島西部の状況>
豊後高田市エリアに、難波氏はおられないが、重要と思う
情報を書いておこう。

同市旧真玉(またま)町金屋には、西部最大の前方後円墳、
真玉大塚古墳がある。
全長80m。6~7期。
前方部の向きはN138度Wで、宇佐神宮にピタリ指向する。
34年前のデータでは、古墳の近くに、真玉氏がおられる。

「国東半島史 上巻」(東国東郡教育会編)の202頁は、
真玉氏についてこう書いている。
「真玉氏:西国東郡真玉村
鎌倉以前の真玉氏は大神姓なり。
吉野朝以後の真玉氏は大友姓なり。
大友系なる木付氏を分封して、真玉氏を襲わしめしなり」

豊後に進出した鎌倉勢が、源義経を支援した大神氏族
から激しく抵抗を受けたことが史書に残る。

真玉川の上流には、前述の伊美氏、中下流には、野上
氏38件(34年前のデータ)がおられる。

国東半島は、実に邪馬台国ゆかりの人たちの地であった。


お知らせ

読者の皆様へ

第二部準備のため、しばらく休載します。
第二部は、筑紫編と大和編を予定しています。

「播磨の乙女」
万博公園で見つけた花菖蒲の名前は、播磨の乙女。
景行帝の后妃となった播磨の姉妹が、思い浮かびました。
IMG_2561 - コピー (370x278)

・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2)
     (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1)
     (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰(01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2)

(安威川堤から見た生駒山の春景色・2016年4月)
IMG_2401 (370x278)


前話では、大国主命館があった、三刀屋町と木次町
の難波氏の状況を探った。
今話では、大東町と加茂町(いずれも現雲南市)の
難波氏の状況を見てみよう。

117話大東町遠所・仁和寺付近図

本図は、大東町遠所・仁和寺付近図。
難波氏は、JR幡屋駅付近に集まるほか、同姓と見ら
れる南波(なんば)氏が、武田氏の内に見える。

ブログ筆者が注目したのは、武田氏の大集団。
これまで、西日本の武田氏について、海部尾張氏で
あると説明してきた。

その海部尾張氏が、何故大国主命の本拠地近くに
集団をなしておられるのか?
謎はこれだけではない。
以前から解けなかった、海部尾張氏の正体?という
大きな謎が背後にある。

この謎は、簡単には解けないだろうと、しばらくは諦
めていた。
しかし、「今解かねば、誰が解くのだ」という強い気持
ちが、古代史の神様に通じたらしい。

謎は、次の二つの手がかりから解けた。
一つは、古事記にある、大国主命の国づくりの記事。
もう一つは、荒神谷遺跡から出土した銅矛。

<大国主命への協力者>
古事記大国主命の段では、国づくりに協力した神の
名を記している。
①少名毘古那神(すくなびこなのかみ)=神皇産霊
尊命の子
②御諸山神(みもろやまのかみ)=大物主=ニギハ
ヤヒ命

天火明命ともよばれるニギハヤヒ命は、海部尾張氏
の祖。
武田、高倉、速水氏は、いずれも海部尾張氏の一族。

大国主命の本拠に近い、大東町の武田氏の集団は、
古事記に記すとおり、大物主が大国主命に協力した
証拠だろう。

<加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡そして銅矛>
117話加茂町岩倉・神原付近図

本図は、現雲南市加茂町の、岩倉遺跡や神原神社
付近図。
衝撃的データとして、加茂町には、武田氏と難波氏
は全くおられない。

岩倉遺跡の北西4㎞には、銅剣358本、銅鐸6口、
銅矛16本が出土した、斐川町荒神谷遺跡がある。
その斐川町にも、武田氏は全くおられない。
難波氏も1件のみ。それも遺跡からは遠い。

加茂岩倉と荒神谷の両遺跡は、出雲王権の保有し
た銅剣、銅鐸、銅矛が埋納された地。
高木氏、熱田氏の人たちは、両遺跡を囲み、見張っ
ているように見える。
高木氏について、太田亨氏は、紀姓と記すが、高木
神(高皇産霊尊命)の後裔と、素直に見てよいと思う。

両遺跡の近くにおられない、武田氏と難波氏は、近づ
くことを許されていないと見る。
埋納品の一部は、武田氏と難波氏が持ち込んだか、
あるいは、協力して製造したものではないかと、疑問
がわいてくる。

特色ある出土品は銅矛。
荒神谷遺跡から出土した銅矛は、全部で16本。
うち、2本が中細形で、残り14本は大きさが60㎝を
超える、中広形。

韓半島出土の銅矛は、ほとんどが20㎝以下の細形。
中細形よりさらに細い。
中広形の銅矛は、どこで出土しているのか。

銅矛の出土数が集中するのは、長崎県対馬。
対馬には、武田氏44件と小田氏(忌部氏族)119件。
(39年前のデータ)
忌部氏は、矛竿を献上する役目を負っていた氏族。

