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第一四八話 うきは古墳群は何氏族か

(溝咋神社復活 2018年9月撮影)
みぞくい (251x340)

(民博復活 図書室も 2018年9月撮影))
みんぱく (243x340)

いま、ブログ筆者は、石人山古墳以前の筑紫
君の古墳を探査中。

今話は、福岡県うきは市にある、若宮・朝田
古墳群。
ここには、墳長90m超の前方後円墳が3基
もある。
吉井町若宮古墳群に、月岡古墳(8期95m)
と塚堂古墳(9期91m)。
浮羽町朝田古墳に、法正寺古墳(8期96m)
期数は、「前方後円墳集成」記載の編年。

90mといえば、大国造クラスだが、この地
に国造の名を聞かない。
いったい何氏族か。
筑紫君と関係があるのか。
また、イクハ郡の名前からいわれる、的(いく
は)臣説は成り立つのか。

<地元自治体調査報告書の情報>
謎ときにかかる前に、地元自治体調査報告書
の情報を、読んでおこう。

・月岡古墳は、浮羽の地に突然出現したように
見受けられる。
その被葬者は、長持形石棺に納められ、この
石棺の持つステイタスから、中央政権に極く
近い人物であったろうことをうかがわせる。
(筆者注:九州内の長持形石棺は、月岡古墳
と唐津谷口古墳のみらしい)。

・月岡古墳は、5世紀第二四半期の中で、
前半よりの時期が想定される。
・石人山古墳は、月岡古墳に後続すると考え
られる。
・法正寺古墳は、4世紀後半の古墳とされる。
(以上は、「若宮古墳群Ⅲ」2005年吉井町
教育委員会)

・若宮古墳群及び朝田古墳群は、的臣との
関連が想定される。
(以上は、「若宮古墳群Ⅰ」1989年吉井町
教育委員会)

<若宮古墳群周辺図>
148話若宮古墳群最終

月岡古墳と塚堂古墳の前方部の方位は、同じ
80度W。
唐津市(浜玉町)谷口古墳(4期)を指して
おり、韓半島の南の沖を通過する。
日岡古墳は、糸島市(二丈町)一貴山銚子
塚古墳(4期)を指しており、韓半島南西部
に至る。

<谷口古墳周辺図>
148話谷口古墳最終

谷口古墳の所在地は、古代玉島湾の入江
東岸にあたる。
神功皇后が、鮎を釣った玉島川。
谷口古墳の4期は、神功皇后の時代。

旧玉島村に多い姓は、大場氏(天物部)。
ちなみに、末羅国の国造は、成務朝に、
穂積臣同祖、大水口足尼孫が任じられ
ている。(物部氏族)

松浦川上流に、大型前方後円墳の久里双水
古墳(集成は、4期から1・2期に補遺編
で訂正している)があり、周りを内田氏
(物部氏族)が囲む。

その方位は、玉島川河口を指している。
谷口古墳からは、副葬品として鏡7枚が出土。
三角縁神獣鏡は、一貴山銚子塚古墳出土の
三角縁神獣鏡2面と同範。

「末羅国」(六興出版1982年)には、久里
双水古墳について、「5世紀前半代、墳丘
規模、立地、時期ともに、二丈町一貴山
銚子塚古墳と類似している」(P.464)
とある。

<一貴山銚子塚古墳周辺図>
148話一貴山銚子塚

同古墳を囲む人たちは、鈴木氏(物部氏族)。
南方にも、内田氏(物部氏族)。
この古墳の被葬者は、物部氏族だろう。

吉井町の若宮古墳群、唐津市谷口古墳、
糸島市一貴山銚子塚古墳が、つながった。

若宮古墳群を、物部氏族と判定して良いだ
ろうか。
ところが、古墳周りに、物部氏族の人々が
おられない。

古墳周りには、安元氏(三善氏族)。
鎌倉時代、関東から領主として下向し、若宮
八幡神社を勧請したとされる。

古墳を築いた首長一族は、どこに行ったか。
少し離れているが、目立つのは、石井氏。
阿部、安部、石井氏が、筑紫君勢力とすれば、
これはどう理解したらよいのか。

<朝田古墳群周辺図>
148話朝田古墳群

最初に築造されたのは、法正寺古墳。
基山の荒穂神社、三雲伊都国王墓、志摩町、
壱岐島を経て、韓半島南西部に到達する。

9期の弥次郎丸古墳は、香椎宮、対馬北部
を経て、韓半島南東部任那安羅国に至る。

10期の重定古墳は、小郡玉母神社(玉垂
命母又は武内宿禰母)、那珂川西畑(日下
部氏密集地)、壱岐島を経て、韓半島南西
部に至る。
これらの方位は、筑紫君又は武内氏族との
つながりを匂わせる。

朝田古墳群を囲む人たちはどうか。
高木氏(紀直氏族)、石井氏、河内氏(任那
氏族?)。

しかし、見逃せないのは、隈上川と巨瀬川
の上流におられる、物部氏の大集団。
「物部」を名乗る集団は、全国でも、希少だ。
この地の、古代首長系譜につながる人たち
と見てよいと思う。

物部氏族説を補強するのは、こうもり塚から
出土した五鈴鏡。
鈴鏡は、関東の物部氏族が、作成配布した
ものだと、前に書いた。

ゆっくりと頭を冷やしてみると、東国の上毛
野君と、物部氏族の関係に似ている。
さきたま古墳群の上を通過する、前方後円墳
の方位線がない。
うきは市の古墳群もまた、上を通過する方位
線がない。

物部氏族が、太田天神山古墳、さきたま古墳
群など、巨大古墳を造り、上毛野氏族を牽制
する。
上毛野君氏族も、負けじと競争。

同様に、九州に送り込まれた物部氏族が、
各地に大型前方後円墳を造り、地元勢力を
挑発する。
その挑発に乗って、大型古墳を造り、各地の
勢力とのつながりを強めた先に、筑紫君一族
の悲劇があったのではないかと、いまは思う。

<的臣説は成りたつか>
古代生葉郡の名前からくる、的(いくは)臣説。
魅力的だが、古墳群の周りに、的臣=葛城臣=
武内氏族が、ほとんどおられない。
これは難しいか。

9期の弥次郎丸古墳は、任那安羅国を向く。
欽明朝、的臣とともに、親新羅路線を取った
河内氏。
河内氏が、古墳周りにおられるが、的臣の
活躍は10期の出来事だ。

9期であれば、継体9年(磐井の乱前)、
物部連が水軍500隻を率いて帯沙津に
向かっている。
北から敵が来攻して交戦。
己汶(こもん)で、百済軍に迎えられる。
方位線は、任那安羅国から、己汶付近を
指している。

朝田古墳群は、物部氏族が、筑紫君ら地元
勢力の聖地を押さえつつ、韓半島で、百済
任那の救援に活躍した記憶を、方位線で後世
に残したものと、ブログ筆者は見る。


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第一四七話 高良玉垂命は東郷高塚古墳の主

高良玉垂命の謎が解ければ、筑紫君の謎
は半分解けたと言ってもよいだろう。
その聳え立つ謎の壁が、ある日、崩壊した。

ブログ筆者が用いる謎解きの手法は、古墳
前方部の向きや、古墳を囲む人たちなど、
現代に遺された事実を基に、解明しようと
するもの。

高良玉垂命については、筑後を中心に所在
する、高良(玉垂)神社の参拝線(参拝時に
参拝者が向く方位)と、神社正面線から、
玉垂命がおられた場所や、平定をしようと
した地域を見つけられるのではと、考えた。

次表は、福岡県内の高良(玉垂)神社リスト。
最近刊行された、「高良さん」(玉垂本宮
由来記 2018年 高良大社)に付属する
神社リストから、地図で確認できた神社に
ついて、方位を調べた。

147話高良神社リスト1
147話高良神社リスト2

<神社方位線が描き出した太い帯>
上記リストを基に、九州北部地図に、神社
の位置、参拝線(赤)、正面線(青)を記入
した。

完成した図は、参拝線が、筑後南部から北
北東に向かって太い帯となって流れていた。
また、正面線は、南南西の大牟田、荒尾方
面に向かって、大きな滝のように流れ落ちて
いた。

各方位線は、どの神社のものか判別できない
ほど密集しており、残念ながらここに図を掲載
できない。

<ブログ筆者が注目した事実>
方位線の帯の中で、筆者が注目した事実は
次のとおり。
①高良山を向く神社(4社)
高良大社(久留米市)  高良山頂へ
山川王子宮(久留米市) 高良山頂へ
下宮社(久留米市) 高良山頂へ
黒崎玉垂神社(大牟田市) 高良大社へ

②筑紫野市城山を向く神社(2社)
大善寺玉垂宮(久留米市大善寺)
玉満高良玉垂命神社(久留米市三潴町)

筑紫野市城山は、筑紫君の始祖を祀ると
いわれる筑紫神社の旧鎮座地。
現在、城山には、阿部さん。
西側には、高田さんの集団がおられる。

③津屋崎宮地嶽神社を向く神社(1社)
三橋町百町高良玉垂神社(柳川市)

④宗像市東郷地区を向く神社(5社)
大和町徳益玉垂神社(柳川市)
矢加部玉垂命神社(柳川市)
高島高良玉垂神社(柳川市)
井田玉垂神社(筑後市)
長浜玉垂命神社(筑後市)

北北東に向かう参拝線の帯の中で、最も
集中するのが、宗像市東郷地区。
なかでも、矢加部玉垂命神社の参拝線は、
東郷高塚古墳(3期61m)を貫通する。

⑤宗像大社を向く神社  なし
これは、高良玉垂命が、宗像氏と関係なく、
また水沼君ではない証拠と見る。

<今話の結論>
もう、高良玉垂命について、断言しても良い
だろう。

高良玉垂命は、前話(第146話)で紹介した、
宗像市東郷高塚古墳の被葬者。
安倍木事の後裔。
彼が、筑後の平定を行った。

久留米市史第一巻(1981年久留米市)に、
次の記載がある。
「高良玉垂宮神秘書によれば、高良大菩薩
は、まず大善寺に着き、ここで舟を新造して、
大川酒見に上陸し、風浪社を祭った。
さらに海に出て、大牟田市黒崎に上陸(中略)
最初に上陸したのが大善寺であり、ここで
棄てた古い舟を御神体としたのが、大善寺
玉垂宮である」(P527~528)

高良玉垂命が、筑後巡行で得た領地は、
三潴が、景行皇子の国乳別皇子に与えられ
水沼別の始祖となった。
また、大牟田は、高良玉垂命の後裔に与えら
れた。
大善寺と黒崎に、重要な玉垂神社が祀られる
のは、玉垂命の活躍に感謝するため。

そして、大善寺にある、御塚古墳などの古墳
群は、国乳別皇子の後裔のものだ。
その証拠は、御塚古墳の前方部が、N153
度Eで、宮崎県国富町を向いていること。

日本書紀景行紀は、「妃の襲武媛は、国乳
別皇子(中略)を産んだ。国乳別皇子は、
水沼別の始祖である」と書く。
ホツマツタエでは、「ソヲタケ」のタケヒメは
双子産む。クニコリワケとクニチワケ」。
「ソヲ」ではなく、「ソヲタケ」。
ソヲの武田氏(海部尾張氏)だ。

国富町飯盛には、武田氏が30件おられる。
久留米市大善寺町宮本の御塚古墳の北西、
安武町住吉には、武田氏の集団がおられる。
また、高三潴の月読神社・御廟塚近くにも、
最近、武田氏がおられる。

三潴の領地を分け与えられたとすれば、国
乳別の一族が、弓頭として、安倍宰相(高良
玉垂命)に従い、渡海して戦ったことが納得
できる。

第一四六話 初代筑紫国造の古墳

筑紫君の奥津城といわれる、八女古墳群。

石人山古墳を先頭に、西方に前方部を向け
見事に連なる古墳たちは、まるで波を蹴立て
進む艦隊のようだ。
しかしながら、その築造時期は、8期以降と
新しく、雄略朝頃からとなる。

筑紫君の謎解きは、何度もデータを集めて
は中断してきた。
「初代国造の古墳を探ることが、謎解きの
コツ」という経験則を、東国で得た。

<筑紫国造の系譜>
日本書紀:大彦命は、阿部臣、筑紫国造等
七氏の始祖。
国造本紀:成務朝、阿部臣と同祖、大彦命
の五世孫の田道命を筑紫国造に任じた。

ブログ筆者は、筑紫国造について、次の系譜
を考えた。

146話筑紫君系譜
1世は誰か?
同じ大彦命後裔の那須国造の場合、
「景行朝、武淳川別命の孫、大臣命を国造
に任じた」とある。
筑紫国造の1世は、武淳川別命ではないと
見た。

<筑紫国造任命までのストーリー>
筑紫の博多湾岸には、後漢光武帝から金印
をもらった、海人たちの倭奴国王がいた。

稲作技術を持って、南方から来た弥生人たち
が、海人たちと対立、あるいは結びついて国を
立てたのが、邪馬台国の時代か。

大和朝廷は、垂仁朝頃に、大彦命の孫、阿倍
木事を筑紫に派遣する。
同行したのは、親衛隊の物部氏族(内田氏)
のほか、大和朝廷の神官たちや、吉備を征し
た吉備津彦命の同族。

阿倍木事は、海人の王家の娘を娶る。
生まれた女子・高田媛は、景行妃となる。
男子は、筑紫統治拡大のため、海人たちの
懐柔に努める。

しかし、筑紫国造がおかれるには、成務朝
田道命まで世代を必要とした。
それでも、なお、古処山や女山などには、
服属しない勢力が残っていた。

<古墳編年では何期か?>
成務朝任命の国造の古墳は、3期又は4期
と見る。
上毛野君の例を見れば、浅間山古墳(4期)
が初代。

<ブログ筆者が候補と見る古墳たち>

146話候補古墳リスト

<那珂八幡古墳>

146話那珂八幡古墳

「奴国の故地、福岡平野の真只中を、北へ
流れる那珂川」
これは、「老司古墳調査報告書」(1989年
福岡市教育委員会)の序文に、岡崎敬九大
名誉教授が書かれた、那珂川の紹介文。
那珂八幡古墳は、その那珂川流域に立地
する、最古級(1期)の前方後円墳。

古墳を囲む人たちは、日下部氏が最多で、
安部氏や国崎氏(吉備津彦後裔国前国造
同族?)もおられる。

ブログ筆者が注目するのは、前方部の方位。
近隣の剣塚北古墳、博多1号墳と全く同じ、
120度W。
方位線は、3古墳とも、佐世保湾に浮かぶ
高島に至る。

高島の遺跡からは、ゴホウラ貝の腕輪を身に
付けた人たちが見つかっている。
沖縄・奄美で獲れた貝の中継地、加工地で
あったとされている。
この島に多い姓は、内野氏約30件。

ブログ筆者は、那珂八幡古墳を、阿倍木事の
古墳と見る。
1期の大型古墳には、宝満川流域に原口古
墳があるが、主体部が甕棺であり、また囲む
人たちに、阿倍氏族を見いだせない。

<東郷高塚古墳>

146話東郷高塚古墳修正

福岡平野から離れているが、ブログ筆者は
この古墳に注目した。
安部氏の他に、西隣の津屋崎町に多い
花田氏、大和朝廷の親衛隊と見る内田氏、
占部氏や国崎氏を伴う。

海人族とのつながりが見えるが、なお大和
勢力に守られている被葬者は、阿倍木事
と田道命の間の人物と見る。

読者の皆様には、隣接津屋崎町に立地す
る、宮地嶽神社周辺図を見ていただこう。

146話宮地嶽神社

神社の最も近くに、高田氏がおられ、阿部氏
と高田氏が密集する。
阿部氏が、安曇氏族を掌握した姿だろうか。

<黒崎観世音塚古墳>

146話黒崎観世音塚古墳

大牟田市大字岬に、墳長97mの巨大古墳が
隠れていた。

次は、「黒崎観世音塚古墳」(1999年大牟
田市教育委員会)の序文抜粋。
「黒崎山一帯はかって眼下に有明海を一望し、
筑後随一の景勝地。筑後高良山の三大末社
の一つである黒崎玉垂宮に大樟あり。
平成6年(1994年)に、巨大な前方後円墳で
あることが判明した」

築造時期については、
「老司古墳(福岡市南区)に先行し、東郷高塚
古墳(宗像町)より下る」とする。

「前方後円墳集成」では、「補遺編」
(2000年山川出版社)に収録された。
「墳長97mの規模を持ち、(中略)、矢部川
以南では、最古の前方後円墳で4期から
5期に位置付けられる」

集成は、4~5期とするが、調査報告書の
記述に従えば、老司古墳(4期)に先行し、
東郷高塚古墳(3期)より下ることになり、
3~4期となる。

また、前方部の方位は、集成補遺編が80度
Wとするのに対し、調査報告書の復元図に
よれば、84度Wとなる。
この古墳の横には、玉垂神社があり、筑紫
君との関係をうかがわせる。

古墳を囲む人たちは、阿倍氏族の他、内野
氏が多数おられる。
内野氏は、どのような人たちか。
佐世保市高島に多いと書いたが、長崎野母
崎半島の先端、野母崎町の120件が、長崎
県内では最多。

太田亮氏の姓氏家系大辞典では
「筑前内野に起りしか。筑後肥前の名族
たり」

旧筑穂町内野(現飯塚市)には、神功皇后
が古処山の羽白熊鷲と戦う前に、戦勝を
祈願した神社がある。
内野には、内野氏もおられるが、最多は天
物部の大庭氏。

内野氏は、大庭氏と同族かどうかは別にして、
天草海、有明海入口の野母崎と、有明海の
着岸地を押さえている。
筑紫君にとって、博多が北の玄関とすれば、
黒崎は南の玄関にあたる。