そして決定的な事実は、韓半島で、同サイズの銅矛
が出土したのは、東南部の金海市。
それも、金官加羅国の初期都邑地の良洞里。
金海市の北方にある大邸から、出土した中広形1本
を除けば、金官加羅国(南伽耶、長屋)の首都、金海
(きめ)に集中している。

海部尾張氏とは、金官加羅国の初期王家の出身で
あった証拠だろう。

紀元2世紀初頭、半島南部の軍事を担った金首露王。
その後裔であるから、大物主を祀る金刀比羅宮は、
丸に「金」の御神紋を用いているのだと見る。

先に書いた、「かや」とよばれる備中国の東阿曾に、
武田氏が大集団を形成していたのも、伽耶出身だ
ったからだ。

読者の皆様は、すでに気が付かれたろう。
奈良時代に、歴代天皇の漢風諡号を創作した、御船
王こと淡海三船。
三船は、栄光の金海(きめ)の地名を基に、欽明天皇
の諡号を創ったのだろうと。

<島根半島の南場氏>

117話平田市坂浦付近図

難波氏と同族と見られる、南場(なんば)氏の集団が、
島根半島北岸の平田市坂浦(現出雲市)におられる。
南場(難波)氏が、三島氏とも近い関係にあると判る。

第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1)

島根県の難波氏は、九州1位の大分県(80件)の2倍、
(160件)おられる。
出雲・伯耆の難波氏は、どんな人たちの近くにおられる
のか。

<出雲・伯耆の難波氏分布図>
116話出雲・伯耆の難波氏分布図最終

39年前のデータでは、難波氏は、木次町が1位の43
件。
大東町13件、三刀屋町8件を合わせると、現雲南市
エリアに64件も集まる。
ただし、現雲南市エリアの加茂町と掛合町には、なぜか
難波氏がおられない。

2位は、飯石郡赤来町(現飯南町)に30件。

大きな市では、松江市18件、出雲市8件、鳥取市22
件、米子市17件。
このうち、同じ町内に難波氏が3件以上集まっており、
筆者が注目するのは、松江市大庭と西津田。
大庭は、三島氏が多い。
西津田は、隣家が三島氏。

<三刀屋町・木次町付近図>
116図三刀屋町・木次町付近図(最終)

①三刀屋町
三刀屋町の難波氏は、三屋(みとや)神社へ通じる道
の途中と、斐伊川の対岸に集まる。
三屋神社は、大国主命の館があったとされる場所。

原田常治氏の著書「古代日本正史」(1976年同志社)
の352頁に、「ついに見つけた大国主館跡」と書かれた
その場所。

原田氏は、全国の神社の祭神を調査し、ニギハヤヒ命
が、最も大切な神として祀られていることを証明された。

ブログ筆者は、これに加えて、神社古墳を取り巻く人
たちと、神社古墳の指す方向を調べれば、古代史の
謎がもう少し解けるのではと考えている。

難波氏は、大国主命ともつながりがあるようだ。

②木次町
木次町の難波氏は、斐伊川支流の久野川沿いの木次、
東日登(ひのぼり)に集まる。

深田氏(宗像氏)が、斐伊神社と木次におられるのは、
大国主命が、多紀理姫(タケコ)を娶ったからだろうか。
二人の間には、アジスキタカヒコネ命(建角身命、後裔
は藤井氏)と、高姫(アメノワカヒコの妻)が生まれた。

ブログ筆者が、わからないで苦しんだのは、木次町寺領
に19件集中する宇都宮氏。

宇都宮氏は天下の大姓。
藤原北家の子孫が、下野国に本拠をおき、伊予国や
豊後国等の守護・地頭の地位を得て、全国に広がった
とされる。
しかし、木次町には、宇都宮氏が地頭に任じられた記
録がない。

木次の宇都宮氏は、いつ、どうしてここに来られたの
だろうか。

難波氏の調査を横において、調べるうちに、その謎が
解けた。
結論から言うと、宇都宮氏と宇都氏は同族であった。
また、アメノワカヒコが出雲に天降ったときに同行した。
というのが、到達した答えだ。

宇都宮氏=宇都氏。
九州内の市町村データを基に、同じ町内に宇都宮氏
と宇都氏がおられる市町村を調べた。
その結果、鹿児島県8市、宮崎県3市等、24市区町で
重複していた。

宇都氏の全国データ(最近のもの)は、
1位 鹿児島県  700件
2位 宮崎県   150件
(小林市50件、高原町25件)
3位 大阪府   100件
4位 福岡県    65件

宇都氏の本拠は、鹿児島県と宮崎県。
古代の日向勢力であった。

アメノワカヒコと共に来たと見る証拠を示す。
筑紫勢力が、出雲を調略するために、送り込まれた
アメノワカヒコ。
大国主命の女、高姫と結ばれるが、高皇産霊尊の
ために暗殺された話は有名だ。
彼は、どこから来たのか。

ブログ筆者は、全国の天稚彦神社近くの人たちを
調べた。

①滋賀県豊郷町天稚彦神社
伝承では、領主の高野瀬氏が氏神として、城を守る
ために祀ったとされる。
同神社は、城跡と敦賀市の気比神宮を背にしている。
高野瀬氏は、今も近くにおられる。

高野瀬氏の全国データ(最近のもの)は、
1位 愛知県  19件
2位 宮崎県  15件
3位 東京都   8件
4位 滋賀県   6件

愛知県では、豊田市7件。
宮崎県では、高原町9件、小林市2件。
高原町が、全国最多の市町村だった。
高原町の9件は、全て西麓に集まる。

高原町に隣接する、小林市堤の高野瀬氏は、9件の
宇都氏に囲まれている。
近くに岩戸神社がある。
高野瀬氏も宇都氏も、天岩戸を囲んだ神々だと思う。

宇都氏は、高原町西麓にもおられるが、高千穂峰を
遠望する同町蒲牟田には、「宮の宇都」の地名があり、
高千穂宮跡と言われる。
蒲牟田宇都には、宇都氏が8件集中して守っておら
れる。

②京都府南丹市日吉町天稚神社
1991年に、ダム建設で現在地に移転した神社。
水没した旧地「天若」の地図を見ると、湯浅氏が多い。

湯浅氏は、紀国造氏族。
九州内では、宮崎県300件、福岡県150件、
大分県100件。
宮崎市には200件おられる。
湯浅氏も、日向勢力であった。

アメノワカヒコは、神武に先立つ時代に、日向から出雲
に向かった。
ブログ筆者は、アメノワカヒコの後裔が、宇都氏とは
判断していない。

小林市東方(ひがしかた)には、深田氏6件と武田氏
4件が集まる。
各地で両氏族の強いつながりを感じさせる。

宮崎県北部の高千穂町に、高千穂神社がある。
もう一つの高千穂宮候補地だ。
高千穂町にも、武田氏11件がおられることも、書いて
おこう。

出雲の大東町には、難波氏の近くに、武田氏の大集
団がおられる。
この武田氏の謎解きが、次回に待っていた。

第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏

前話では、忍熊王側の将軍、難波吉士五十狭茅(い
さち)宿禰の後裔は岸臣であり、吉備にも拠点があっ
たと書いた。

難波吉士氏の謎解きは、まだこれからだ。
次の壁は、吉備の難波氏。

岡山県内の難波姓は、全国一多い約三千件で、他県
を圧倒する。

県内では、次図に見られるように、岡山市北区を中心
に、広く分布しておられる。
115話岡山市北区難波氏分布上(最最終)
115話岡山市難波氏分布図下図(最最最終)

115話児島半島付近図難波(最最終)

吉備の難波氏は、大和葛城国造(三島)剣根命の
後裔であるといわれてきた。

すなわち、日本書紀の欽明朝の記事に、「蘇我大臣
稲目宿禰を備前児島に遣わして、屯倉を置き、葛城
山田直瑞子を以て田令となす」とある。

この瑞子は、剣根後裔と見てよいだろう。
しかし、この瑞子が、吉備全土に広がる全ての難波
姓の祖であると、言い切ってよいのだろうか。

児島屯倉の田令の職名から、田使姓を名乗った一族
が、児島郡司から備前一宮吉備津彦神社付近を含む、
津高郡司になったのは、律令制が成立した時代。

さらに、田使姓を、難波姓に改めたのは、平安末期に、
平家の家人となった頃。
「難波」の名は、津高郡においた拠点の地名から取っ
たといわれるが、それだけだろうか。

ブログ筆者には、忍熊王の反乱が鎮圧された後、
吉備の難波吉士氏は、吉備氏の配下に入って、
共に任那防衛に活躍したと見る。

やがて、任那の滅亡と、吉備氏の衰退に従って、
大和朝廷の直接支配に組み込まれたのではないか
と、疑問を持っている。

瑞子の後裔が、津高郡司として、従来吉備氏の領地
に入り込み、難波吉士氏の人たちを勢力下に取り込
み生まれたのが、吉備の難波氏ではないかと見る。

何故そういえるのか。
吉備の難波氏が、全て葛城山田(三島)直の後裔と
見ると、つじつまのあわないことに気づいたからだ。

次図は、岡山市の足守川中流東岸周辺図。

115話足守川中流東岸の古墳周辺図(最終)

注目するのは、北区上土田の難波さんと初期古墳。
二つの前方後方墳は、
上土田4号墳 1期(吉備津彦命世代)
上土田1号墳 2期(吉備武彦命世代)