景行朝に、猿大海を服属させたとはいえ、
古処山や女山などには、従属していない
勢力があった。
そんな時期に、この地に進出した勇気ある
人物こそ、初代筑紫国造田道命と見る。

筑後の平定を祈願するように、吉備津彦命
と同族の国崎氏が、古墳近くにおられる。

神功皇后が、渡海戦の大事を前にして、
何故筑後での戦いを起こしたか、これまで
すっきりしなかった。
筑紫君の望んでいた筑紫統一を、協力して
実現させることが、筑紫君と海人たちを、
新羅戦に巻き込むために必要だったと、
今ようやくわかった。

<老司古墳>

146話老司古墳

老司古墳(75m福岡市南区)と、安徳大塚
古墳(64m那珂川町)は、いづれも4期
の古墳。

その築造順は、「老司古墳」(調査報告書)
では、「那珂川流域では、那珂八幡古墳
を最古とし、次いで安徳大塚古墳、老司古墳
が3番目に築造された」と推定している。

前方部の方位は、174度Eで、他の古墳と
異なり南を向いている。
東隈の日下部氏の大集団を貫き、高三潴、
大牟田市に至る。
大牟田に向かった兄弟を、案じるかのようだ。

<安徳大塚古墳>

古墳近くに、裂田神社があり、神功皇后が
ここまでやってきた伝承がある。
被葬者は、神功皇后の同時代人で、開拓に
協力を得たのだろう。

日下部氏が多い。
日下部氏は、難問の一つだった。
垂仁天皇に反乱を企てた、狭穂彦王の母方
の祖父は、隠されているが、大彦命だ。
王の後裔は、日本海側で、日下部氏として
繁栄した。
しかし、父は日子坐王なので、もしそうで
あれば、国造本紀は、日子坐王後裔と書い
たと思う。

この迷いを打ち破ってくれたのが、那珂川町
西畑の人たち。
日下部氏と高田氏が大きな集団を作る。
宮地嶽神社周辺の、阿部氏と高田氏の大
集団を思い出せば、阿部氏と日下部氏が
同族である証拠と見る。

内野氏の集団も、那珂川の上流におられる。
この地が、大牟田と繋がる証拠と見る。

まとめるのは、まだ早い。
八女、久留米、菊池など、筑紫君と見られる
古墳から得られた事実と、今話で得られた
事実が重なり合った時、筑紫君の謎が解け
たと言える。

大阪府北部地震と7月豪雨


6月18日朝、茨木市・高槻市などに震度6の
大地震が起きた。
燈籠がいくつも倒れ、巨木が傾く等の被害が
発生して、現在、溝咋神社は立ち入り禁止と
なっています。

みぞくい1 (340x255)
みぞくい2 (340x255)
みぞくい3 (340x255)


そして7月豪雨。
7月5日深夜、安威川の水位が上昇したため、
茨木市南部に避難勧告が出た。
幸い氾濫はしなかったが、ブログ筆者宅では、
水、食料、靴を、二階に上げて備えました。

雨がやみ、水位が下がった、7月9日の安威川
の様子。
まだ、ゴーゴーと音を立てて流れています。

安威川1(340x255)
安威川2 (255x340)
安威川3 (340x255)


第一四五話 初代武蔵国造の本拠は大里村か

これまで、武蔵国造の謎を追いかけてきた。

第136話(2017年10月)では、安閑
朝の争いについて、「児玉町付近にあって、
大和朝廷と結んだ笠原直使主と、東松山市
付近にあって、上毛野君と結んだ同族の
小杵の争い」と書いた。

第144話(2018年4月)では、多摩川
古墳群は、武蔵国造ではなく、海部尾張氏族
と判定した。

その後も、まだ解けていない、初代武蔵国造
兄多毛比命の本拠探しを続けてきたが、確信
を持てないままでいた。

そんなある日、古代史の神様がささやいてきた。
「兄多毛比命? 
関東には、出雲系国造が多数いるぞ」

「そうか!同族の国造たちの古墳が、武蔵国造
の古墳を指しているかもしれない」

ブログ筆者は、調査を開始した。

次図は、出雲系国造たちが築いたとされる、
古墳の位置と方位図。
さらに、出雲系と判定できた、多珂、海上、新
治国造の古墳周辺図も加えた。

145話関東出雲国造古墳

145話多珂・海上国造最終
145話新治国造古墳

本図から、何がわかったか。

①多摩川古墳群は、やはり出雲系の氏族では
なかった。
多摩川古墳群の向きは、他の出雲系国造たち
の地を向いていない。
また、他の国造たちの古墳も、多摩川を向い
ていない。

②海上国造と相武国造
千葉県市原市の姉崎古墳群の入口に、海上
国造後裔の、海上氏がおられる。
西方の海老名市にある、相武国造の古墳群
を、2基の前方後円墳が貫く。
また、相武国造の古墳、秋葉山3号墳が、
東方の姉崎古墳群を貫いており、同族と
わかる。

③多珂国造と下海上国造
茨城県高萩市の赤浜1号墳近くに、多珂国造
後裔の、大高氏が多数おられる。
同古墳は、南方の下海上国造の三之分目大塚
山古墳を貫いている。

④新治国造・宮山観音古墳
ブログ筆者が、「大発見だ!!」と叫んだ、
新治国造(茨城県明野町)宮山観音古墳。

同古墳は、墳長91m。
7期の築造で、方位はN108度W。

注目すべきは、同古墳を囲む武井氏の多さ。
茨城県内では、明野町が最多。
武井氏は、太田亮氏の、「姓氏家系大辞典」
によれば、諏訪神家あるいは金刺姓という。

古墳の向き、N108度Wを追いかけた。

埼玉県行田市のさきたま古墳群近くを通る。
同古墳群は、N104~106度Wで、ズレる。
また、古墳群の築造時期は、8~10期であ
り、7期の宮山観音古墳が先行する。
さきたま古墳群は、ターゲットではないと判
断した。

さらに、前方部の線を伸ばすと、大里郡大里
村(現熊谷市)冑山神社に到達した。
祭神は、ズバリ初代武蔵国造兄多毛比命だ。

145話大里村古墳図
145話大里村周辺の人たち

同神社は、径90mという巨大円墳・甲山古
墳上に立地している。
甲山古墳について、武蔵国造兄多毛比命の
墓とする伝承があることは、「埼玉の古墳・
大里」(塩野博著 2004年さきたま出版
会)に、詳しく紹介されている。


ブログ筆者が、この付近を、初代武蔵国造
の本拠と見る理由は、他にもある。

同神社前を、南北に通る国道407号線は、
古代東山道武蔵路と同じ経路だからだ。
武蔵国造の治所は、東山道につながる武蔵
路沿いに必ずあるはずと、考えてきたことと
合致する。

もう一つは、さきたま古墳群の、8基の大型
前方後円墳の向き。
前方部の方位線8本は、放射状に、全て大
里村を貫いている。

魚雷戦で、敵艦を逃すまいとして、少しづつ
角度を変えて、魚雷を発射するように、武蔵
国造の本拠を鎮めようとする、大和朝廷軍の
強い意思が、前方部の方向に表れている。

その到達点は、桜井茶臼山古墳、熊野大社、
伊勢神宮、富士山などであり、出雲ゆかりの
地は全くない。

第一四四話 氷川三社同格の謎

<万博バラ園で太陽の塔の背中に並ぶ>
IMG_5058 (340x255)
2018年5月8日撮影

<茨木市若園バラ園のブラックバカラ>
IMG_5073 (340x254)
2018年5月11日撮影


武蔵国氷川神社の歴史の中で、ブログ筆者
が注目するのは、江戸時代の出来事。

「式内社調査報告」に、同社の祭神について、
次の記載がある。

「現在は主神をスサノヲ尊としている。
スサノヲ、大己貴、稲田姫のいづれを主神と
するかについては、男体社を奉斎する神主
岩井駿河家と、女体社の神主角井(つのい)
駿河家、簸王子社の神主角井監物家との間
に、元禄期に争論が起り、決しがたかった
ため、遂に元禄12年(1699)に公訴
となり、同年9月寺社奉行より、以後は三社
同格と下知された。

しかし、男体社は大祝といわれた岩井氏が
奉仕し、又、例大祭は、明らかに祇園御霊会
の性格を持ち、縁起も祇園会の由来を述べ
ているところから、主神は男体社スサノヲ尊
で、その后稲田姫を女体社とし、御子大己貴
命を三鳥居を入って正面にある簸王子社と
すると考えるのが妥当であろう」(第11巻
東海道6 1976皇學館大学出版部)

江戸幕府は、社格の争いを決着させた30年
後の享保年間に、三社が面していた神池の
見沼を干拓し、実質取り上げてしまった。

6世紀の安閑朝に、武蔵国造の地位を巡り、
出雲氏族と思われる笠原直使主と、同族の
小杵が争い、大和朝廷が決着させたのち、
4ヵ所の屯倉を献上させた事件と似ている。

江戸時代の争いは、古代の争いの再現だっ
たのではないかと、ブログ筆者は感じた。

三社同格との下知(判決)は、それぞれに、
主神とするもっともな理由があった、という
ことになる。

これこそ、笠原直使主と小杵の争いの、核心
と見た。

残念なことに、公訴の主張内容や、寺社奉行
の判決理由を、いまだ目にしていない。

今話では、現代に残されている神社の方位
(参拝線及び正面線)と、神社を囲む人たち
から、三社同格の謎に迫ろうと思う。

次の二枚の図は、大宮氷川神社等の方位図
と、神社を囲む人たちの図。
144話氷川神社方位最終
144話氷川神社囲む人最終

①大宮氷川神社
現在の社殿は、昭和15年(1940)造営。
江戸時代の社殿は、男体社、女体社、簸王
子社が、ほぼ同じ大きさであったとされる。

明治になると、男体社に三神が合祀された。
現在の社殿は、男体社が拡張整備されたこと
になる。

大宮氷川神社の参拝線は、複数の写真で計
測すると、N27度W。
この参拝線は、関東最大の古墳、太田天神
山古墳及び女体山古墳に突き当たる。
さらに延長すると、新潟県柏崎市西山町二田
(ふただ)の物部神社(越後国二宮)に到達
する。

第138話「太田の支配者と鈴鏡の謎を解く」
(2017年12月)で、太田の古墳は物部
氏族と書いた。

太田天神山古墳の方位は、132度30分W。
秩父国造の眠るとされる、秩父郡皆野町国神
塚を通過し、物部(穂積)氏の故地、紀州熊野
大社にいたる。

二田物部は、ニギハヤヒ命の天降りに供奉した、
天物部の筆頭だ。

出雲氏族、諏訪神族であれば、糸魚川市(奴
奈川神社)または諏訪大社、出雲大社を向く
と思われるが、物部氏族所縁の地を向いて
いた。

社殿近くの高鼻町や堀の内町に、岩井氏、
守屋氏の集団と、東西の角井氏。
旧神官家の岩井氏が、物部武諸隅命の後裔
を名乗り、現神官家の東西の角井氏が、物部
姓を名乗っていることと整合する。

②中山(中氷川)神社
中山神社は、大己貴命(大国主命)を主祭神
とし、旧見沼北岸の中川に鎮座する。

ブログ筆者は、第112話「大国主命の背中に
並ぶ一宮たち」(2015年11月)で、出雲
大社におられる大国主命の背中の方向、すな
わちN85度Eの線上に、一宮が並ぶと書いた。

112話大国主の背に並ぶ一宮

中山神社は、大宮氷川神社と同じく、この線
上にあるだけではない。
正面は、出雲大社をピタリと向いている。
これを祀る人たちは、出雲氏族としか考えら
れない。

中川におられるのは、小熊氏の集団。
武蔵国造を巡る争いで、小杵に味方した、上
毛野君小熊の名を戴く人たちだ。
東松山市では、上野氏とともにおられた。
正当な出雲氏族で、実は小杵の後裔ではな
いかと思う。

③氷川女体神社
同社は、旧浦和市三室の東端、宮本に鎮座
する。
見沼のほとりに創建された古社で、大宮氷川
神社とともに、武蔵国一宮と称されてきた。
主神は、稲田姫命。

代々、武笠(むかさ)氏が、同社の神主家と
三室村の名主職を務めてきた。
小室社は、武笠家の屋敷内神社。
西方の木崎御室神社、小室社、氷川女体神
社の祭神は、いづれも稲田姫命。

小室社と氷川女体神社の参拝線は、N50度
Wで、さきたま古墳群同様に、東松山市北部
を通過している。

小室社と木崎御室神社の参拝線は、中山神
社を通過しており、出雲のつながりがここに
見える。
木崎御室神社の正面線は、多摩川古墳群を
向く。

武笠氏とは、どういう人たちか。
太田亮氏は、「新編風土記に、武笠氏 三室
村女体社の神主也。佐伯姓」と書いている。

たしかに、佐伯氏の人たちが、三室におられる。
しかし、ブログ筆者としては、武蔵国造となっ
た笠原直使主の後裔ではないかと見る。

その理由は、ひとつは、行田市のさきたま古
墳群付近に、武笠氏が集中していること。

二つ目は、屯倉のおかれた武蔵国南部橘樹
(たちばな)郡の郡衙は、現在の川崎市高津
区にあった。

その中心には、武田氏(海部尾張氏)が多い
が、多摩川との間の坂戸に、武笠氏が集中し
ておられる。

3つ目は、氷川女体神社東隣に、笠原氏が
おられること。

笠原氏の名前は、大宮市、浦和市に点在す
るが、集中地域が見当たらない。
国造の後裔が、武笠氏となって、稲田姫命を
祀っておられるのではないかと見る。

足立神社と、初代国造兄多毛比(えたけい)
命につながるとみられる武井氏の話は、次回
にさせていただきます。

<茨木市若園バラ園の夜来香>
IMG_5077 (340x255)
2018年5月11日撮影

第一四三話 多摩川に誰がいたのか

<古墳上にある浅間神社>
浅間神社 (255x340)

<テラスより二子玉川方面を望む>
二子(340x255)

桜満開の3月末日、東京都大田区にある
多摩川古墳群を訪ねた。

東急東横線多摩川駅で電車を降りて、まず
向ったのは、南の浅間神社古墳。
8期(後期)の前方後円墳で、墳長60m。
前方部は南南東を向く。

墳頂部は削られ、浅間神社が祀られている。
鈴を鳴らす紐の桐枠に、「長島一茂」と刻ま
れており、ここが田園調布であることを知ら
される。

社殿に参拝後、西側の広いテラスに出る。
南に、多摩川を渡る新幹線が見える。
北に、二子玉川の高層ビル群。

次に、駅の北にある、最大の亀甲山(かめ
のこやま)古墳に向かった。
宝来山古墳と共に、初期の100mを超える
大古墳。

3~4期に、武蔵国南部に、これらの大古墳
を築いた勢力は、何氏だったのか。
それを探るのが、今話のテーマ。
次図は、多摩川古墳群周辺図。

143話多摩川周辺図

本図から、何が見えるだろうか。

①出雲臣氏族・諏訪神族の人たちが少ない。
10期まで連続して古墳群を築造した勢力は、
出雲系氏族ではないように見える。
安閑朝に、武蔵国造の地位を争った小杵の
本拠とする説があるが、笠原直使主と小杵
を出雲勢力と見る限り、成立しないように思
われる。

②2基の大古墳周辺に絞れば、武田・竹田
氏が目立っており、海部尾張氏族の可能性
が浮かぶ。

③鈴木氏(物部氏族)が最多であるが、密集
度を見れば、西に続く野毛古墳群に多い。

次に、多摩川古墳群を向く、関東の古墳たち
を見よう。

143話多摩川向く古墳

2~4期の初期古墳と、8~9期の後期古墳
に、二分されることに気づく。

2期  江南村 塩1号 笠原氏と出雲乃伊波比
    神社  出雲系氏族と判定
3期  東松山市 天神山 鈴木氏と大野氏
    物部氏族と判定
3期  真岡市 山崎1号  武田氏
    海部尾張氏と判定
4期  高崎市 浅間山 隣接の佐野古墳群が
     保渡田古墳群を向くので、毛野氏族と
    判定。最初の着任者と見る。
4期  東松山市 高坂諏訪山 鈴木・長谷部氏
    と大野氏  物部系氏族と判定
8期  前橋市 今井神社 池田氏
    毛野氏族と判定
8期  東松山市 おくま山 鈴木氏と大野氏
    物部氏族と判定
8期  小山市 茶臼山  石上氏
     物部氏族と判定
8期  宇都宮市 塚山南 隣接の6期塚山
古墳が大荒比古神社を向いており、
毛野氏族(大野氏)と判定
9期  境町 上武士天神山  池田氏
     毛野氏族と判定

出雲・海部尾張・物部・毛野氏族から、敬意
を払われた勢力とわかる。

初期と後期に二分された理由を考えてみた。

毛野氏族が着任する前の、2~3期に、既に
多摩川は、有力勢力だったと見てよいだろう。

景行朝の、日本武尊東征は、3期頃か。
その東征の成否は、既に進出していた豪族
たちの協力を得ることが不可欠だったはず。

同行した主な人物は、
・おじの吉備武彦。(吉備氏)
・大伴武日連。(大伴氏)
・妃の弟橘媛は、穂積臣の女。(穂積氏)
・建稲種命は、尾張火高で娶ったみやず媛
の兄。(尾張氏) 
・物部宅勢連 氷川大神斎となる (物部氏)