上土田の住民は、ほとんどが難波姓であり、この
二古墳の被葬者とつながりがあると見てよいと思う。

しかし、葛城山田直瑞子が吉備にきたのは6世紀。
時代の大きなズレをどう理解するか。

二古墳の前方部の向きは、
上土田4号墳 100度E 大和国櫛羅(尾張氏本拠)
上土田1号墳 100度W 宇佐神宮

被葬者は、宇佐女王と、尾張氏を真の主人として
近くに仕えていた一族であると、筆者は推測する。

それは卑弥呼女王の側近、難升米を出した難波吉士
氏の一族だろう。

宇佐神宮大宮司には、難波姓から養子縁組で入った
人物もおられる。
宇佐女王と難波氏の近さを感じさせる。

筆者は、足守川中流東岸の古墳群は、吉備津彦命
の吉備制圧に協力、従軍した氏族たちに築造が許さ
れたと見る。

上土田古墳群も、吉備津彦命に協力した難波吉士氏
が、功により築造を許されたものと見る。

ちなみに、南に位置する大崎西古墳群は、上土田古
墳群と同時期に築造されている。

大崎西2号墳 1期 120度E  吉備津彦神社
大崎西1号墳 2期 100度W  生石神社

この二古墳の近くに多いのは、皇室の御兄弟(海
幸彦)の後裔とされる大角さんたち。
古墳の型式が、前方後方墳とする説と、前方後円墳
とする説があるのも肯ける。


東に位置する佐古田堂山古墳は、全長150m。
4期(仲哀神功朝) N10度W。
 
大森氏の密集地にある。
大森氏は、吉備臣の祖、御友別命の子、弟彦命
(御野国造)の後裔とされ、備前一宮吉備津彦神社
社家(大藤内)大守氏の同族とされる名家。

被葬者を、弟彦命とみるのは、御友別命の墓を、
5期の造山古墳と考えると、あわない。
それに先立つ世代で、皇子クラスの大きさを持ち、
北北西を向いた古墳の被葬者。
N10度Wには、足守地区の田狭や吉など、吉備氏
発祥地があるのが、ヒントだろう。

田使氏は、難波氏と深井氏に分かれる。
ブログ筆者が、吉備の難波姓には、難波吉士氏の
人たちもおられると確信を持ったのは、次図の深井氏
分布図を作成したとき。

115話岡山市北区深井氏分布上(最終)
115話岡山市深井氏分布図下図(最終)

吉備中山を囲むエリアに、ほぼ限定されていた。
瑞子直系の支配地は、元はこの範囲ではなかったか。

第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰

ブログ筆者は、「第七話難升米の拠点はここだった」
(2011年6月)において、「卑弥呼の使者難升米の
後裔は難波氏」と書いた。
本拠地は、豊国の国東半島にあり、出雲にも拠点が
あった。

難波さんは、岡山県が最多だが、第七話では吉備
の難波氏について触れなかった。

これは、筆者が名を負っている、葛木国造剣根の
子孫が、欽明朝に児島屯倉の田令に任じられ、律
令時代に入り津高郡司となった後、難波姓を称した
とされてきたからだ。

吉備には、難波吉士氏族は全くおられなかったの
だろうか。

それを追い続けてきた今、ブログ筆者は、吉備にも
難波吉士氏族がいたと、確信を得るに至った。

<難波吉士氏と記紀>
難波吉士が、記紀に最初に登場するのは神功朝。
肩書は、応神天皇の異母兄である忍熊王・香坂王派
の将軍。

名前は、書紀は、吉師の祖、五十狭茅(いさち)宿禰。
古事記は、難波吉師の祖、伊佐比宿禰。

難波吉士氏は、6世紀後半(欽明朝)から7世紀中葉
(天智朝)まで、任那・新羅・百済・隋・唐との外交使節
として活躍する。

最初の登場が、皇子の将軍あるいは側近というのは、
この氏族が、並大抵の氏族ではないと察せられる。

不思議なことは、登場以前の活躍や出自が、全くと
いうほど記述されていないこと。

「難波吉士氏の全容を書けば、邪馬台国や倭五王の
秘密がわかってしまう」と編者たちは知っていて、書か
ない道を選んだ、とブログ筆者は思う。

それでも、残された手がかりで、難波吉士氏の謎を
追っていこう。

<忍熊王・香坂王の系譜>
次図は、筆者が作成した、吉備関係の系譜。
114話吉備関係系図1図(最終)
114話吉備関係系図2図(最終)

二人の皇子は、父系(仲哀天皇)からも、また母系
(大中姫)からも、吉備氏の血が濃厚な人物たちと
理解される。

戦いに敗れた忍熊王と五十狭茅宿禰は、瀬田の渡
に共に身を投じた。
かほどに親密な関係は、五十狭茅宿禰も吉備出身
者であり、皇子と共に育ったからだと見てよいと思う。

<五十狭茅宿禰の吉備本拠>
五十狭茅宿禰は、吉備出身あるいは吉備に本拠を
有していたのか。

そのヒントは、太田亨氏「姓氏家系大辞典」の吉士
(キシ)條にあった。
「岸臣は、伊佐比宿禰の裔ならん」(1865頁)

最近のデータでは、岸氏は全国で1万件を超える。
首都圏を別にして、件数の多い市町村を並べると、
1位  岡山市  206件
2位  出雲市  158件
3位  一宮市(愛知) 155件
4位  大阪市  137件

このデータを見て、ブログ筆者は感じるものがあった。
1位の岡山市の支配者は吉備氏。
2位の出雲市は大国主命。
3位の一宮市は尾張氏。

吉備も、元々は、児島飽浦の高倉氏あるいは東阿曾
の武田氏、すなわち海部尾張氏が主役であったろう。

43年前のデータで、岸さんの近くにおられる人たち
を見ていくと、
出雲市芦渡町では、武田氏7件の近くに岸氏12件。
出雲市平野町では、三島氏7件、吉川氏6件の近く
に岸氏8件。
一宮市千秋町では、田島氏(宗像)、長谷川氏(磯
城氏)の近くに岸氏63件。

岡山市では、備前一宮吉備津彦神社の北東、北区
松尾に岸氏が最多。
次図は、岡山市・総社市付近図及び北区松尾付近図。

114話岡山市北区岸氏分布上(最終)
114話岡山市岸氏分布図下図(最終)

114話岡山市大窪・松尾付近図(最終)

狩屋(かや)氏、難波氏、岸氏は、宗形神社をはさん
で集まる。
また、ブログ筆者が、「魏曹操の後裔で邪馬台国に
亡命したと見る」と書いた、野上氏も見える。

神功皇后軍との戦いに敗れた後、五十狭茅宿禰の
一族はどうなったか。
おそらく、難波の名を外し、吉備氏及び大和大王家
の支配下に入ったのは、間違いないだろう。

<神功皇后の遠征と吉備氏族>
書紀は、吉備氏のうち、鴨別命が神功皇后に従軍
し、熊襲国を撃ったと記す。

逆に言えば、吉備氏の中心である御友別命以下は、
動かなかった。
吉備の血を受けた皇子たちと、難波吉士氏が反旗を
翻しても動かなかった。

この功績が、応神朝における御友別命の子供たち
の、国造任命や兄媛の入内につながったと見る。

また、吉備氏ではないが、牛窓の吉備海部直一族も、
遠征に加わったとされる。(改訂邑久郡史上巻)
これが、大伯国造任命や黒比売の入内につながった
と見る。

<神功皇后の新羅遠征と任那諸国>
神功皇后の新羅遠征について、ブログ筆者の疑問
は、金官加羅国や高霊の大伽耶国などが参陣した
様子が窺えないこと。

かじ取りは安曇氏であり、半島への海路をよく知ると
思われる宗像氏や、難波吉士氏族に案内を求めて
いない。
これはどうしたことなのか。

この謎を解くヒントは、日本書紀雄略紀8年の記事
にあった。

「高麗王が新羅に侵入した際、新羅王は任那王に
対して、救援を求めた。
任那王は、日本府の将軍、膳臣、吉備臣、難波吉士
に、新羅救援に行かせた」

任那王とは、後に新羅と婚姻関係に入った大伽耶
国王か。

膳臣は安倍氏族。若狭を領地としたほか、慶雲2年
(705年)の資料には、豊前国みやこ郡に膳臣広国
の名が残る。(日本霊異記)

吉備臣は、伽耶の利権を、吉備の尾張氏から受け継
いだと見る。
新羅を救援したのは、親新羅派の氏族だった。

浮かび上るのは、伽耶と邪馬台国を支えた氏族たち。

筑紫・豊国を支配したあべ氏。
出雲の大国主命。
吉備・丹後・大和の海部尾張氏。
神とあがめられた、宗像姫の倭国女王卑弥呼。

そして、彼らとともに難升米の難波吉士氏が活躍し
ていた。


総目次(第一話~第一一三話)


    大神神社より大和国原の眺望(2015年12月)

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・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

      大神神社の拝殿を仰ぎ見る

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第一一三話 吉備中県国造は井原市

113話県主神社写真

井原へは、岡山駅から吉備線で総社へ。
総社駅で乗り換えて清音駅。
一旦、駅を出て井原鉄道に乗り、高梁川を渡り、真備
町を西に向う。

途中の呉妹(くれせ)駅では、銅鐸の出土地に向けて
写真を撮る。

「イバラー」というアナウンスで、電車を降りたところ、
運転士さんが追いかけてきた。
「お客さんは、イハラに行かれるのではないですか。
ここは、エバラで、イハラは次の駅ですよ」

親切な案内で、井原にたどり着いた。
どうしても自分の目で確かめたい場所があった。
それは県主(あがたぬし)神社。

ブログ筆者は、県主神社が、西の備後方面から
伸びてきた、三島・藤井勢力の先端であり、東から
伸びてきた、吉備・物部宗家勢力と向き合う場所
ではないかと考えていた。

しかし、県主神社の祭神は、吉備氏族の笠臣の祖、
鴨別命。
この神社が、はたして吉備氏族ゆかりの神社又は
古墳を向いているのか。
それを確かめに出かけた。

またその結果には、吉備中県国造始祖の神祝命を、
天日方奇日方命と見る筆者の仮説が、成り立つか
どうかも、かかっていた。

井原市には、注目する神社が3社ある。
市内唯一の式内社、足次山神社。
そして、武速神社と県主神社。

また、市境を越えた笠岡市走出には、この地方最大
級の前方後円墳2基があり、被葬者は不明となって
いる。
第一〇四話で、「吉備迷宮の入口」と書いた吉備中
県の謎を、ビックリポンで一気に解こうというのが、
本話のテーマである。