東国には、既に物部(穂積)、尾張氏が進出
していたと推測する。
尾張氏は、海人族なので、南部の海岸に近
い地を拠点に選んだと見る。

5~7期(中期)に、多摩川を向く古墳が見
当たらない。
これは、物部勢力の大伸長と、毛野勢力が
下野国と分割されたからか。

8~9期(後期)の古墳が、多摩川を向く。
これには、継体天皇即位が影響していると
見る。
尾張氏を重視し、目子媛の産んだ2皇子が
皇位を継ぐ。
尾張氏が、再び浮かび上がった時代だ。
それは、神武以前の、正統な王家であった
からに違いない。

南武蔵多摩川古墳群を築いた勢力は、海部
尾張氏族、というのが、ブログ筆者の見解だ。


それでは、この一族は、有名な武蔵国造の
地位をめぐる争いでは、どちらの勢力に味方
したのだろうか。

毛野氏族でも、池田・大野氏の囲む古墳が
多摩川を向く。
同じ毛野氏族でも、上野氏の古墳は向いて
いない。

次の二枚の図は、東松山市周辺の古墳図と、
囲む人たちの図。

143話東松山周辺古墳図
143話東松山人たち

上野氏は、埼玉県内では、東松山市の、北
中部・滑川町に集まる。
上野氏集団の中に、小熊氏もおられる。
ここにある古墳は、多くが北の方角を向いて、
上毛野君とのつながりを求めているようだ。

一方、これらの古墳を、行田市の埼玉古墳
群の前方部の線が、放射状に抑え込んで
いる。
埼玉古墳群の周りは、鈴木・内田氏(物部
氏族)と大野氏(毛野氏族でも大荒田別命
の後裔)。
東松山市南部の古墳群と、同一勢力だと
気づいた。

結論を言えば、上毛野君小熊と結んだ、
小杵の勢力は、東松山市北中部、吉見町
(横見)、滑川町を中心とする勢力であった
と、筆者は見る。

氷川神社との関係は、次話にいたします。

<多摩川を渡る新幹線>
新幹線 (340x255)

<亀甲山古墳横からの国見>
国見(340x255)

総目次(第一話~第一四二話)

溝咋神社と桜(2018年3月28日撮影)
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IMG_4863 (340x255)

総目次
• 第一四二話 継体宮を向く井出二子山古墳 (04/01)
• 第一四一話 上毛野君の古墳(伊勢崎編) (03/11)
• 第一四〇話 上毛野君出現前の古墳たち (02/26)
• 第一三九話 栃木県南部の初期古墳を判定する (01/27)
• 第一三八話 太田の支配者と鈴鏡の謎を解く (12/24)
• 第一三七話 グーグルホームと邪馬台国 (12/12)
• 第一三六話 武蔵国造と上毛野君の本拠地 (10/21)
• 第一三五話 埼玉古墳群の向くところ (09/16)
• 第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編) (09/03)
• 第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた (08/13)
• 第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか (07/19)
• 第一三一話 筑紫君への道 (06/20)
• 第一三〇話 葦分神社探訪記 (06/01)
• 第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏 (04/15)
• 第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2) (03/23)
• 第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1) (02/22)
• 第一二六話 八代の前方後円墳の主たち (01/29)
• 第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者 (01/04)
・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

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第一四二話 継体宮を向く井出二子山古墳

<継体天皇樟葉宮跡>2018年3月27日撮影
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<樟葉宮跡は交野天神社境内にある>
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今話は、高﨑市(旧群馬町)保渡田古墳群
と、前橋市総社古墳群の、大形前方後円墳
を判定する。

対象古墳は、保渡田古墳群では、
井出二子山  8期 108m
保渡田八幡塚 8期 102m
保渡田薬師塚 8期 105m

総社古墳群では、
 遠見山 8期 70m
 総社二子山 10期 90m
 穂積稲荷山 10期 90m

読者の皆様には、最初に、前橋・高﨑市域
主要古墳の、位置と前方部の方位を記した
分布図を見ていただく。

142話前橋高﨑古墳分布図最終

本図から、古墳間のつながりを読み取ること
ができる。

①保渡田古墳群と下佐野古墳群
保渡田古墳群の井出二子山古墳(8期)を、
下佐野古墳群の長者屋敷天王山古墳
(4期)と、下佐野寺前6号墳の前方部方位
線が通過する。

保渡田古墳群は、井野川上流にあり、下流
の綿貫古墳群とのつながりを指摘する説も
あるが、本図からは、浅間山古墳を含む
倉賀野・下佐野古墳群との関係が深いと
読み取れる。

②綿貫古墳群・下郷古墳群・金古古墳群
綿貫古墳群の方位は、下郷古墳群の方位と
ほぼ同一であり、同じ一族と見る。

ブログ筆者の注目は、綿貫観音山古墳
(10期)の方位線が、金古古墳群をかすめる
ので、つながりありと見る。

③王山古墳と前橋二子山古墳
総社古墳群に含まれる王山古墳(9期)は、
越後の弥彦神社を指している。

また、前橋二子山古墳(10期)の方位線が
貫通することから、前橋八幡山古墳と同じ
物部氏族と見る。

④総社古墳群と金古古墳群
穂積稲荷山古墳と総社二子山古墳は、金古
古墳群をかすめる。
また、金古入道山古墳は、総社古墳群をかす
めており、つながると見る。

⑤金古古墳群と北谷豪族居館遺跡
金古古墳群中の金古高山古墳の方位線は、
北谷豪族居館遺跡を通過する。
北部を北谷の首長が、南部を三ツ寺の首長
が支配していたか。

142話保渡田古墳群

三古墳は、井出二子山、保渡田八幡塚、
保渡田薬師塚の順に築造されたといわれる。
築造時期は、5世紀後半説と、6世紀前半説
があるようだ。

「群馬県史資料編3」(1981年)は、群馬町
保渡田八幡塚古墳について、こう書く。

「昭和45年の調査では、本墳の築造が、榛
名山二ツ岳の前期噴火の直後にあたること
が、周堀内堆積物の状況によって確認され、
(中略)本墳は、6世紀前半に、榛名山南麓
の井野川流域に支配権を確立していた豪族
によって構築されたものと推測したい」
(P.346 梅沢重昭氏)

<井出二子山>
同古墳の方位、N120Wにピタリと合致
するのは、大阪府枚方市樟葉丘の、継体
天皇樟葉宮跡。
現在は、交野天神社境内の小丘。
同宮は、継体天皇が即位し、5年間(507?
~511?)宮とした地。

方位にブレがあったとしても、
N118W  継体弟国宮(518?~526?)
N119W  継体今城塚古墳
N121W  継体筒城宮(511?~518?)
と、所縁の地を指している。

本古墳は、継体天皇の在位初期に築造され
たと見る。

上毛野氏族は、尾張氏とともに、継体朝を
支えた、東国勢力であったと見る。
九州の筑紫君、東国の上毛野君の両方を
同時に敵にまわすことは、しなかったろう。

<保渡田八幡塚>
保渡田八幡塚の方位、N171Eは、秩父を
向く。
榛名山噴火を受けて、南方の領地の守護
を願ったものか。
それとも、東国開拓の祖を向くのか。

<保渡田薬師塚>
保渡田薬師塚の方位、N113Wは、滋賀県
高島市の大荒比古神社にピタリ合う。
大荒比古命の後裔、大野氏の集団は、古墳
群の南方に集まる。
また、紀氏族の菊池氏の集団もおられる。

南に移った首長が、上小塙稲荷山90mを
築いたと見る。

保渡田古墳群と三ツ寺豪族居館遺跡を囲む
人たちで、筆者が注目するのは、矢島氏と
福田氏。
諏訪神族の矢島氏と結びついた上毛野氏族
の跡を、福田氏の集団が今も守っておられる
のか。

<道場1号墳>
三古墳の南にある道場1号墳(10m)は、
上越市を向いている。
長野氏(物部氏族)の集団を、背にしている
ので、物部氏族と判定する。


142話総社古墳群

利根川西岸に築かれた、前橋市総社古墳
群の北支群は、6世紀後半の3基の大形
前方後円墳の他、7世紀の大形方墳、
宝塔山古墳と蛇穴山古墳を含む。

大形前方後円墳の前方部の方位は、
遠見山  109W 塩尻を経て気比神宮
総社二子山  75W 羽咋気多大社
穂積稲荷山 89W 白山比売神社

気比神宮は、応神天皇所縁の地。
白山比売神社は、アマテラスのおば。
羽咋は、継体母の振姫につながる地。
方位からは、上毛野君の古墳と判定できる。

古墳を囲む人たちはどうか。
毛野氏族は少ない。

それでも、7世紀末まで、大形方墳が造られ
たこと、上野国衙が南方に造られたこと等を
思えば、大国主の血を引く諏訪神族と結んだ
上毛野君一族と判定する。


<継体樟葉宮付近の高台から西方を望む>
IMG_4858 (340x255)




第一四一話 上毛野君の古墳(伊勢崎編)

今話は、現伊勢崎市域の古墳について、
判定を試みた。
最初に全体図を示した後、5つのエリアに
分けて、分析・判定を行った。

141話伊勢崎編全体図

141話御富士山

御富士山古墳(5期)は、広瀬川と荒砥川の
合流点にあり、大型前方後円墳としては、
市域で最初に登場した。

ブログ筆者は、被葬者を上毛野君と判定した。
理由は次のとおり。

北西の前橋市域にある、今井神社古墳(8
期)前方部の方位は、御富士山古墳をかす
め、多摩川古墳群に至る。
両古墳は、血縁のつながりがあると見る。
今井神社古墳周辺は、池田氏(毛野氏族)
が集まるので、同族と見た。

奈良氏の大集団は、橘奈良麻呂の後裔と
する説(群馬県姓氏家系大辞典:角川
書店)もあるが、他地域では、毛野氏族の
奈良原氏(三夜沢赤城神社神官家)と
隣接しておられるので、本来は毛野氏族と
見る。

埼玉県東松山市所在の、雷電山古墳(5期
)より、35度Wの線が、御富士山古墳を貫く。
諏訪神族の矢島氏と、上毛野氏族が結び
ついたのが、この被葬者か。

御富士山古墳の前方部は、106度W。
諏訪氏族の下諏訪を通過し、応神天皇と
所縁の深い気比神宮を指している。

本古墳を築いた勢力は、東北部、波士江町
の大野氏(毛野氏族)と見る。

141話前赤堀茶臼山最終

赤堀茶臼山古墳(6期)は、伊勢崎市北部の
旧赤堀町にあり、御富士山古墳(5期)に続き
築造された。

前方部の向きは、91度30分W。
大室古墳群の後二子山古墳を貫いて、群馬
町、小松市、さらに韓半島に至る。

6期は、仁徳朝頃だ。
西方の、大黒塚古墳(9期)や大室古墳群
(9期)も、まだつくられていない時期。

旧赤堀村側では、阿部氏の人たちが最も
近いが、部下だったろうか?
物部氏族の人たちは、近くにおられないこと
から、上毛野君一族と判定する。

「赤堀村誌上」(1978年)は、赤堀茶臼山
古墳について、
「中央の丘陵地は、上毛野君竹葉瀬命の弟
田道命の居住した館跡である」との説を、力
を込めて書いている。

日本書紀仁徳紀53年は、上毛野君竹葉瀬
命が新羅に派遣されたこと、後に弟の田道
命が新羅と激しく戦ったことを記している。

とすれば、御富士山古墳が上毛野君竹葉
瀬命であり、赤堀茶臼山古墳は、弟の田道
命が、遥かに韓地を眺めているのか?

141話丸塚山

本図は、前図の南側で、伊勢崎市域の中央
部にあたる。
粕川に沿って、古墳が造られている。

(華蔵寺裏山古墳)
「前方後円墳集成東北関東編」(1994年
山川出版社)は、伊勢崎市域で最古の3期
古墳とする。
既に破壊され、原形が失われており、方位
角度がわからない。

古墳周辺に、毛野氏族の人たちは見えず、
物部氏族も少ない。
菊池氏(紀氏族)、大賀氏(三輪氏族)、藤井
氏(鴨県主氏族)が目立つので、紀氏族を母
に持つ豊城入彦命の、先遣隊の古墳と見る。

(丸塚山古墳)
赤堀茶臼山古墳(6期)に続く、7期の古墳。
方位174度Eは、広瀬川と粕川の合流点
付近を目指したものか。

古墳西方に、上植木廃寺跡がある。
寺域の中心には、矢島・鈴木・鯉登氏がおら
れる。
諏訪神族と繋がった後の、上毛野君一族と
見る。

(五目牛二子山古墳・五目牛清水田古墳)
両古墳は、旧赤堀村域の南端にある。
菊池氏(紀氏族)と神沢氏(諏訪神族、後に
藤原氏族)の大集団がおられることから、
上毛野君一族と判定する。

五目牛清水田古墳は、伊勢神宮を向く。
豊城入彦命の同母妹、豊鍬入姫命が、アマ
テラスを笠縫に祀ったことにつながる。

(片田山古墳)
同古墳の南側に、内田氏(物部氏族)の大
集団。
方向線は、大黒塚古墳を経て、柏崎市に
向かう。
片田山古墳は、物部氏族と判定する。

(荷鞍山古墳)
豊城町にある10期の古墳で、南東を向く。
著者が関心を持ったのは、東側の権現山。
ここにも、鯉登氏がおられる。
また、権現山にある蓮神社は、豊城入彦命
を祀る。
同古墳も、上毛野君一族と判定する。

141話上武士天神山

上武士天神山古墳は、広瀬川と粕川の合流
点にある。
池田氏(毛野氏族)が、大集団をなしており、
上毛野君首長墓と判定する。

高木氏(紀氏族)も多い。
九州の博多湾岸を、高木氏は埋め尽くす。
筑紫肥前肥後に繁栄した、紀氏族が、豊城
入彦命の母方であるのを知れば、根拠を補
強するものとなる。
後世に、上野国守護が、この地に居館を置い
たのも、上毛野君首長の地と知ったためか。

筆者が注目するのは、古墳周辺の川田氏と
松島氏。
川田氏は、前図で、原之城(げんのじょう)
豪族居館跡の周りを囲む人たち。
原之城も、上毛野君の遺跡と判定できる。

141話雷電神社跡古墳

伊勢崎市東部、旧東村と旧境町エリアには、
4基の古墳がある。

北側の雷電神社跡古墳(10期)と下谷A号
古墳(10期)は、大野氏(毛野氏族)、萩原氏、
松島氏に囲まれており、上毛野君一族と判定
する。

雷電神社跡古墳の方位は、赤堀茶臼山古墳
付近を通過し、下谷A号古墳は、三夜沢赤城
神社を指しており、これも根拠となる。

南側の上淵名雙児山古墳(10期)と、采女
村30号古墳は、どうか?

上淵名雙児山古墳は、大室山古墳群に向い、
采女村30号古墳は、赤堀茶臼山古墳を貫
通する。
方位からは、上毛野君の可能性が高いが、
周辺に毛野氏族の人たちが少ない。
判定を保留する。


<<ブログ筆者のあとがき>>
読者の皆様には、もう気がつかれたと思う。
上毛野君の古墳と判定するカギは何か?

<カギ1:方位はアマテラス>
豊城入彦命の母は紀国造家の出身。
紀氏族は、アマテラスとのつながりが深く、
妹は、アマテラスを祀った。

このため、古墳の方位は、
アマテラス大神を祀る伊勢神宮を向く。
あるいは、アマテラスの叔母で、乳母を務め
た、白山姫所縁の神社や白山を向く。
あるいは、親戚の皇子たちを祀る神社を向く
などが、カギとなる。

<カギ2:古墳を囲むひとたち>
池田、上野、大野など、毛野氏族が集まる
古墳は、100%上毛野君。
毛野氏族がおられずとも、高木・菊池・川瀬
氏などの紀氏族や、萩原氏・川田氏・松島
氏・福田氏などが集まる古墳も、可能性が
高い。

今回、入手したカギを手にして、高﨑・前橋
の古墳判定に進もう。
次回、保渡田古墳群に関わる三ツ寺豪族
居館跡を囲むのも、福田氏だ。

第一四〇話 上毛野君出現前の古墳たち

上毛野君の古墳が、最初に築造されたのは、
いつ頃だろうか。

140話上毛野君系譜

日本書紀は、驚くことを書いている。
「景行55年、豊城入彦命の孫、彦狭嶋王を
東国の都督に任じたが、病気で薨去した。
東国の百姓は、その王がこられないのを
悲しみ、ひそかに王の屍を盗み、上野国に
葬った。
翌年、御諸別王に東国を治めるよう命じ、
王は東国に行って統治した」

群馬県の中・西部には、多数の古墳がある。
彦狭嶋王又は御諸別王の陵と言われる古
墳が、いくつもあるが、どれが正当なのか。

いっぺんに答えを出すのは難しい。
古墳時代から現代まで積み重なった、人の
層を、一層ずつ剥がす作業が必要だった。

今話では、その謎解きの序章として、中・西
部にある、古墳編年2・3期の古墳の判定に
取り組んだ。

140話群馬初期古墳の向き最終

本図に登場する古墳を、個別に見ていこう。

①元島名将軍塚古墳
同古墳には、島名神社があり、彦狭嶋王が
祭神となっている。
しかし、古墳周りには、内田氏4件、鈴木氏
1件で、毛野氏族の人たちはおられない。
物部氏族と判定する。


140話玉村町古墳

②玉村町下郷10号墳
同古墳周りには、物部・毛野氏族の人たち
がおられない。
囲むのは、清和源氏の後裔と伝える石関氏
たち。
隣接する古墳の方向は、香川金刀比羅宮と、
小野神社を向いている。
また、高﨑下佐野古墳群の漆山古墳の線が
本古墳を通過する。
金刀比羅宮から、物部氏族と判定する。

③玉村町川井稲荷山古墳
古墳周りには、毛野氏族の人たちがおられ
ない。
北東に、鈴鏡を出土している大塚越3号墳が
ある。

前橋市東片貝町の桂萱大塚古墳(10期)の
線が、本古墳を貫通する。
桂萱大塚古墳の周りは、鈴木氏15件で、
毛野氏族の人たちはおられない。
物部氏族と判定する。

140話前橋広瀬古墳群

④前橋八幡山古墳
2期の大古墳は、東国開拓神を祀る小野神
社を向く。

⑤前橋天神山古墳
本古墳の方位は、元島名将軍塚古墳をか
すめ、高﨑浅間山古墳(4期)を通過する。

朝倉広瀬古墳群におられる人たちを、最も
古いデータと照合すると、物部氏族が残る。
両古墳とも物部氏族と判定する。

140話前橋市初期古墳

⑥荒砥中山A1号墳
あえて言えば、スサノオ命につながる須賀
氏か?
⑦堤東2号墳
あえて言えば、海部尾張氏か?