113話井原矢掛笠岡市境界図

<足次山神社>
同神社は、元は北西の芳井町天神山にあったという。
「現在は井原町倉掛にあるが、応永年間(1394-
1428)に、芳井町の天神山から遷座したものといわ
れている」(井原市史Ⅰ 313頁)

37年前のデータによると、芳井町天神山には、藤井
氏が6件。
その入口にあたる西吉井にも、22件と最多。
また、西吉井には、早川氏が9件おられる。

井原市史に従えば、14世紀末までは、藤井・早川氏
らが、山中で祀っていたことになる。

同社の祭神は、阿須波神。
式内社調査報告第22巻(1983年皇学館大学出版
部)は、「祭神は阿遅鋤高日子根命であろう」と書い
ている。

同命は、大国主命と、宗像姫の多紀理比売命の間
に生まれた御子。

早川氏は、福岡県旧玄海町の宗像大社を取り巻く
人たちであることを考えると、出雲神を奉じる藤井氏
と、宗像神を奉じる早川氏が集まっていることになり、
納得できる。

14世紀末頃に、現在地に遷座したのは、南北朝
の戦乱終結(1392年)が関わるか。
足次山神社の神職は、代々大塚氏の世襲。
大塚氏は、太田亨氏の著書によれば、藤原姓。
遷座は藤原氏が中心となって行われたと見る。

その際、社殿の向きは、東方の吉備武彦命の尾上
車山古墳を、背は備後吉備津神社に向けられたと
思われる。

<武速神社>
11世紀初めに、武速神社は創建されている。
祭神はスサノオ命。
社殿は、三島氏が集まる、南方の県主郷西方に
向いており、背は、三島氏が34件も集まる松江
市大草を指している。

<県主神社>
結論を先に云えば、県主神社以西の地域が、吉備
中県国造の支配地域であったと見る。

県主神社を囲むのは、藤井、三島、内田(初期物部)
さんたち。
隣接する小田郡(笠岡市北部、矢掛町)に集まる、
中原、森谷、高木さん達とは、明らかに異なる。

県主神社の社殿の向きは、東方N92度E。
大和国大神神社に向いている。
祭神鴨別命といいながら、吉備氏関係の神社、古墳
を向いていない。

<長慶寺山古墳群>
笠岡市走出の2古墳の被葬者について、吉備氏と
する説もあるようだが、一番近いのは森谷さんたち。
そして、2古墳の築造時期が、雄略朝以降(6期と
7期)であることがヒントになる。

森谷氏が、物部宗家の人たちと見たとき、答えがでる。

雄略朝に、雄略天皇が差し向けた、物部兵の奇襲に
より、吉備下道国造一族70人が殺害される事件が
起きた。
つづいて、吉備上道一族も、上道臣田狭の反逆と、
雄略没後の星川皇子の反乱により、吉備氏族は
大打撃を受けた。
吉備氏が有していた山部を取り上げたと、書紀は
書いている。

掲載した図の、中原、森谷、高木さんに共通する点
は、山部さんが側におられること。

2古墳の向きは、N110度WとN115度W。
物部発祥の地、九州の豊前国を指す。

笠岡、矢掛町は、吉備氏族の支配地域であったと
見て良いと思う。
真備町から小田郡までの支配は、鴨別命後裔の笠
臣に、実質は、物部宗家の支配下に移ったと見る。

<吉備中県国造明石彦>
井原市域には、物部宗家(守屋、森谷)の名は、
極めて少ない。
出雲・海部氏勢力が開拓した土地が、崇神朝に、
吉備中県国造として明石彦に与えられたと見る。

明石彦という名前。
大物主家に、大和氏の姫が嫁している。
大物主家の大御気主命に、大和氏の民磯姫が
嫁ぎ、阿田片隅命と建飯賀田須命が生まれている。

阿田片隅命は、宗形君・宗形朝臣の祖。
建飯賀田須命は、三輪朝臣の祖であり、太田田根子
の父。
姓氏録では、宗像・大神・賀茂朝臣は同祖とある。
皆、大和氏の血を受けていることになる。

大和氏ゆかりの地名、明石の名を受けた大物主家
出身の人物が、明石彦だと見る。

何故、大物主家の阿田片隅命が、宗像の三女神を
祀るために送られたのか。
しかも、ブログ筆者の謎解きでは、皇女を娶っている。
(第十話 春日建国勝戸売と大彦命2011年6月)