磐座のある古代祭祀の行われた小山を、
左右から守るように、2つの小規模な初
期古墳がある。
物部・毛野氏族の人たちが、ほとんどおら
れない。

中心にある大黒塚古墳からは、鈴鏡が
出土している。

大黒塚古墳を囲む鯉登(こいと)さんたち。
戦国時代に、千葉県君津の小糸からきて、
産泰神社を祀ったと伝える。
君津から鈴鏡が出土したことは、前に書いた。

元は小糸氏。
全国では、鈴木氏の多い地域におられるが、
君津市小糸は、毛野氏族の人たちが集まっ
ている。

大黒塚古墳と大室山古墳群(前中後二子)
の判定は、独立した一話を要する。

第一三九話 栃木県南部の初期古墳を判定する

栃木県内の市町村史には、共通して登場
する図がある。

それは、栃木県内の初期古墳分布図だ。
「殆ど前方後方墳なのが特徴」と書く。

最初に、図に出会ったのは、二宮町史。
ブログ筆者に、ピンとくるものがあった。
「これは、手法の確認に使えるぞ」

登場する古墳は、いずれも、古墳編年が
2-4期。
下野国造に、奈良別命が最初に任じられ
た時期は、仁徳朝とすれば、編年5期頃。
毛野氏族は、この中にいないと見て良い。

古墳周辺図を作り、前方部の方向と、古墳
を囲む人たちから、被葬者氏族を判定する
筆者の手法が、有効か確認できると見た。

判定対象古墳のリストは、次表のとおり。
参考に、5-6期の前方後円墳も加えた。

139話栃木那南部古墳リスト修正

139話1藤本観音山浅間山


藤本観音山古墳は、前話で書いたとおり、
物部氏族。
宇都宮市茂原大日塚古墳(2期)の方向線
が向いているので、同族と見る。

10期に正善寺古墳が、その線上に築造さ
れている。
正善寺古墳の方向線は、太田天神山古墳
(5期)をかすめている。

足利市南端に所在する小曽根浅間山古墳。
2期で最古の前方後円墳は難問だ。

方位は、後に鈴鏡を出土した、足利市助戸
を指し、その先は新潟市に至る。
古墳の北西には、鈴木氏集団と、生駒神社
があることから、物部氏族か。
ただし、古墳を囲む神谷氏は、海部尾張氏
族に近いと見る人たちだ。

139話2佐野市

松山古墳は、囲む人たちから物部氏族。

多摩川を向く古墳は、いくつもあり、被葬
者は何氏族か知りたくなるところ。

古墳を囲む人たちをプロットすると、多摩
川古墳群の前方後円墳は海部尾張氏で
あり、鈴鏡を出土した円墳等は、物部氏
族だと、ブログ筆者は見ている。

馬門愛宕塚古墳は、例外の前方後円墳。
何故、前方後円墳かわからないが、佐野の
南口を守っており、物部氏族と見る。

139話3藤岡町大枡塚

山王寺大枡塚古墳の方位は、「藤岡町史」
記載の実測図により、55度Wと計測。
石上氏を向くので、物部氏族と見る。

隣接する小山市域に、8期に築造された
茶臼塚古墳等も、近くに石上氏がおられる
ので、物部氏族と見る。


139話4茂原古墳群

本図は、第134話鈴鏡東関東編でも使った。

リスト中で、最古の初期前方後方墳である
茂原大日塚古墳(2期)は、はるかに足利
市藤本観音山古墳を指している。
その先は、香川県金刀比羅宮に至る。

茂原愛宕塚古墳と茂原権現山古墳はほぼ
南を向く。
南河内町絹板にある別処山古墳(10期)
は、鈴鏡を出土。

別処山古墳周りには、毛野氏族配下と見る
伊沢氏がおられるので、別処山古墳は毛野
氏族と今回判定する。


139話5南河内町三王山南塚

「南河内町史」は、三王山南塚2号墳に
ついて、
「すぐ北の朝日観音遺跡から出土した土器
と同じ弥生土器が出土したことから、その
集落と関連が強い」と書いている。
物部氏族と見る。

7世紀初頭には、さらに北方に、三王山古
墳等が築造された。
中央で物部宗家が滅亡した後である。
上野氏の集団から、毛野氏族と見る。


139話6市貝町上根二子塚

二つの古墳は、物部氏族。


139話7益子町星の宮浅間塚

4期の星の宮浅間塚古墳は、東方の入定塚
古墳を通過して、鹿島灘に至る。
入定塚は、栃木県史通史編1によれば、5
世紀後半の築造。

七井は、物部氏族が中心と見る。


139話8真岡市山崎古墳

山崎1号墳、2号墳ともに、多摩川古墳群
を向く。

古墳を囲む高松氏が、どちらの勢力なのか
わからない。
他の地域では、高松氏の隣家は、武田氏で
あったり、鈴木氏であったり。
ここでは、南方の武田氏の集団を優先して
考える。


139話9芳賀町八ツ木古墳

古墳を囲む人たちは、物部氏族。


139話10芳賀町亀の子

古墳を囲む大根田氏は、芳賀町が全国最多
だが、よくわからない。
大田亮氏の「姓氏家系大辞典」でも、
コメントなし。

同じ稜線上に、穴不動古墳があり、武田氏
が囲む。
南方の武田氏の大集団を考慮すれば、海部
尾張氏族と見る。

139話11おまけ奈良別古墳

これは付録。

1977年に再版された、宇都宮市史は、
「崇神48年 豊城入彦命
景行56年 御諸別王 東国都督
仁徳朝 毛野国を上毛野、下毛野2国に
わけ、豊城入彦命4世孫奈良別命を国造。
宇都宮付近を中心として統治したるもの
なるべし」

奈良別命の古墳候補は、図の3古墳。

<江曽島雷電山古墳>
「宇都宮の旧跡」(1989年)は、
「江曽島城は、未確認ですが全長230m
の大前方後円墳(雷電山古墳)の上に築
かれた城で、古墳の周溝をそのまま堀に
用いたともいわれています」

実在したとすれば、間違いなく奈良別命の
古墳だが、あまりに情報が少ない。

現状は、宇都宮氏(藤原氏族)の後を受
け、藤原氏族の人が多く囲む。
毛野氏族とその協力氏族の人は、近くに
見当たらない。

<東谷笹塚古墳>
ブログ筆者は、従来、同古墳周りに、毛野
氏族の人たちがおられないので、物部氏族
と考えていた。

今回詳細に見ると、古墳周りに、毛野氏に
近い福田氏16件。(47年前のデータ)

東に隣接する上三川町磯岡には、毛野氏
族に早くから配下となった伊沢氏9件。
さらに鬼怒川との間に、上野氏10件。

また、同古墳方向線は、毛野氏族が囲む
三夜沢赤城神社を指す。
(一方、二宮赤城神社周りは、物部氏族が
囲む)
これらから、毛野氏族と判定する。

<塚山古墳>
同古墳方向線が通過する、壬生町羽生田
には、奈良氏が集まる。

その先、琵琶湖西岸、滋賀県新旭町の大
荒比古神社に至る。
この神社は、上毛野君祖、大荒田別命と
豊城入彦命を祀る。
別名河内大明神。

大荒田別命は、豊城入彦命4世孫。
初代下野国造奈良別命も、豊城入彦4世
孫(国造本紀)又は6世孫(姓氏録)。

同古墳近くには、物部氏族の人たちが
おられない。
近くに、奈良氏、三島氏、伴(大伴)氏。
奈良別命には、弟がいたと姓氏録にある。

第一三八話 太田の支配者と鈴鏡の謎を解く

鈴鏡の出土面数は、群馬県が最多。

最初は、「鈴鏡西関東編」をあっさりと
書くつもりで調べていた。

関係市町村史誌を、みんぱく等で読んだ。
古墳の説明は詳しいが、最後に、「残念な
がら被葬者はわからない。ただ上毛野君が
有力な氏族だった」で終わるものが多い。

県内大古墳の被葬者が、全て上毛野君
氏族であるかのように感じさせられた。
また、鈴鏡についても、上毛野君のものと
示唆する記述が見られた。

はたして、そうだろうか。

群馬県内の古墳被葬者の謎を解かねば、
鈴鏡が集中する本当の理由も解明でき
ないと感じた。

このままわからないままで、人生を終わ
るよりも、「半分でも正解だったら良い。
自分なりの答えを出してみよう」
そう決心した。

各前方後円(方)墳ごとに、前方部の
向く目標推定地、方向線が貫通又は
接する他の古墳、逆に貫通又は接さ
れている他の古墳の表と、各古墳を
囲む氏族勢力図を、全力で作成した。

皆様に見ていただくために、県内地域を
いくつかに分け、注目する古墳に絞って、
図に表示することにした。

今話は、東毛の太田市域を取り上げた。
大泉町と千代田町も含めた。
ここは、古墳時代前期に、西方の前橋等
と並び、大古墳が築かれた地。

今話の結論を先に云えば、
①太田市域の古墳被葬者
物部氏族とその協力氏族が被葬者。
毛野氏族の古墳は、この地域には見当た
らない。

②鈴鏡の保有者
鈴鏡は、新規開発地域の古墳から出土
している。
保有者は、物部氏族と協力氏族である。

138話太田古墳と方位最終

①前期古墳(2~3期) 赤色表示
太田の象徴といわれる金山南麓の、2期
太田八幡山古墳は、富士山を指して築造
されている。
利根川下流の、3期古海松塚古墳は、
浅間山(火山)を指している。

2期屋敷内B1号墳は、前橋天神山
古墳を通過する。
この時代の盟主を指していると見る。

東方を守る、2期矢場鶴巻山古墳は、
同期の屋敷内B1号墳を通過し、諏訪上
社本宮に至る。
3期の、藤本観音山古墳は、同期の矢場
薬師塚古墳を通過後、太田北方を守る
2期寺山古墳を通過し、糸魚川に至る。

これら東方の3古墳は、諏訪、糸魚川に
繋がる人たちと見られる。

南方を守る、富沢7号墳と朝子山古墳。
朝子山古墳は、南東の古海を向いており、
同族らしい。

②中期古墳(4期~6期) 緑色表示
西方の、4期別所茶臼山古墳、東方の関
東最大で5期の太田天神山古墳、南東の
5期古海天神山古墳が該当する。

別所茶臼山古墳は、武蔵国小野神社を、
太田天神山古墳は、紀州熊野を指して
築造されている。

古海天神山古墳は、古海松塚古墳を通
過し、石川県寺井町和田山古墳群に至る。

③古墳中期(7~8期) 青色表示
北西の7期太田鶴山古墳、南西の7期
米沢二ツ山古墳、南東の古海松塚11号
墳、北東の8期焼山古墳が該当する。

古海松塚11号墳は、古海天神山古墳
同様に、石川県寺井町和田山古墳群
に至る。

④古墳後期(9~10期) 茶色表示
9期に、南方の東矢島に、100m級の
4古墳が築造される。
いずれも、総社古墳群を向く。
この時代の盟主を指していると見る。

北西の、10期二ツ山1号墳は、昭和村を
向く。
南東の10期真福寺観音山古墳は、諏訪
湖と出雲大社を向く。

同期の真福寺八幡山古墳は、東矢島古墳
群、別所茶臼山古墳を経て、大室山古墳群
を通過する。
繰り返し確認したところでは、後二子古墳
と中二子古墳を貫通している。

この時代の盟主墳と考えられるが、前橋編
で再検討する。

138話太田氏族密集地最終

本図は、太田市域の氏族集中地域を示す。
姓氏データは、46年前のデータ。

なぜ、毛野氏族(池田、大野、上野)が
ないのか。

17年前(2000年)のデータで作成
すると、結構プロットされるが、46
年前のデータと照合すると、ほとんど
が消えてしまう。
新しい家だった。

太田市域の古墳は、ほとんど物部氏族だ。

ブログ筆者が、迷ったのは、武内氏族が
いくつかの古墳被葬者ではないかという
ことだった。
群馬県内で、武内氏族最多の市が太田市
だからだ。

太田天神山古墳と米沢二ツ山古墳付近を
詳しく調べると、密集地は若干古墳から
距離が離れていると見た。

南方の、富沢7号墳は、物部氏族に同行
した大隅氏族が被葬者と見る。

138話太田古墳と鈴鏡出土古墳最終
本図は、太田市域の、鈴鏡出土古墳図。
鈴鏡は、物部氏族集中地域の古墳から
出土していることが、はっきりわかる。

北西の、二ツ山1号墳からは出土して
いないが、前方部が指す昭和村の古墳
から鈴鏡が出土している。

南東の、古海松塚11号墳は、鈴鏡を
出土しているほか、向かっている和田山
1号墳からも出土している。

最大の発見は、本図外の西方、玉村町
の大塚越3号墳前方部が指す方向線
(87度E)上に、兵庫塚古墳(旧
新田町)、太田八幡山古墳、矢場薬師
塚古墳がならぶこと。

兵庫塚からは、鈴鏡が出土している。
新田町上江田は、埼玉県内を含めて、
関東の須賀氏の総本拠地。

スサノヲ命につながる、有力な人たちで
ある。

太田八幡山古墳と矢場薬師塚古墳を
貫通していることは、鈴鏡は物部氏族の
ものであった証拠と見る。

また、新規開発地域から出土している
ことは、物部氏族が、同族又は協力氏族
に対し、その功により贈物としたと見る。


第一三七話 グーグルホームと邪馬台国

永観堂より京都市内を望む
(2017年11月撮影)
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「時代に遅れないように」と言って、子供
からグーグルホームをもらった。

セット完了で、早速質問してみた。
「ねえ、グーグル。
邪馬台国はどこにある?」
「邪馬台国は、東京都新宿区歌舞伎町に
あります」と即答してきた。

すぐに、古代史人工知能を相手に、古代史
論争をする時代が来そうだ。

しばらく、ブログを更新できなかった。
美しい紅葉の季節。
京都や奈良に遊んだ日もあるが、鈴鏡出土
古墳の位置を、各地の市町村に照会して、
教えていただいた。

また、群馬県内の前方後円墳の謎解きの
ために、縦1.5m、横2mの地図を貼り
合わせ、古墳位置と、前方部の方向線、
周囲を囲む人たちをプロットする作業を、
コツコツとやっていた。

この古墳の被葬者は、何氏族なのか?
どの古墳と親しい関係にあるか?
大きな地図で、推理を試みている。

古墳前方部が指す方向は、高い確率で、
重要な情報を示している。


大阪梅田阪急百貨店のクリスマス飾り
(2017年12月撮影)
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第一三六話 武蔵国造と上毛野君の本拠地

秋のバラ園とみんぱく(2017年10月撮影)
IMG_4228 (340x255)

今話テーマは、誰もが答えを知りたい謎。

ある日、古代史の神様がヒントをくれた。
「武蔵国造の本拠を探しているようだな。
諏訪を向く古墳を調べてごらん」

武蔵国造の古墳が、諏訪を向くだろうか。

出雲系氏族は、前方後円墳を造ることが
少ない。
そんな思い込みが、謎解きを難しくして
いたかも知れない。

早速、埼玉県内の古墳で、信州諏訪を向く
古墳を拾うと、次のリストができた。
136話埼玉地図最終
・行田市さきたま古墳群に、諏訪を向く古
墳はなかった。

・埼玉県北西部の児玉郡・大里郡に、諏訪
を向く古墳が4基集中する。
いずれも8期以降の後期古墳であり、8期
は雄略朝、9期は継体・安閑朝にあたる。

・諏訪湖周辺の前方後円墳は、1基のみ。
下諏訪町、青塚古墳(57m22度W 
9期)。

大阪千里万博公園内、みんぱく図書室で、
これら古墳について、書いている本に出合
った。

「北武蔵における古式古墳の成立」
(菅谷浩之著 1984年児玉町教育委員会)

「児玉町に存在する古式古墳の中でも、銚
子塚古墳と生野山16号墳の二基は重要
であり、双方とも前方後円墳である。
6世紀に入って築かれた古墳と考えられる
が、銚子塚古墳は鷺山(さぎやま)古墳
の系譜、生野山16号墳は、物見塚古墳か
らの系譜を辿る重要な意味を持つ前方後
円墳である(P.69)」

「最初に築かれた鷺山古墳は、4世紀第3
四半期前後と想定。
鷺山古墳の後が、金鑚(かなさな)神社古
墳と生野山将軍塚(5世紀前半)。
生野山9号、10号、14号(5世紀第3
~4四半期)。
生野山銚子塚(6世紀第1四半期)。
生野山16号墳(6世紀第2四半期)
(P.86)」

前方後方墳から円墳へ、そして前方後円墳
に移行したことがわかった。
同書には、これらの古墳を築いた勢力に
ついての記述がないのが惜しい。

次図は、児玉町・美里町・岡部町の古墳
周辺図。

136話児玉郡古墳周辺図画像

古墳を囲む人たちで、ブログ筆者が注目し
たのは、
鈴木氏・内田氏(物部氏族)
笠原氏(諏訪神族)
矢島氏(諏訪大神建御名方命後裔)

鷺山古墳は、秩父を経て富士山に向く。
1期は、彦狭島命や日本武尊より古い。
7期の美里諏訪山古墳も秩父を向く。

東国開拓の祖、高皇産霊尊の子、思金命の
子、天下春命につながるか、敬意を表して
いることは間違いない。

だが、8期以降、諏訪を向くのはなぜか。
諏訪氏族が中心になったと考えてよいか。

参考までに、諏訪湖周辺の件数。
 区分  笠原 矢島 鈴木 内田   
茅野市  35 210 70  20
諏訪市 180 120 40  10
下諏訪町 35 20  20   10
岡谷市 180 35  30   10

諏訪大社の神につながる人たちが、信濃国
から武蔵国に多数進出して、大河川地帯を
開発し、国造の地位を得たのだろうか。

埼玉県内の、笠原・矢島氏の分布をプロッ
トすると、笠原氏は、北部・西部の、秩父
市、深谷市、本庄市(児玉町を含む)、
小川町(笠原地名あり、笠原氏多数、
諏訪神社もあり)に多い。

一方、矢島氏は、さいたま市、東松山市、
熊谷市、川越市など、多くの市町村で
笠原氏の数を上回る。
さいたま市大宮神社周辺は、笠原氏より、
矢島氏が大きな集団をなしておられる。

<諏訪を向く群馬県の古墳>
調査範囲を拡げると、群馬県の古墳でも、
諏訪を向く古墳があるとわかった。
墳長100m超の大古墳も含まれる。
136話群馬地図最終
上毛野君の支配地域と考えていた群馬県内
に、諏訪を向く古墳が多いことは、ブログ
筆者には戸惑いだった。

リストの古墳を、個別に調べていった。
その際、正確さに欠けるが、池田・上野・
大野氏を毛野氏族、笠原・矢島氏を諏
訪氏族として検討した。

・御富士山古墳の周りは、毛野氏族と諏訪
氏族矢島氏の件数が拮抗する。
御富士山古墳へは、東松山市にある雷電山
古墳(5期84m35度W)前方部の延長
線上にあたる。
東松山勢力とのつながりが見えてくる。

・群馬町保渡田薬師塚古墳の周りは、諏訪
氏族の矢島氏15件が囲む。
(35年前のデータ)

・高崎市倉賀野町の小鶴巻古墳の周りは、
笠原・矢島氏が多数おられるのに対し、
毛野氏族は1件のみ。

<上毛野君の本拠は見えたか>
群馬県の大古墳を、諏訪氏族が囲む。
戸惑いがあるが、この事実は、受け入れる
しかない。

リストに登場しない、群馬県の地域はどこか。
前橋市と勢多郡の町村だ。
北橘村、赤城村→渋川市へ
大胡町、宮城村、富士見村、柏川村
→前橋市へ
新里村、黒保根村→桐生市へ
東村→みどり市へ

上毛野君は、このあたりに本拠をおき、
平野部に支配地を拡げていったのだ
ろうか。

「富士見村誌」(群馬県勢多郡富士見村
1954年)に、次の記述を見つけた。

「原之郷の九十九山に、あれだけの大古
墳を造ることができた人が、どこに住んで
いたのか、誰も知りたいところであるが、
明らかでない。(中略)
勢多郡には、古墳を造った頃から、上毛
野氏という豪族が住んでいたようである。
その住んだ土地は、荒砥村あたりでは
ないかと、私は思っている。(中略)
赤城神社は、この豪族が氏神として祀
ったものらしい。
この村の古墳も、この一族との関係を考え
てみる必要はあろう」 

(ブログ筆者注)九十九山古墳(60m
21度W)のある原之郷には、毛野氏族と
見る人たちがおられるが、諏訪氏族は
おられない。
同古墳の向く、渋川市中郷、吹屋には、
毛野氏族が30件おられる。

<おまけ:毛野氏族と諏訪氏族の勢力比較図>
136話毛野諏訪勢力図
・埼玉県内は、県北部と西部を除き、毛野
氏族が優勢。

・群馬県内は、毛野氏族の優勢は、赤城山
山麓地域に限られ、南部の平野部は、諏訪
氏族に浸食されている構図が浮かんた。

さらに加えると、物部氏族は、埼玉・群馬
両県のほとんどの市町村で、毛野・諏訪
勢力を圧倒している。

平野部における、各古墳被葬者の氏族名
判定は、古墳ごとの、コツコツ作業が必要
と思う。

<武蔵国造内紛とブログ筆者の結論>

安閑朝におきた、武蔵国造内紛事件とは
何か。

児玉町付近にあって、物部氏族と結んだ
笠原直使主(おみ)と、東松山市付近にあ
って、上毛野氏族と結んだ同族の小杵の
争いだったと見る。
これが、現在ブログ筆者が到達した答え。

根拠を求められるだろう。

注目は、東松山市北部の雷電山古墳。
古墳周りの姓氏プロットを進めていた際、
すぐ北側の大谷に、上野氏(上毛野氏族)
が複数おられた。
東松山市中心部や西隣の滑川町にも、
上野氏は多い。

また、この一帯は、建御名方命の御子、
池生命の後裔、諏訪氏族矢島氏の多い
ところ。

5期の雷電山古墳が、伊勢崎市の御富士
山古墳を向き、御富士山古墳が諏訪を向く
ことは、上毛野氏族と諏訪氏族の結びつき
が、この頃始まったと考える。

建御名方命の御子に、八杵命という方が
おられるので、小杵はその流れに従った名
だろう。

一方、児玉町の笠原氏は、物部氏族と結び
ついたと見た。
児玉町内をプロットしていたとき、ある家
が「笠原・鈴木」とあるのを見つけた。
両氏は、昔からつながっていたのだろう。

今話は長文になってしまいました。
ご愛読を感謝いたします。


総目次(第一話~第一三五話)

大阪千里万博公園花の丘(2017年10月撮影)

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総目次
• 第一三五話 埼玉古墳群の向くところ (09/16)
• 第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編) (09/03)
• 第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた (08/13)
• 第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか (07/19)
• 第一三一話 筑紫君への道 (06/20)
• 第一三〇話 葦分神社探訪記 (06/01)
• 第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏 (04/15)
• 第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2) (03/23)
• 第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1) (02/22)
• 第一二六話 八代の前方後円墳の主たち (01/29)
• 第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者 (01/04)
・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)







第一三五話 埼玉古墳群の向くところ

前話以来、鈴鏡出土古墳調べの日々。
中小古墳が多く、位置確認が難しい。

そんなある日、古代史の神様から一撃。
「関東古墳の謎解き、鈴鏡だけで終わり
か?」

「神様失礼しました。埼玉古墳群のことで
すね。
鈴鏡西関東編の前に書きます」
そんなわけで、今話は予定を変更した。

埼玉古墳群は、武蔵国造家(出雲臣氏族)
の内紛に勝利した、笠原直一族の奥津城
というのが、従来の通説のようです。

ブログ筆者は、過去に一度調べかけたが、
難解さに途中で放棄してしまった。

①古墳群の周りに、笠原氏や出雲臣勢力
と見られる人たちがおられない。
これはどうしたことか?

鴻巣市に笠原の地名があるので、根拠と
されるが、笠原におられるのは、鈴木氏
(物部氏族)と長島氏。

②被葬者を推定する物証として、稲荷山
古墳から金象嵌の鉄剣が出土している。
そこには、被葬者の祖名として「おおひこ
」とある。

大彦命は、孝元天皇とウツシコメノ命の間
に生まれた高名な武将。
おじのウツシコヲノ命は、穂積臣(物部氏
族)の祖であり、被葬者は出雲臣氏族で
はない。

③埼玉古墳群前方部の向きは、全て南西。
115度Wから142度Wで、荒川対岸
東松山市域の北中部を向く。

このため、東松山市域を、被葬者の本拠
と見て、あれこれ、頭を巡らす深みにはま
った。

今回はシンプルに考えよう。
そう決心して、取り組んだ。
次図は、埼玉古墳群を囲む人たち。

135話埼玉囲む人たち

古墳近くには、鈴木・内田氏(物部氏族)
と、大野氏(毛野氏族)。
出雲氏族はおられない。


次図は、8基の前方後円墳の向くところ。

135話埼玉向くところ

①出雲を向く古墳はない。

②大和国桜井茶臼山古墳
同古墳を向く、中の山古墳があった。
桜井茶臼山古墳は、大彦命墓と見ている。
前方部が細く低く長い形が特色。

東京都上野公園内の、すりばち山古墳も
(110度W)、桜井茶臼山古墳を向く。
なお、鈴鏡出土古墳では、長野県飯田市
上溝6号墳(10期120度W)が向く。

③熊野那智大社
鈴木氏は、穂積姓の物部氏族。
熊野から来たとされており、望郷の地。

大形古墳として知られる、群馬県太田市
太田天神山古墳(210m、5期、132
度30分W)や、浦和市塚本塚山古墳
(127度W)も、熊野那智大社を向く。

<ブログ筆者のコメント>
埼玉古墳群の向きは、本拠地を指すだけ
でなく、さらに高い見地から決めていた。

埼玉古墳群の被葬者は、出雲臣氏族の
武蔵国造家ではない。
大彦命、物部氏族、毛野氏族の血を受け
た人たち。

雄略6年、吉備下道国造前津屋一族70人
を、誅殺した事件を思い起こしてほしい。
雄略天皇は、物部の兵に旅の宿を乞わせ
て奇襲させている。

東国に対しても、大和支配を強めるため、
代々杖刀人の首を務めた一族の人物を、
送り込んだ。
それが、大彦命8代目のヲワケノ臣だと、
ブログ筆者は見る。

田中卓氏は、「邪馬台国と稲荷山刀銘」
(著作集3収録、1985年国書刊行会)
でこう書いている。

「古代武蔵豪族は、直姓であり、臣姓の
中央官人が東国に進出した。
大彦命後裔のうち、武将として活躍した
安倍臣と考えられる」と。

ブログ筆者は、安倍、安部、阿部姓分布
が、埼玉古墳群周辺に少ないことから、
穂積姓の物部氏族で、大彦命の後裔の
血を受けた人物と見る。

<笠原直使主と小杵の本拠は?>
この謎に、ブログ筆者は、まだ確信を得て
いない。
そのため、ヒントになりそうな情報を、
読者の皆様にお伝えし、古代史の神様が
教えてくださる瞬間を待ちます。

135話 参考情報再位修正

第一三四話 鈴鏡の遠交近交(東関東編)

鈴鏡は、何氏族が作り配ったのだろうか。

ブログ筆者が到達した、現時点の答えは、
「鈴木さん」。

太田亮氏によれば、
「鈴木氏:天下の大姓。穂積姓。
物部氏族。
熊野国造の族類とすべし」

鈴鏡文化圏を生んだのは、上毛野君でも
なく、武蔵国造笠原直でもなかった。


<謎解きのカギは、宇都宮市雀宮古墳に
あった>

134話雀宮牛塚

栃木県宇都宮市南部にある雀宮牛塚古墳。
全長57mの前方後円墳で、8期の築造と
される。
同古墳からは、全国最多四面の鈴鏡が出土
している。五鈴鏡一面と四鈴鏡三面。

被葬者は、鈴鏡の製造元に、近い人物と
考えてよいだろう。

鈴の付いた副葬品は、鏡だけでなかった。
鈴杏葉、三環鈴、鈴釧も出土しており、
「鈴の王」と名付けたい賑やかさだ。

同古墳は、多数の鈴木氏に囲まれており、
被葬者は、物部氏族以外に考えられない。
また、南方にある、古墳時代前期の前方
後方墳群も、同族と見てよいと思う。

ブログ筆者が特に注目したのは、同古墳
前方部の指す方向。
次図のとおり、173度Eの線に、東関東
の鈴鏡出土古墳が並んでいた。

134話鈴鏡出土古墳東部最終

鈴鏡をもらったのは、何氏族なのか、また
何故もらったのか、1基毎に調査を開始した。

134話石橋町御笹塚

この古墳周りに、鈴木氏はおられない。
上大領の地にあり、また上大領氏もおられ
るので、下毛野君氏が有力候補となる。

群馬県内の上野氏をプロットすると、石橋
町、南河内町(薬師寺あり)、国分寺町、
上三川町、小山市北端、真岡市が、下毛
野君の本拠地だとわかってきた。

北方にある、横塚古墳の向きは、「前方後
円墳集成 関東東北編」によれば、80度
W。
赤城山を指すが、この山は、毛野君の信仰
した山だ。

ではなぜ、下毛野君氏族が、鈴鏡を持って
いたのか。
ブログ筆者は、武蔵国造家の内紛に際し、
下毛野氏が、上毛野氏に組しなかったの
で、もらったと見る。

134話南河内町別処山

この古墳は、鬼怒川と田川の合流地点に
ある。
南河内町にありながらも、古墳周りには、
上野氏も、鈴木氏もおられない。

中心勢力と見られるのは、宇賀持氏。
宇賀持氏が何氏族なのか、太田亮氏は
載せていない。

近江国坂田宮のある宇賀野の地には、息長
氏族の大勢力がおられた。
それとも、藤原姓の宇賀神氏からきたものか。
このどちらかの勢力に対し、物部氏族が贈
ったと見る。

134話足利市機神山

中世に、足利氏は天下を取った。
本図を見ていると、清和源氏や桓武平氏を
支えた基盤に、関東の物部氏族がいたの
ではと思ってしまう。

この古墳の向きは、木曽御嶽山を経て、
敦賀の気比神宮に至る。

134話足利市助戸

この古墳は、鈴鏡二面を出土している
ほか、鈴杏葉が出土している。

雀宮牛塚から出土した三個の鈴杏葉と、
同形のもの。
愛知県志段味古墳からも、鈴鏡の他、
同形の鈴杏葉が出土している。

134話関城町上野最終

同古墳は、茶焙山古墳とも呼ばれる。
鈴木氏は、古墳から遠い。

古墳周りには、岩瀬氏と上野氏。
岩瀬氏は、「天津彦根命後裔の凡河内
氏族。三上氏同祖。」
この氏族が、物部氏に協力して行動し、
鈴鏡をもらったか。
それとも下毛野君がもらったのか。

134話北茨城市神岡最終

北茨城市海岸近くの円墳。
古墳の近くに、鈴木・内田氏の物部勢力。
また、丹氏もおられる。
「丹氏は、丹治、丹比の略称なり」「武蔵
七党の一」と太田亮氏は書いている。
前者ならば、宣化天皇の後裔氏。

134話君津戸崎古墳群

戸崎古墳群は、物部氏族と見て良いと
思う。

134話峰岡東牧

この古墳を築造した勢力は、物部氏族
と見て良いと思う。

西関東の鈴鏡出土古墳の調査結果は、
次話でいたします。

第一三三話 山津照神社古墳は宍粟を向いていた

<森 浩一氏の山津照神社古墳=近江毛野臣説>

2013年に亡くなった森 浩一氏。
著書に、「近江毛野臣は、山津照神社古墳
被葬者の、有力候補者」と書いていた。
「図説 日本の古代5 古墳から伽藍へ」
(1990年中央公論社)

根拠としては、次の三点を挙げる。
①古墳は6世紀前半のものと見られ、規
模や年代の点で矛盾しない。
②石室の作りに、九州的な石屋形が見ら
れる。
③主に東国に分布する、鈴鏡が出土して
おり、東国とのつながりを示す。

関西を本拠に活躍した森氏。
地元に、息長氏族の本拠地という伝承
が強いことは、承知のはず。
説の提唱には、何か感じられるものが
あったのだろう。

ブログ筆者は、森氏の説が、補強でき
るか証拠探しをすることにした。

山津照神社古墳の向きが、100度Wで、
近江毛野臣が没した対馬を向くことは、
支援材料になるだろう。

森氏は、近江毛野臣を、毛野氏族と考えて
いたようだ。

そのため、古墳周りに毛野氏族の人たちが
おられるか、調べよう。
次に、東国の鈴鏡が、毛野氏族の製造配布
したものか、出土古墳を確認しよう。

今話の謎解きは、想像を超えた発見に出会
うことになった。

<山津照神社古墳を囲む人たち>

133話山津照神社古墳を囲む最終

古墳周りに、北村氏(息長氏族)がおられない。

<高居氏>
山津照神社古墳を囲むのは、高居氏。
高居氏は、何氏族か。

太田亮氏は、姓氏家系大辞典の中で、
「高居氏:高井氏に同じ」
「高井氏: 1 高麗族 
 11 佐々木氏族。六角氏より分かる」
毛野氏族とする情報はない。

全国で、高居氏が多い町は、ここ近江町
と、和歌山県吉備町(現有田川町)。
共通点は、ともに鈴鏡が出土している
ことだ。

多和田には、高倉氏(海部尾張氏族)と
池田氏の集団があり、池田氏は、丹生川
沿いにもおられる。

<池田氏>
太田亮氏は、
「池田君:上野国那波郡池田町。
豊城入彦命の裔毛野氏の一族。
池田朝臣:上野の大族。毛野氏の族」
池田氏については、毛野氏の可能性が
ある。