崇神朝に、大物主家が復活した際、三輪神とともに、
宗像三女神の祭祀も復活したと見る。

倭国女王卑弥呼の側にいた男子は、弟の大海命。
卑弥呼の姉妹の後裔である大物主家が宗形氏を
名乗り、大海氏から祭祀を引き継いだと見る。

後に、大海人皇子は、大海氏に育てられ、宗像姫を
妃とし、高市皇子が誕生する。
大海氏がおられるところが、邪馬台国の位置だろう。

<神祝命を祖とする5国造の後裔>
藤井氏と三島氏の深いつながりを、何話にもわたり
追いかけてきた。
その集大成が、吉備中県国造の謎解き。

神祝命が、大物主家の祖、天日方奇日方命とする
仮説が正しいとすれば、5国造後裔の姓氏は、
次表となる。

113話神祝命5国造の後裔

ブログ筆者は、神祝命後裔に与えられた5国造は、
邪馬台国連合に属した国々だと思う。


第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち

出雲大社本殿の不思議。

「大国主命の御神体は、西方を向いて座っておら
れる。参拝者は、命の横顔を拝んでいる」と、よく
聞かされてきた。

いったい、どこを向いておられるのだろう。
複数の図面を計測し、地図上に線を引いたところ、
新しい発見があった。

<背中に一直線に並ぶ一宮たち>

112話大国主の背に並ぶ一宮

御神体の向く方向は、西方N95度W。
引いた線は、西隣に接する筑紫社(多紀理比売命)
の横を通り、稲佐浜から海上にでる。
到達するのは、九州ではなく、半島南部、金官加羅
国の都があった金海(きめ)。

出雲国大国主命、宗像姫、金官加羅国がつながり、
大きな勢力を持っていた証拠だろうか。

ブログ筆者が、新発見と言ったのは、大国主命の
背中、N85度Eの線上に、5か国の一宮たちが
並んでいたこと。

また、一宮ではないが、松江市大庭の神魂神社も
同じ線上にある。
出雲国造の屋敷内にあった、ともいわれる神社。


<北を向く鹿島神宮の本殿>
次図は、各神社本殿の向く方向を、書き加えたもの。

112話北を向く鹿島神宮本殿

鹿島神宮のみ北を向いており、御神体は東方を向く。
同社と出雲大社は、対称的に作られていると、指摘
されている。

112話出雲鹿島本殿内配置図

鹿島神宮本殿が北を向いていることについては、
「社殿の北向きは、北方鎮護の意味を持っている
のだといわれる」と、「式内社調査報告」(第11巻 
1976年皇学館大学出版部 457頁)は書いて
いる。

しかし、それだけなのだろうか。
社殿の向きは、N20度W。
線を引くと、大型古墳に到達した。

水戸市愛宕町にある水戸愛宕山古墳。
墳長137mの前方後円墳。

112話茨城県内の古墳神社関連図

同古墳について、水戸市史上巻(1963年水戸市)
は、「那珂国造の初祖、建借間(たけかしま)命の
墓であろうといわれる」と書いている。

立地、規模から、国造の古墳として申し分ない。
また、ネット上も、そう解説する記事が多い。

成務朝であれば、3期頃の築造となるはずが、「前
方後円墳集成」(東北・関東編 1994年山川出版
社)は、5期の古墳と見ている点に、謎が少し残る。

<常陸風土記と建借間命>
常陸風土記は、今の霞ヶ浦付近の攻略に果たした、
建借間命の活躍を記録している。

「崇神朝、東国征定のために、神八井耳命の後裔、
建借間命が派遣された。
安婆島(今の大杉神社の位置?)に宿営したとき、
東の浦はるかに、賊がいると知り、軍船で海を渡り、
敵と戦い勝利した」

その功績で、成務朝に、那珂国造に任じられたと
いわれる。
鹿島神宮の御神体はN70度E、東方の海を向き、
背はN110度Wを向く。
N110度Wの線は、奈良県田原本町の多神社
(祭神は建借間命の祖、神八井耳命)に到達する。

本殿が、建借間命の墓とされる愛宕山古墳を向く
ことと、合わせて考えたとき、鹿島神宮は、建借間
命と、大きな関わりがあると見る。


第一一一話 出雲大社を囲む人たち

吉備津神社、上賀茂神社と、藤井さんを追いかけて
きた。
そして神社の双璧である出雲大社にも、藤井さんが
多いと気が付いた。

<出雲大社周辺図(42年前のデータ)>

111話出雲大社周辺図

本図に記した姓氏別件数は、次のとおり。
藤井 45件    神門 8件
祝部 30件    竹内 7件
椿   29件    千家 3件
青木 20件      三島 2件
吉川  19件     北島 1件


藤井さんが最多という事実。
藤井さんとは、一体どんな人たちなのだろうと、
改めて思った。

<出雲大社を囲む人たちの解説>
①千家・北島家  出雲臣氏族
出雲大社御本宮の東西に隣接する、出雲国造家。
アマテラスの御子の一人、天穂日命の後裔。
現在の松江市大庭に天降ったとされ、奈良期初め、
出雲国造家は大庭から、出雲に移転したとされる。

②三島氏  三島県主・葛木国造
前話の図に示したとおり、古代松江の政治中心地
に、大勢力を擁する三島氏。
しかし、出雲大社周辺では、堀川の外側にいる。

③神門氏  出雲臣氏族
38年前の島根県データによれば、
市町村  かんど  こうど  
大社町   ―    13
出雲市   1    32 塩冶7、大津5
斐川町   ―    37 美南11、神氷9、直江7