<北村氏>
天野川から分かれた、丹生川沿いの
上丹生に、北村氏がおられる。
姓氏録に、息長丹生真人の名がある。
古代から、ここに息長氏族がいたことは
間違いないだろう。

ブログ筆者は、調査範囲を、横山古墳群
(長浜市)と息長古墳群(近江町)全域に
拡げることにした。

<横山・息長古墳群を囲む人たち>

133話横山息長古墳群を囲む人たち

<北村氏>
本図でも、古墳近くに、北村氏(息長氏
族)はおられない。
ただし、天野川河口付近に、大集団。

<邪馬台国を支えた諸氏族>
本図で存在が目立つのは、
武田氏(海部尾張氏族)、井関氏(魏国へ
の使者イセキ後裔)、加納・川瀬氏(紀直
氏族)、鈴木氏(物部氏族)など。

この氏族分布が、息長氏族の古墳と
判定しにくかった原因の一つだろう。

<池田・上野氏>
太田亮氏は、
「上野氏:毛野氏族 上毛野氏の事なり」

両氏は、毛野氏族の可能性がある。
上野氏は、柏原の津島神社付近にいて、
交通の要衝を押さえている。

ここまで調べたところでは、古墳周りに
毛野氏族がおられる可能性はあるもの
の、確証は得られない。
このままでは、古墳の主が、毛野氏族か
息長氏族か断定できない。

調査は、行き詰まった。

ブログ筆者は、3年前に、「改訂近江国
坂田郡志第1巻 1971名著出版)の
一部を、コピーしていたことを思い出し、
近江の資料袋から取りだした。

「第7章 新羅王子天火槍の吾名邑に来住
」に、
「天火槍は播磨国宍粟(しさは)邑、淡路
島出浅(いでさ)邑、近江国吾名邑に
暫住。
若狭国を経て但馬国に定住・・・」

前話では、対馬にとらわれていた。
もう一度、古墳の向きを調べよう。

最初は、北端の龍ヶ鼻古墳。
前方部の向きは、105度W。

パソコン画面上で、播磨国宍粟市に合致
した。
古代史の神様が、少し教えてくれた瞬間
だった。

次に山ヶ鼻古墳の向きは、135度W.
淡路島出浅(現洲本市由良町)に合致。
いずれも、天火槍の暫住地。

次々に調査した結果は、次図のとおり。

133話横山息長古墳群指す所最終

12基の古墳のうち、6基が暫住地・定住
地を向いていた。
これはもう、息長氏族の古墳と判定して
良いと見た。

例外について、ブログ筆者の意見を述べ
ておこう。

<能美古墳群>
筆者は、石川県小松市・能美市の古墳
群は、道君のものと見ている。
(第87話 道君の本拠、小松市河田町
2014年5月)

しかし、北村氏も、そこで大きな勢力を
持っている。
道君に受け入れられたと見る。

道君は、岡山から分かれた吉備氏族で、
大伴氏により引き立てられた。
息長氏―吉備氏―大伴氏の繋がりが
見えてくる。

継体天皇の子、宣化天皇の時代に、
大伴金村のもとで、吉備氏族の葦北国
造アリシトが働いた。

アリシトの子、日羅が呼ばれたのは、
息長氏の広姫を皇后とした敏達天皇。
敏達天皇の母は、宣化天皇の皇女。

<大荒比古神社>
琵琶湖対岸の高島市新旭町にある。
大荒比古神社の祭神は、豊城入彦命の
後裔、毛野氏族の祖、大荒田別命。

ここを向くというのは、偶然か、それ
とも息長氏族と毛野氏族の血のつな
がりによるのか。

ただし、大荒比古神社を祀るのは、毛野
氏族でも、大野氏の後裔。
大野氏は、近江町と長浜市域には、件数
が少ない。

<近江国安名邑=長浜市鳥羽上>
近江国坂田郡志は、長浜市鳥羽上の地に
ついて、こう書いている。

「西黒田村大字鳥羽上を、中古まで安奈村
と称せし記録あり。・・・この地、およそ
東西壱里、南北壱里、阿那郷と称す」

横山丘陵の、最も東深部の鳥羽上に、
入口を武田氏、井関氏、阿部氏に守ら
れるように、北村氏の集団がおられる。

ここが、天火槍の暫住地だった。

<今話の結論>
読者の皆様には、古墳の主について、
これまでのもやもやが少し晴れただろ
うか。
近江町と長浜市の主要古墳は、息長氏
族のものと見て良いと、今は思う。

天日槍が暫住した地は、倭人の新羅国
王家であった息長氏族と同族の、天氏
族の地だった。

例えば、淡路島の由良町には、武田・
竹田氏16件。
海部尾張氏の地だった。(45年前の
データ)

海部尾張氏の人たちは、近江国坂田郡を
含め、好意的だったが、出雲臣系の地
では、衝突があったようだ。

宍粟でも、3期の龍ヶ鼻古墳は、北村氏
のおられる地域に向いている。
9期の山津照神社古墳は、一の宮伊和
神社を向く。

出雲臣は、武蔵国造家でもある。
宣化天皇時代、武蔵国造家の内紛は、
息長氏に何をもたらしたのか。

近江国の暫住地には、相当な地位の身
内が残り、息長を名乗り、他氏族との
関係構築が進められた。

それが、氏族分布図に現れている。
武田氏が、山津照神社古墳近くにおら
れるのは、息長氏と婚姻関係にあった
証拠となる。

古代に、春日氏、武内氏、物部氏以外
で、豪族の女から直接立后できたのは、
尾張氏と息長氏のみ。

山津照神社古墳の被葬者は、敏達天皇
后となった広姫の父、息長真手王と見る。

広姫の母の名が未詳というが、母の出身
地が、息長陵のある村居田なのだろう。

鈴鏡出土古墳を囲む人たちの調査結果は
次話でいたします。

第一三二話 近江毛野臣の古墳はどちらか

筑紫君の謎解きを、磐井と対話した近江毛
野臣の古墳探しから始めよう。

継体天皇時代の近江に、今後の謎解きの鍵
を見つけたいと考えた。

<新修彦根市史第一巻(2007年彦根市
)は、野洲の林之腰古墳を、近江毛野臣
墓の可能性が高いと記す>

該当部分を抜粋すると、
「林之腰古墳は、全長90mという県内有
数の規模を誇る古墳であり、しかも前方
部が後円部の直径より幅広く撥形に開き、
馬蹄形の二重の周濠を巡らせている。

その形状は今城塚古墳と相似形を呈してお
り、大王またはその重臣級の古墳である可
能性が非常に強い。

近江に関する継体天皇の側近に、近江毛野
臣がいる。

毛野臣は、任那復興の失敗により帰国途中
、対馬で没したとされ、その亡骸は「日本
書紀」によれば「河の尋に、近江に」運び
入れられている。

近江で埋葬されたとすれば、この時期の
近江最大級の古墳が該当するはずであ
り、規模や墳形から、林之腰が近江毛野
臣の墓である可能性が高い。」

<林之腰古墳の築造時期は合致するか>

林之腰古墳の発見は、1996年なので、
「前方後円墳集成近畿編」(1992年
山川出版社)の編年表に登場しない。

「前方後円墳集成補遺編」(2000年山
川出版社)に掲載されたが、古墳位置を、
新幹線北側(実際は南側)としたり、
前方部の方向を90度W(実測値は98
度~100度W)とした点が惜しまれる。

築造時期について、地元の野洲市教育委員
会の見解は、変化している。

2001年には、「出土遺物から5世紀の
後半に築造されたと考えられる」(史
跡大塚山古墳・円山古墳・甲山古墳
調査整備報告書)としていた。

2006年には、「出土した埴輪から6世
紀前半の築造と考えられる」(史跡
大岩山古墳群・大塚山古墳調査整備報
告書)と変更している。

6世紀前半ならば、527年の磐井の乱と
時代が合う。

野洲の林之腰古墳は、形状と築造時期か
ら、最有力候補とわかった。

<ブログ筆者の出番はこれから>
近江毛野臣は、そもそも何氏族なのか。
太田亮氏は、武内氏族、羽田八代宿禰後裔
とするが、毛野に着目して、毛野臣と見る
説もある。

また、継体天皇や近江毛野臣が活躍した、
集成編年8、9期の他の古墳(例えば山津
照神社古墳を候補とする説もある。

これらを確かめたうえで、なお林之腰古墳
が候補に残っても、最後にクリアすべき謎
がある。

何故、物部氏と三上祝氏の繋がりが深い
野洲の地に、武内氏族の大古墳が築造さ
れたか、説明が求められるだろう。

ブログ筆者は、5枚の図を用意した。
さあ、これらの謎を解く旅に出発しよう。

<野洲古墳群前方部の指す方向>
132話野洲古墳群前方部方向最終

・林之腰古墳(9期)
実測値100度Wは、対馬を指す。
近江毛野臣が没した地だ。

・古富波山・大岩山・大岩山2番古墳
この3古墳からは、三角縁神獣鏡が出土し
た。
その間に、銅鐸が多数出土している。
銅鐸祭祀を行っていた人たちが、大和政権
に従属したことが、証拠とともに残る。

・前期古墳の、富波古墳は、宗像大社を向
き、冨波2号古墳は三上山を指しており、
旧来の信仰を捨てていないように見える。

・中期古墳(6期)の野洲大塚山古墳は、
全長72mで林之腰古墳に次ぐ大きさ。
前方部は、富波古墳を経て、韓半島漢城を
指している。
ただし、応神・仁徳朝の頃だ。

・林之腰古墳に先行する8期には、鴨稲荷
山古墳を指す天王山古墳(49m)と、彦
根荒神山古墳を経てはるか越後弥彦神社
を指す越前塚古墳(53m)がある。

鴨稲荷山古墳は、継体の父が住んだ三尾
の里に近い。

前方部は、継体の山背国筒城宮を指す。
継体とのつながりを示す古墳だ。

越前塚古墳は、日本武尊と初代安国造の
女、フタジヒメの間に生まれた、稲依別王
の墓、荒神山古墳を指している。

・10期の穴蔵古墳は、南東の雪野山古墳
(3期)を指している。
雪野山古墳は、日子坐王と三上祝の女、息
長水依媛の間に生まれた水穂真若王(アワ
ミ)の墓と見ている。

<野洲古墳群を囲む人たち>
132話野洲古墳群囲む人たち最終

・意外なことは、三上氏が、三上山近くよ
りも、近江八幡市との境に集まっておら
れたこと。
これはどうしたことだろう。

・南西の新川神社は、物部氏族が囲む。
三上祝の女が、2代続けて物部氏に嫁して
いることから、想像したとおり、物部氏族
の多い地域となっている。

・しかし、数の多さと広がりは、武内氏族
が一番だ。
ブログ筆者には、後から入り込んだように
感じられるが、どうだろうか。

・富波の前期古墳近くに、岩井氏の集団。
太田亮氏によれば、岩井氏は物部直氏族。
武蔵一宮の神官家が岩井氏。
物部臣でなく、武蔵国造家一族と、太田亮
氏は書いている。

さすれば、出雲臣系の祝氏族か。
真実を知っておられる人たちだ。

<近江国南部主要古墳の指す方向>
132話近江国南部主要古墳方向最終

この図から、文献では得られない何かが見
つかるだろうか。

・ブログ筆者は、琵琶湖西岸の西羅1号墳
に注目した。

50mの中期古墳の向きは、野洲と線が
往復している。
西羅1号墳を囲むのは、三上氏と北村氏
(息長氏族)。
狐塚3号墳からも、線が伸びてくるが、水
穂真若王の兄、丹波道主王後裔が治め
た地。

湖西の近淡海国造(古事記)と湖東の淡海
安国造がある謎は、同族であると知れば、
解決する。

・湖南の古墳が指す方向は、大神神社、
宇佐神宮、四国西予2代女王イヨの地
など、邪馬台国勢力の地を指している。
瀬田唐橋東岸には、宗像氏族の深田
氏の大集団がおられる。

・本堅田の春日山1号墳は、海岸に春日、
竹内、北村氏がそろう。
大阪府高槻市の今城塚古墳(継体陵)付近
を指す。
春日山1号墳と今城塚古墳は、北村氏が多
い点が共通する。

・東部の雪野山古墳は、水穂真若王の墓と
書いた。
丹波を攻略した日子坐王の子、丹波道主王
が、丹波大県主に対抗して、網野銚子塚古
墳を築いたように、近江を任された水穂真
若王が、安土瓢箪山古墳の主に対抗して、
雪野山古墳を築いたと見る。

・彦根の荒神山古墳は、21世紀に入り
発見された大古墳。

犬上郡を押さえていた天津彦根族が、安国
造の女と日本武尊の間に生まれた稲依別王
に領地を譲ったと見る。

荒神山古墳近くには、建部氏が4件。
犬上君と建部君が後裔だ。
ただし、犬上郡は、荒神山古墳のある宇曽
川と愛知川の間を除いては、北村氏と竹内
氏が大勢力を占めている。

これは、神功皇后と対抗した、忍熊王側の
将軍に稲依別王後裔の倉見別がついて
敗死したため失ったと見る。

そして、野洲地域に、武内氏族が多いの
も、この戦いの後と見る。

安国造家の女と羽田八代宿禰の間に近江
臣が生まれ、後裔が近江毛野臣と見る。
(系譜参照)

<近江国北部主要古墳の指す方向>
132話近江国北部最終

本図は、拾いもれがないよう、念のために
作成したもの。
すると、8、9期の前方後円墳で、かつ
対馬を指す古墳が、2基出てきた。

坂田郡の山津照神社古墳(9期100度
W45m)と、高月町の横山神社古墳
(8、9期100度W32m)。
山津照神社古墳は、近江毛野臣墓説が
ある。


132話近江臣の系譜最終


第一三一話 筑紫君への道

(長岡天神参道:道真が配流の途中寄った地)2017年4月撮影
IMG_3805 (340x255)

(太宰府天満宮:道真の眠る地)2017年5月撮影
IMG_4064 (340x255)


第一二三話で予告した、「筑紫君への道」
の執筆に、取り掛かる日が来た。

ブログ筆者にとって、筑紫君は謎の塊に
見える。
謎と感じるところを、思いつくままに挙げる。

<近江毛野臣>
最も有名な対話シーンだ。
近江毛野臣は、筑紫君イワイの友か、それ
とも伴か?
何故、新羅遠征を、言い含められ止めたか?

「伴」の文字が使われているのに、解釈書
はどれも友と訳しているが、部下だった
のではないか?

太田亮氏の「姓氏家系大辞典」は、近江毛
野臣を、武内宿禰後裔羽田臣氏族とする。
しかし、物部氏と関係が深い、近江の野洲
に葬られたとされるのは何故か?

近年発見された、林の腰古墳は、その墳墓か?

前方後円墳集成補遺編(山川出版社)に従
えば、方位は西。
彼が活躍しそして失敗した、日本府のおか
れた安羅国を指している。

<肥前を向く筑紫君一族の古墳>
石人山、石戸山等、筑紫君一族のものと
見られる前方後円墳は、殆どが前方部を
西の肥前国に向けている。

筑紫君のルーツを指しているのではないか?
初代筑紫国造、田道宿禰の名を負った、
田道ヶ里が肥前国神埼にあるが、関係ある
のか?

<筑紫火君・火中君>
筑紫君の子とされる、筑紫火君・火中君の
本拠地はどこか?
鳥栖、山鹿で良いのか?

<安倍氏と筑紫君>
安倍氏と同祖とされるが、どう系譜がつな
がるのか?
大彦命の子、タケヌナカワワケ命の後裔
なのか?

<肥筑豊に築いた大勢力>
肥筑豊に大勢力を誇ったとされる筑紫君。
どのような氏族が結びつき、支えたのか?

<筑紫君は筑紫倭王なのか>
白村江の戦いに先立ち編成された、倭国遠
征軍の中に、筑紫君の名は見当たらない。

超越した存在だったのか?