松江市  46     6  

④吉川氏
神在月に、諸国から集まる神々を迎える、稲佐浜。
そこで最多は吉川さん。

ブログ筆者は、吉川さんについて、三島氏の護衛
隊であると、繰り返し述べてきた。
しかし、吉川さんが何故稲佐浜に多いのだろうか。

⑤青木氏  忌部氏族
祭祀に係る氏族

⑥椿氏  中臣氏族
祭祀に係る氏族

⑦竹内氏 武内氏族
御本宮の東方に鎮座する、命主社近くに集まる。
神魂伊能知奴志(かんたまいのちぬし)神社が、
正式名。
祭神は、神皇産霊尊(かみむすびのみこと)

式内社調査報告第20巻(式内社調査会編皇学館
大学出版部1983年)は、由緒をこう書いている。

「大国主命が、兄の八十神から焼石の御難にあわ
れたとき、さきがい比売とうむぎ比売の二神をお降
しになった。
その二神は、同社坐伊能知比売神社の祭神であり、
その降臨を命ぜられたのが神皇産霊尊で、命の大
恩人というべき神で、文字通り命主で社名がそれを
現している」

武内宿禰は、神皇産霊尊直系の紀国造家の姫を
母とする。
藤井さんも近くにおられるのは、鴨建角身命が、
神皇産霊尊の後裔とする伝承が正しい証拠か。

⑧祝部(ほおり)氏
神在月に、諸国から集まった神々の会議場、上の
宮(仮の宮)周辺で、最多の祝部さん。
祝部さんとは、どんな人たちか、新たな謎であった。

<祝部さんの謎>
・太田亨氏の著作「姓氏家系大辞典」によると、
鴨県主氏族であり、天智朝に宇志が祝部宿禰とし
て日吉神社の祝を最初に務めたとする。

・日吉神社の祭神と祭祀氏族については、岡田精
司氏の研究「日吉神社と天智朝大津宮」(日本書
紀研究第16冊 塙書房1987年)がある。

それによると、滋賀大津京の北方5キロに鎮座する
日吉(ひよし)大社は、比叡山の地主神である大山
咋(おおやまくい)神の祭祀は古いが、天智天皇が
近江京を築いたときに、大和三輪神を勧請して、
鹿島から来た鴨県主氏の宇志が、社殿を初めて
建てたとする伝承を伝えている。

大宮に祀られた三輪神の神位は正一位。
二宮の大山咋神は従四位。

都の鎮護のために、三輪神を勧請したとき、大神
氏族が同行しなかったのは何故か。

それは、前話で指摘したように、賀茂県主氏族は、
鴨建角身命を始祖とするが、養子縁組により、鴨
県主氏の宇志が、大物主の血を受けた大神氏族
だったからと見る。

「諸社祠官系譜」(江戸期成立か)には、別雷神宮
(賀茂社)祠官16家の中に、祝部氏がおられ、日
吉神社社司にも祝部氏がおられたことがわかる。

祝部宿禰系図では、平安時代末期に、日吉神主
の祝部氏の女が、賀茂社禰宜の室となっている。
両神社の社家が、賀茂県主氏族の同族であった
と筆者は見る。

・出雲祝部氏と京都滋賀の祝部氏は同族か。
太田亨氏の著作にも、他の著作にも、まだ見て
いない。

最近の全国データによると、
祝部 全国89件、 島根県51件、 大阪府6件、
京都府2件 等。
島根県が過半数を占めている。

38年前のデータによると、
祝部 島根県49件
大社町40件、出雲市6件、松江市2件、安来町1件。
このうち出雲大社周辺30件。
これは、出雲大社のために集まっておられるとしか
考えられない。

祝部  京都市6件
このうち、賀茂社近くの北区に1件。
西隣は吉川さん。
上の宮の祝部さんと稲佐浜の吉川さんのようだ。
ブログ筆者は、確かな証拠は提示できないが、
出雲の祝部氏も、賀茂県主氏族と見る。

<藤井氏・三島氏・吉川氏の関係>
藤井氏について、推測する時期がきている。
読者の皆様には、次の二枚の図をみてほしい。

111話加茂町付近図上
111話加茂町付近図下

この図は、藤井氏と三島氏が、全国最多の福山市
の中でも、加茂町中心部の分布図。
羽場(はば)神社は、日本武尊が悪神と戦ったとき、
人々が協力した地。
楽々森彦の後裔が藤井さんたちであり、楽々森彦
の女と吉備氏の間に生まれた媛が、景行天皇妃と
なり日本武尊を生む。
ここにいるのは、日本武尊の身内の人たちだ。

111話葛木御県神社周辺図

この図は、葛木御県神社の周辺図。
葛木国造(三島)剣根命が祭神。
護衛隊である吉川さんたちが外を守り、藤井
さんたちが祭神を祀っている構図。

<藤井氏は、三島氏あるいは三島の血を受け
た大物主家(鴨県主氏を含む)を、主と仰いだ
人たちではと、ブログ筆者は見る>

プロフィール

ツルギネ

Author:ツルギネ
FC2剣根ブログ
安威川から眺める北摂の山々
(2017年10月撮影)

見やすいように、150%に
拡大してお読みください。

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