これらの謎に、どこから、どのように取り
組めば良いのか。
何を手がかりにすればよいのか。
ヒントは見つかったか。

この数年間、遠回りを重ねてきて、「いま
書き出さずしていつやる」という条件が
そろった。

「筑紫君への道」とは、筑紫君が肥筑豊に
またがる大勢力に成長していった道であ
り、また、ブログ筆者が、筑紫君の真相に
迫る道でもある。

第一三〇話 葦分神社探訪記

(大阪府茨木市の葦分神社)
130話葦分神社正面額写真
130話 葦分神社拝殿燈籠写真

前話に登場した葦分(あしわけ)神社を、
ブログ筆者は訪ねた。

同神社の所在地、茨木市島1-1-21。
祭神は、天照大神。

旧村名では、宮島村の北辺にあたる。
宮島村は、南を安威川が流れ、北は玉櫛村
と溝咋村に接していた。
同神社敷地は、玉櫛村に食い込んでいる。

溝咋村は、三島溝咋耳。玉櫛村は、溝咋耳
の子、玉櫛彦と玉櫛媛ゆかりの地。
玉櫛村の東奈良遺跡からは、銅鐸鋳型が出
土しており、青銅器が作られ、各地に供給
されていた。

神武天皇の皇后を出した、三島縣主の勢力
圏に隣接して、集落を築いたのは、どんな
人たちか。

<葦分神社を囲む人たち>
葦分神社を囲むのは、ブログ筆者が中心と
見る武田氏(海部尾張氏)を別にすれば、
西島氏が目立つ。

西島氏は、太田亮氏の著作によれば、
「①藤原姓 ②秦河勝後裔の名族」と
ある。
茨木市は、前に書いたが、藤原・中臣氏族
の聖地だ。
(第73話:継体陵はどちらか 
第74話:伝継体陵は雷大臣命  
2013年8月)

葦分神社東隣にある、葦分神社東方遺跡。
茨木市教育委員会の発掘調査概要報告書を
見ると、同神社を中心に、平安時代中期
(11世紀中葉頃)に集落が成立したもの
と思われるとある。
古代については、推測するしかない。

<大燈籠の寄進者:岸本氏>
神社入口に、大きな燈籠が二基。
天保年間、吉志部東村の岸本藤助さんが、
願主として寄進したとわかる。
岸辺の地名は、葦分神社南西、約4キロ離
れた吹田市域にあり、今も岸本氏が多数住
んでおられる。
信仰した人たちは、現在の氏子の範囲より
広がっていたとわかる。

岸本氏がどんな人たちか、良く教えてくれ
るのが、島根県雲南市加茂町神原。
神原神社を中心に、速水氏と共に、岸本氏
が囲む。
速水(はやみ)氏が、ニギハヤヒ命(海部
尾張氏の祖)の後裔と見れば、岸本氏は、
大物主を囲む人たちだった。

<葦分神社参拝線は、亀岡出雲大神宮を指す>
葦分神社の参拝方向は、N2度E。
京都府亀岡市にある出雲大神宮を指してい
る。

葦分神社を支えた人たちは、海部尾張氏を
中心として、取り巻く岸本氏、中臣氏族の
人たちであったと見る。

第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏

(クイーン・エリザベス号神戸来航)2017年3月撮影
エリザベス号 (278x370)

前話では、肥後国浄水寺の大檀那、真上氏
が、何氏かわからないままに終わった。

このまま、ほっとくわけにいかない。

筆者は、近くのケーキ店、「プチ・プラン
ス」茨木舟木店で、半焼チーズ・ショコラ
(1個120円)を買ってきて、口に頬張
りつつ次の作戦を立てた。

スイーツの効用か、次々にヒントが見つかった。

<ヒント1:宇佐神宮間近に真上さん発見>
第125話に、宇佐神宮上社を囲む中山氏
の図を載せた。
データを改めて追いかけると、何と中山さ
ん達よりもさらに社殿間近に、真上さんが
おられた。
次図は、真上さんを書き加えたもの。

129話中山氏

宇佐女王を、アマミクの後継者とすれば、
真上氏は、男子王の武田氏(海部尾張
氏)の位置にくる。
真上氏は、海部尾張氏ではないかと、筆者
は考え始めた。

<ヒント2:小隈野の在地領主舛田氏>
二つ目のヒントは、妙見神が鎮座した小隈
野から見つかった。

鎌倉時代、小熊野村の在地領主に、徳王丸
西仏という人物がいた。
後継氏は、舛田氏と云い、代々用水管理を
司ったという。
出典:「肥後国南部における地域社と領主
権力」
(村上豊喜氏 1988年熊本史学64・
65合併号)

舛田氏のデータは、全国900件。
1位 広島県125件
2位 熊本県90件 宇城市が最多18件
で全て豊野町。
次図は、舛田氏をプロットしたもの。

129話小隈野時代支えた氏族図
129話小隈野時代支えた下半分図

城南町藤山では、武田氏の間に挟まれて
いる。
豊野町山崎でも、武田氏のすぐ近くにおら
れる。

そして、太田亮氏の、姓氏家系大辞典は、
「舛田氏 越後弥彦社上條神官にあり」。

弥彦社は、海部尾張氏の祖神を祀る。
海部尾張氏が、浄水寺・妙見神の支援者で
あった可能性が高まった。

<ヒント3:長田王の巡察地>
奈良時代初め、長田王という人物がいた。
734年、朱雀門で歌垣が催されたとき、
王は頭となり、「風流人」と、続日本紀に
書かれている。

筆者の推測では、長田王は、長皇子(父:
天武天皇、母:天智皇女大江皇女)の子
で、690年頃?~737年卒と見る。
万葉集に、和歌数首が選ばれている。

神亀元年(724年)~2年(725年)
頃、大宰少弐石川君子の同行を受け
て、肥薩国境を巡察した時の和歌。

720年に、大隅国司が殺害される事件が
起こり、大伴旅人が大将軍となって隼人を
鎮圧。
724年3月には、陸奥国で蝦夷の反乱が
起こり、藤原宇合が大将軍となって鎮圧に
向かった時期。

長田王の作れる歌一首
「隼人の 薩摩の迫門(せと)を 雲居な
す 遠くも吾は 今日見つるかも」

長田王、筑紫に遣さえて 水島に渡りし時
の歌二首
「聞くがごと まこと貴く 奇しくも 
神さびをるか これの水島」
「葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 
水島に行かむ 波立つなゆめ」

石川大夫、和ふる歌一首
「沖つ波 辺波立つとも わがせこが
御船の泊り 波立ためやも」

長田王を乗せた船は、葦北の野坂の浦を出
て、八代の水島に向かった。

野坂の浦の比定地は、過去論争があった。
田浦町(現芦北町)は、同町田浦とする。
熊本県は、南方の佐敷・計石とする様子。
次図は、二つの候補地。

129話野坂浦候補地

田浦とすれば、出迎えたのは、武田氏(海
部尾張氏)となるが、佐敷・計石とすれ
ば、三島氏となる。
田浦は、奈良時代の宝亀年間に、郡司と
なった檜前氏の、後世までの根拠地。

水島は、八代市球磨川河口の小島。
第126話に登場した、鼠蔵島の南。

129話楠木山古墳周辺図
129話八代市小島

景行天皇が巡幸した際、水が見つかったと
いう伝説の島。
景行天皇を出迎えた人たちとは、鼠蔵島に
楠木山古墳を築いた、海部尾張氏の人たち
だったろう。

風流人の長田王は、自らを景行天皇に見立
て巡幸を再現しようとしたに違いない。
同行した太宰少弐石川君子も、王の意図
に気付き、御船と詠んで王を喜ばせた。

撰者の大伴家持は、長田王の和歌に込めら
れた趣向の面白さに気付き、万葉集に入れ
たと見る。
そう、水島で長田王を迎えた人たちは、景
行天皇を迎えた人たちの後裔、海部尾張氏
であったろう。

<ヒント4:葦分神社>
国造本紀では、葦分国造と書かれている。
文字が同じ、葦分(あしわけ)神社が、筆
者の住む大阪府茨木市南部にある。

神社のすぐ側に、武田氏がおられる。
肥後の葦北も、元は海部尾張氏が支配者
だった証拠か。
また、阪急京都線をはさみ、竹原氏が11
件おられる。(45年前のデータ)

吉備国には、大和朝廷軍の吉備津彦兄弟が
攻め込み、弟の稚武彦命が統治者となる。
肥後葦北国も、元は海部尾張氏が支配して
いたが、兄の大吉備津彦の子孫(日羅一族
)が支配することになった。
八代は、神八井耳命の後裔が、支配するよ
うになった。

これが、歴史の真相と筆者は見る。

次図は、宇城市松橋町の松橋大塚古墳を
囲む人たちの図。

129話松橋大塚古墳囲む人達

いまヒントを得て、改めて見ると、中山氏
、中本氏(ニギハヤヒ命近親者)、紀直
氏族の集団が囲んでいる。

筆者は、同古墳被葬者は、海部尾張氏と
いう確信に達した。

第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2)

(万博公園の春景2017年3月撮影)
IMG_3514 (278x370)

大阪千里万博公園内に、みんぱく(国立民
族学博物館)がある。

本館展示室と、特別展「世界のビーズ」を
見た。
人間は、世界のどこにあっても、衣服や飾
り物を作り続けてきたと知らされる。
特に、神官たちは、特別あつらえの衣装を
身にまとい、大きな首飾りや腕輪を付けて
いる。

信仰が継続するには、神官たちの衣食住の
保証が欠かせない。
このためには、支援者が必要だ。

八代妙見神社群のなぞ解きの第二話は、
初期に妙見神を支援した氏族探しをテー
マとした。

<寄港地・植柳(うやなぎ)妙見宮を囲む人たち>
128話植柳神社周辺図

同社は、八代市植柳元町に鎮座する。
妙見神は、白鳳9年(681年)に、大陸
から来朝し、植柳の津に寄港したとされ
る。(妙見宮縁起)

植柳妙見宮を囲む人たちの中で、注目する
のは、武田氏と淪氏。
武田氏は、海部尾張氏族。
この地で支援したのは、海部尾張氏族であ
ったろうと、筆者は見る。

淪氏は「さざなみ」とお読みするらしい。
姓氏辞典では、熊本県の名家で、八代市に
多いとされる。
太田亮氏の、姓氏家系大辞典に、淪氏はな
いが、同じ読み方で、「楽浪(さざなみ)
氏」が記載されている。

「百済族にして、楽浪河内という人あり。
神亀元年に姓を高丘(たかおか)連と賜う。
近江朝、百済より帰化せし沙門詠の子也」

高丘といえば、桓武天皇の孫で、皇太子を
廃された高岳(たかおか)親王(794~
865?)がいる。
出家して空海の弟子になり、862年に
入唐。
さらに天竺を目指したが、途中でなくなっ
た人物。

皇太子を養育した氏族とすれば、百済でも
特に高貴な血筋か。
寄港した妙見神が、百済王族の可能性を
示す人たちだ。

<上陸地・竹原神社(妙見宮)を囲む人たち>
128話竹原神社周辺図

同社は、八代市竹原町に鎮座する。
祭神は、天御中主命。
妙見神は、この地に、三年滞在したと伝わる。

同社を囲む人たちの中で、注目したのは、
三島・三嶋氏。
吉川氏は、筆者がいつも書くように、三島
氏の護衛隊なので、三島・三嶋氏(葛
城直氏族)が支援したと見る。

竹原神社の参拝方向は、北東N30度E.。
今回の新たな発見は、城南町陳内の甚九郎
山古墳を指していたこと。
これに気付いたのは、妙見神が、竹原から
遷座した益城郡小隈野に、下郷神社があり
、その参拝方向が甚九郎山古墳を指してい
たからだ。

竹原の支援者、三島氏から、次の小隈野の
支援者を指して、竹原妙見宮は建てられた
と見る。

<小隈野鎮座時代の支援者を探せ!!>
妙見神は、小隈野に、80~90年鎮座し
たと伝えられる。

幅があるのは、八代横嶽(上宮地)に遷座
した時期について、二説があるからだ。
天平宝字2年(758年か、宝亀2年(7
71年)か。
どちらであるかにより、小隈野を去って
八代横嶽に遷座した理由が、異なって
くるだろう。

少なくとも、3世代以上という時間を支援
した氏族探しを、読者の皆様と共にやっ
てみよう。
ドロ-ンで調査するかのように、判定に有
益と思われる情報を盛り込んで、次図を
作成した。

128話小隈野時代支えた氏族図
128話小隈野時代支えた下半分図

<小隈野>
浜戸川の支流に、小隈野川があり、豊野町
(現宇城市)を流れる。
薄灰色の楕円が、小隈野時代を過ごしたと
見られるエリア。
ここには、妙見神ゆかりの三神社がある。

その三社の正面線と参拝方向線を引いたと
き、支援者の謎が解け始めた。

<白木神社>
現在は阿蘇大神を祀る、同社の正面線は、
旧浄水(きよみず)寺址の下郷神社を貫き
、さらに松橋町(現宇城市)の松橋大塚
古墳を指していた。

白木神社は、浄水寺の檀越と松橋大塚古墳
の被葬者につながると見てよいだろう。

<小隈野神社>
祭神は、天御中主命であり、元妙見宮と称
したことが、下益城郡誌(501頁)に記
されている。
筆者が驚いたのは、小隈野神社もまた、
正面線が松橋大塚古墳を指していたこ
とだ。

松橋大塚古墳被葬者の氏族が、妙見神を支
えていた証拠だと見る。

<下郷神社>
祭神は、イザナギ、イザナミ、大三輪神等。
下益城郡誌は、「元浄水寺の鎮守山王社た
りしを、維新後社格を得て始めて現社名を
附せしものならん」とする。
下郷神社の参拝方向は、北北東N10度E。
これは、白木神社の正面線N80度Wと、
直角に交差する。

指している先は、城南町陳内の甚九郎山古
墳。
前述のとおり、八代市竹原神社と豊野町下
郷神社の参拝方向線が、甚九郎山古墳で
重なる。

<宮原三神宮>
本図の南方、氷川の南岸に鎮座する宮原
三神宮も、妙見神ゆかりの神社。

同社は、平家全盛の平治元年(1161年
)に、八代妙見宮中宮と共に造営された
と伝わる。
同社の参拝方向(N)がどこを指すのか、
第一二六話で氷川流域の古墳周辺図を
作成した時点では、わからなかった。

今回、豊野町の二つの神社の正面線が、
松橋大塚古墳をさしていると判明した。
改めて計測した結果、宮原三神宮もまた、
同古墳を指していた。

この発見も、筆者にとって驚きだった。
平家一門が、妙見神創祀の経緯を、良く知
っていて、社殿の方向を定めたと見る。

<二古墳の被葬者の氏族が、妙見神の支援
者>
「古墳と神社の向きは、嘘をつかない」と
いうのが、これまでの教訓だ。

神社群の指す方向から、上記の二古墳の氏
族が、初期妙見神を支援していたと、筆者
は確信するに至った。

二古墳の被葬者については、前々話までに
、判定している。
甚九郎山古墳は火君氏族(第一二四話)。
松橋大塚古墳は大神氏族(第一二五話)。

この判定は、そのままで良いだろうか?
参考にすべきは、下郷神社の敷地に残る、
浄水寺四石碑の一つ、燈籠碑(延暦20年
801年)の銘文。
「奘善和上  御願造奉  燈楼一基 延
暦廿年 七月十四日 真上日乙  肥公
馬長 化僧薬蘭」
ここに刻された、真上氏と火君氏が、80
1年には、同寺の大檀越(支援者)で
あったとわかる一級資料だ。

ただし、浄水寺が完成したのは、延暦九年
(790年)頃であり、既に妙見神は、
小隈野を去って、八代に再遷座していた。
浄水寺完成5年後の795年、桓武天皇に
より、妙見神は国費で、上宮社殿が造営
される。

浄水寺檀越の真上氏とは何氏族か?
燈籠碑では、肥公より先に名前が書かれて
いる。
寺領をより多く提供したか、それとも官位
が上位か?

豊野村史(1991年)は、真上氏につい
て、こう書いている。
「浄水寺碑文に、肥公の名前が見えること
から、火君一族の援助のもとに寺が建てら
れたと考えてよい。
碑文にあるもう一人の援助者真上日乙につ
いては、浄水寺の位置が大野川の上流に
あたっている点を考慮し、豊福郷か小河郷
の郷長であろう」と、推測している。

果たして、筆者が作成した図から、同じ判
定が出るだろうか?

松橋大塚古墳は、大野川流域を勢力圏とし
た人物と見られるが、何氏族か?
古墳の周りには、海部尾張氏族、紀直氏族
、大神氏族等が集まる。
共通するのは、ニギハヤヒ命(大神)を奉
戴する人たちであること。
同古墳を指す、小隈野神社の参拝方向線は
、N118度Eで、日向一宮の都農神社を指す。
三輪(大神)氏が、大集団を形成している
地だ。

苦しいときは、太田亮氏頼み。
姓氏家系大辞典によれば、真上=真髪=
もとは白髪部(御名代部の一つ)。
真髪を名乗った氏族は、鴨県主氏族、吉備
氏族、出雲臣氏族、ニギハヤヒ命の後裔氏
族等があり、特定氏族と断定できない。

さらに、肥後の真髪氏として、「天長10
年(833年)肥後国葦北郡真髪部福益
云々。各々私物を輸して飢民を滋ふを
以って也」とある。

天長10年(833年)といえば、浄水寺
が定額寺に指定された天長5年(82
8年)に近い時期だ。
日羅の本拠、芦北郡の人物が、浄水寺や妙
見神の支援者だったのだろうか?

松橋大塚古墳被葬者の氏族については、大
神氏族か、海部尾張氏族か、又は紀直氏
族か、判定がまだ揺れる。

第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1)

前話では、八代の前方後円墳の主を、火君
とあっさり判定した。

その後、筆者の関心は、八代の妙見神社群
に向かった。

筆者は、「能勢妙見は、源氏の祖・多田満
仲の鎮守とぞ」と教えられて育った。
関東の相馬、千葉等の妙見宮は、桓武平氏
の信仰したところ。

八代は、妙見神が最初に上陸したとされる
、妙見信仰の本拠地。

その八代妙見神社群が、どこを指して建て
られているのか、確かめておきたかった。

読者の皆様には、八代妙見神社群の位置
図を見ていただく。

127話八代妙見神社向かう先


次図は、各神社の指すところと、妙見神の
遷座の歴史を書き加えたもの。

127話八代神社向かう先最終予備

本図を完成させたとき、ブログ筆者は大い
に戸惑った。

植柳妙見宮(寄港地)の参拝方向線と、八
代妙見宮の正面線が、南西の日羅を祀る
百済来(くだらき)地蔵堂で重なった。

妙見神と日羅はつながっていたのか?
いやこれは偶然か?


もう一つの驚きは、竹原神社(上陸地)と
八代妙見宮の参拝方向線が、指すところ
だった。

城南町の宮地および陳内の二ヶ所。
益城町の古閑・福富付近。

過去の、益城国府論争に登場した、3つの
候補地を向いていた。

昨年の夏、九州の大地図を八畳間サイズに
貼り合わせて作り、全前方後円墳の位置と
前方部の方向線を記入した。
その図に、今回書き加えてみると、益城町
の福富にある妙見神社に行き当たった。

隣には、妙見川が流れており、神社を豊田
氏が囲む。

豊田氏について、太田亮氏は、姓氏家系大
辞典で、「天御中主命の後裔と称す」と記
している。
天御中主命とは妙見神だ。


さらに、もう一つの驚きは、球磨川南岸の
遥拝(ようはい)神社だった。

妙見神を祀ってはいないが、同神社の正面
線は、浅井神社(寄港地)と八代妙見五社
の一つ、松崎神社を貫いて、百済国王都
扶余を指していた。

遥拝神社は、日羅と妙見宮を繋ぐものか?

次々に現れる謎。
筆者は、この謎ときに、本気で取り組むこ
とにした。

まず追いかけたのは、日羅や檜前氏後裔。
さらに、各神社を囲む人たちだった。
                     (つづく)

第一二六話 八代の前方後円墳の主たち

熊本県八代市の前方後円墳は、旧鏡町の有
佐大塚古墳を別にすれば、次図のとおり、
川田町、上片町付近に集中する。

126話 八代前方後円墳周辺図

古墳を囲む人たちには、園田氏(火君氏族
)を除けば、前方後円墳の主となる氏族は
おられない。
これらの前方後円墳の主は、火君一族と見
て間違いない。

「八代大塚古墳」(1993年熊本県教育
委員会)は、こう書いている。

「中核となるのが、全て前方後円墳から成
っている、大塚古墳群で、長塚(消滅)、
八代大塚、茶臼山、高取上の山が順に
北から並んでいる。

大形古墳が多く、茶臼山古墳は全長100
mを超えると推定され、この古墳群が八代
平野の最有力者の墳墓群と考えることが
できる」(P5)

あまりに、あっさりと答えは出た。
それでは、氷川町(旧竜北町)の野津古墳
群と、八代の古墳群は、どちらが先に築造
されたのだろうか。

<熊本県南部の前方後円墳編年表>
次表は、整理のため、ブログ筆者が作成し
たもの。

126話熊本南部古墳編年表

「前方後円墳集成」(1992)では、野
津古墳群を6~7期、八代古墳群を
7~8期とする。

しかし、「新宇土市史」(2003年)は
、八代古墳群を5~6期とする。
新宇土市史の説を採れば、八代が火君の
本拠地となる。
どちらが正しいのだろうか。

<八代市鏡町有佐大塚古墳>
ブログ筆者は、第一二三話において、同古
墳被葬者の判定を保留していた。
次図は、氷川流域の古墳周辺図。

126話氷川流域古墳周辺図

有佐大塚古墳の主は、野津古墳群と同じ火
君なのか、それとも異なるのか。
これは、かなりの難問だった。

・氷川流域で捉えれば、野津古墳群の数と
大きさは圧倒的なので、火君か?
・いや、有佐大塚古墳周りに、園田氏(火
君氏族)が全くおられないぞ。
・有佐大塚古墳の場所は、貝塚上で、築造
当時は海岸線。
そこに、火君が造るだろうか?

・野津古墳群は6~7期築造とされる。
有佐大塚古墳は4期で、宇土半島基部の主
要古墳群と同じ時期。
これが火君の古墳とすれば、火君最古の古
墳となるが、それでよいのか?

この謎ときには、時間がかかった。
八代の本当の謎があって、それが判定を困
難にしているのではないか、と考えた。
本当の謎が、茫洋と見え始めた時、答えが
現れた。

同古墳を囲む人たちを、丹念に見ると、小
島氏が多いと気付いた。
小島氏は、どんな人たちなのだろう。

答えを導いたヒントは、「前方後円墳集成
」の編年表の中にあった。

円墳だが、3期に楠木山古墳、4・5期に
大王山1号・2号墳が記載されていた。
重要な円墳と見られたから、記載されたに
違いない。
筆者は、これらの古墳の調査に移った。

<楠木山古墳>
同古墳は、八代市を流れる球磨川の河口に
ある。
干拓以前は、海に浮かぶ小島であった。
次図は、同古墳の周辺図。

126話楠木山古墳周辺図

同古墳を囲むのも、小島氏だった。

大鼠蔵山と小鼠蔵山には、鼠蔵(そぞう)
古墳群がある。

「楠木山古墳は、前期様式の竪穴式石室を
持ち、碧玉製紡錘車と古い形式の土師器が
出土しており、築造年代は、4世紀と考え
られる。
八代平野南部では、最も古い古墳として注
目される。」(「八代大塚古墳」1993年)

<大王山古墳群>
もう一度、氷川流域の古墳周辺図を見てい
ただきたい。

同古墳群は、旧宮原町早尾にある。
1号墳は、大王山山頂付近、2号墳は横穴
式石室、3号墳は竪穴式石室で舟形石棺。
築造時期は、有佐大塚古墳とほぼ同じ。
そして、近くに小島氏がおられた。

あらためて、小島氏とはどういう人たちか?
全国データでは、
1位  愛知県 4800件
2位  神奈川県 3700件
3位  埼玉県   3600件

九州沖縄データでは、
福岡県 750件  長崎県 660件
熊本県 420件  鹿児島県 250件
佐賀県 200件  大分県  150件
宮崎県 100件  沖縄県   15件

ブログ筆者は、次の町の小島氏に注目した。
①高知県宿毛市平田町
次図は、第一二五話で中山氏の説明に登場
した図を、拡大補筆したもの。

126話小島氏宿毛平田町最終

曽我山古墳を、びっしり取り囲む小島氏。
波多国造本拠地で、武田氏(海部尾張氏族
)が首長と見る。

②高知県高知市長浜
太平洋に面する高知市の長浜海岸には、
武田氏70件が集中する。
小島氏は、西に隣接する春野町に70件。

③長崎県対馬市
小島氏240件は、1位の阿比留氏(津島
国造後裔)450件に次ぐ、2位。
北端の上対馬町鰐浦から、美津島町、厳原
町まで、広く分布する。

④福岡県朝倉市
八代市・氷川町の真北に当たる、朝倉市小
田、小隈は、有名な平塚川添遺跡に極め
て近い場所。
ここに2つの前方後円墳がある。

小田茶臼塚古墳(6期55m)は、N17
度Wで前方部は、宗像大社を指す。
神蔵(かんのくら)古墳(1期40m)は
、N47度Wで、志賀島を指す。

古墳の主は、高倉氏(海部尾張氏族)又は
高木氏(紀直氏族)と見られるが、小島氏
40件が古墳を囲む。

⑤愛知県一宮市
同市の中心部に、尾張国一宮の真清田(ま
すみた)神社が鎮座する。
祭神は、尾張氏の祖神、天火明命。
ここを中心に、江南市、犬山市を含めて、
約1000件の小島氏。

⑥名古屋市南東部、知多半島基部
名古屋市の小島氏総数は、約1200件。
緑区190件、天白区150件、南区120件。
南に隣接する東海市400件、知多市130件。

緑区大高町には、尾張国造館跡の火上姉子
神社があり、ここを中心に、小島氏約11
00件が集まっている。

ブログ筆者は、ようやく確信を得た。
小島氏は、対馬では倭国の防衛に当たり、
朝倉においては、邪馬台国防衛の最前線
にあった。
海部尾張氏の行くところ、高知、伊勢志摩
、尾張、相模、武蔵へと展開している。

平時には、南北の交易に従事し、戦時には
勇敢な海兵隊として活躍した氏族と見た。

<結論>
八代市の前方後円墳の主は、有佐大塚古墳
を除き、火君一族のもの。
しかし、その前の時代は、海部尾張氏が、
八代に勢力を持ち、古墳を築造していたと
わかった。

古代史文献は、大和朝廷多氏族の将軍が、
同地を平定したところから始まっているが
、既に海部尾張氏が治めていた。
これは、吉備国とほぼ似た状況だ。

海部尾張氏は、首長位を明け渡したが、
権威と勢力は存続したと見る。

第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者

今話の謎解きの対象は、宇土半島基部の
宇土市・宇城市の前方後円墳。

これらの古墳の主は火君一族か、何氏族なのか。
これが難問であることは、次の文章が教えている。

「宇土半島基部の古式古墳は、4世紀にさ
かのぼるものが多い。
この半島基部の豪族の首長が肥君と別のも
のか、肥君とつながりのあるものか、また
肥君の祖にあたるものか、考古学の資料
からはわからない。
肥君の先駆文化として説かれ、また邪馬台
国論争にも無視できないとされている」

(出典:「宇土市栗崎町城ノ越古墳出土の
三角縁神獣鏡」(富樫卯三郎著 1967
年2月熊本史学第33号)

<古墳を囲む人たちと指す方向>
読者の皆様には、古墳を囲む人たちと、前
方部が指す方向図を見ていただこう。

125話宇土半島基部墳+方向線本終版
125話氏族の解説最終

ブログ筆者は、本図から次のようなことに気づいた。

①中山氏が囲む古墳が多いが、どんな人たちか。
②境氏は、県内最古の前方後円墳とされる
、城ノ塚古墳近くにおられるが、どんな人たちか。

③釜賀氏は、天神山、潤野3号の前期古墳
近くにおられるが、どんな人たちか。
④多氏族が囲む古墳が少ない。
園田氏(肥直族)、伊豫氏(多氏族)はお
られるが、古墳の主と見られる古墳が
ない。

⑤武田氏(海部尾張氏族)は、向野田古墳
近くにおられ、その護衛隊と見る吉川氏も
多い。
男子王と見られる海部尾張氏は、この地域
に影響力を残していたと見られる。

<古墳の方向線の延長図>
次図は、各古墳前方部の指す方向線を、さ
らに引き延ばした図。

125話宇土半島基部墳の指す方向図最最終

ブログ筆者は、次のことに気づいた。

①被葬者又は築造者の意図が、はっきりと
わかる古墳がある。

城ノ越  宮崎県都農町都農神社
向野田  宗像大社
天神山  祖母山、さらに紀伊熊野
潤野3号 高知県宿毛市平田町
    波多国造(崇神朝、天韓襲命)本
拠地
    曽我山古墳
高知坐神社(つみは八重事代主命)
同神社は、大神氏族の祖神を祀る
祖母山を向く。

②島原半島南部を指す古墳がある。
スリバチ山、国越、弁天山、仁王塚

前に、島原半島北東部が、玉名市の紀氏族
、大野氏の元の本拠地であったと書いた。
南島原も、紀氏族、高木氏の拠点であり、
被葬者は、紀氏族の可能性がある。

③韓半島を指す二つの古墳
楢崎古墳(5期)と松橋大塚古墳(9期)
の延長線は、韓半島に至る。

前方後円墳集成は、楢崎20度W、松橋大
塚40度Wとする。
そのまま線を引くと、楢崎古墳は新羅王都
慶州に、松橋大塚古墳は、百済王都扶余
に至る。

二つの古墳近くには、中山氏集団があり、
太田亮氏著作に、「中山氏:第1項、百済
族、百済人韓遠智等に、中山連を賜う 」
とある。
これを繋ぐと、被葬者は百済王族となる。

しかし、ブログ筆者は、楢崎古墳が、箱式
石棺から舟形石棺など、弥生以来の伝統
の4種の石棺を用いており、百済王族では
ないと見た。

調査報告書「ヤンボン塚古墳・楢崎古墳」
(1986宇土市教育委員会)には、墳丘
主軸は19度Wとあった。
これを採用すると、南関町の武田氏集団
(21件)の真上を通過する。

松橋大塚古墳については、最新の調査報告
書を見つけた。

「松橋大塚古墳」(2015宇城市教育委員会)。

同書に、「この発掘調査では、幅5m以上
の周濠が付設されていることが判明した。
周濠を墳丘測量図に加えれば、主軸はN
45度Wと修正されよう」

45度Wを採用すると、武雄市おつぼ山神
護石に至った。
神護石は、旧地名で楢崎にあり、楢崎及び
延長線上に中山氏がおられる。

神護石とは、女性首長が祭祀を行った齋域
を、後世に整備した場所とみてよいだろうか。

<中山氏・境氏・釜賀氏>
これらはどんな人たちか。
実際に、どの氏族に近い人たちかを調べた
ので、次図に示す。

125話中山氏
125話境・釜賀氏

<被葬者氏族の判定表>
これまでの調査データに基づき、各古墳の
被葬者氏族の判定表を作成した。

125話被葬者氏族の判定表

<ブログ筆者のコメント>
宇土半島基部の前方後円墳の被葬者は、古
墳を囲む人たちと、前方部の方向等から判
定すると、海部尾張氏族、紀氏族、宗像氏
族と見られる。

海部尾張氏族と紀氏族は、義兄弟の深い繋
がりがあり、ともに宗像三女神、宇佐女王
を奉戴する。

宇土市西岡台に居館をおいた首長の奥津城
は、周りの古墳群だとすれば、男子首長は、
海部尾張氏族と紀氏族、女子は宗像氏族
の血を引く人物であったと見る。

総目次(第一話~第一二四話)

(船団のような住吉大社の四本宮)平成28年12月撮影
IMG_3234.jpg

・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

(溝咋神社境内社・厳島神社の秋景)平成28年11月撮影
IMG_3091 (2)

第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6)

ブログ筆者は、若い頃に、熊本市田迎町で
暮らしたことがある。

毎日利用したのは、御船・甲佐・城南行の
熊本バス。
4階のベランダから南を眺めると、加勢川
、緑川を越え家が点在し、後方に南九州の
山塊が横たわる。

北側の部屋から見ると、熊本城と金峰山が
正面。
東方に阿蘇の外輪山。
西方に有明海と雲仙岳。
遮るもののない大パノラマを味わった。

<御船町・城南町の古墳位置図>
124話御船町・城南町の古墳位置図

熊本市南部は、古代は海底。近世になって
も、白川から緑川までの一帯は、水害に見
舞われてきた。
標高5m線が、縄文時代の海岸線。
貝塚がその証拠。

御船町の豊秋台地、城南町の吉野山・塚原
台地は、岬の高台から、北に広がる大スペ
クタルを眺める、最高の場所となる。
弥生~古墳時代にかけて、古墳が連綿と作
られたのも頷ける。

御船町には2基、城南町には5基(消滅し
た土取塚を含む)の前方後円墳がある。

はたして、これらは、全て火君一族のもの
だろうか。

いつものやり方で探索を開始する前に、地
元自治体の見解を紹介する。

<御船町史2007年>
「長塚古墳は、5世紀代に築造、6世紀に
かけて使われたと推定される。
今城大塚古墳は、6世紀の築造と考えられる。
規模の大きな2基の前方後円墳は、この一
帯で最高の力を持った豪族の墓である。
これらの墓に葬られた一族の名前はわから
ない」

(注)今城大塚古墳の向きは、「前方後円
墳集成九州編」(1992山川出版社)はN
22度Eとするが、ここでは、御船町史掲載
の復元図を基に、N160度Wを採用した。

 <城南町史1965年>
「城南町に前方後円墳が5基存在すること
は、きわめて注目にあたいする。
城南町の古墳群は、3つの大群にまとめら
れる。

①吉野山 山頂の舟形石棺はもっとも古く
、5世紀初期である。
周囲をへいげいする位置にきづかれ、共同
体首長の墳墓にふさわしい。
②塚原  琵琶塚、花見塚、土取塚古墳
浜戸川沿いの塚原台地。これは、益城国造
肥君の墳墓を中心とする一群と思われる。
③沈目・陳内  甚九郎山、狐塚古墳
塚原台地の対岸にある。6世紀後半。

<熊本県文化財調査報告書「塚原」1975年>
編纂当時の、熊本県の考えが良く書かれて
いると思われるので、引用する。

・吉野山山頂出土の舟形石棺は、菊池川流
域が顕著で、中でも岱明町(現玉名市)院塚
古墳は、4基の舟形石棺を配置する。
吉野山山頂の石棺も、院塚など県内諸例
からみて、5世紀前半と考えられる。
・沈目・陳内古墳群
甚九郎山古墳は、巨石を用いた横穴式石
室であろうと推定。6世紀後半頃。

・塚原台地は、標高20~30mの平坦な
地形で、総面積は30万㎡に及ぶ。
台地上に、家一軒見出すことはできない。
塚原台地の琵琶塚は、本古墳群の主墳であ
ることには変わりはない。5世紀頃か。
円墳の石之室古墳(径20m)の横口式家
形石棺は、菊水町江田の船山古墳のもの
とともに、著名である。

・火君と塚原古墳群
付論において、熊本大学の松本雅明氏は、次
の説を述べておられる。
「火君は、塚原・沈目付近におこり、つい
で宇土半島基部付近に進出して、そこを
本拠とし、5世紀後期から八代平野に移動
している」

以上、長々と文献を引用したのは、古墳被
葬者の判定が容易でなかったからだ。

これらの文献情報を頭に入れて、剣根流の
なぞ解きを、開始しよう。

<御船町の前方後円墳を囲む人たち>
124話御船町古墳を囲む人たち

・本図を作成して気付いたのは、2つの古
墳周りに、火君につながる人たち、すなわ
ち園田氏と甲斐氏の少なさだ。

・長塚古墳を囲む主勢力は、江原氏と緒方
氏(大神氏族)。
江原氏は、太田亮氏の著作によれば、清和
源氏とされ、埼玉、群馬に各700件以上。
九州では、佐賀110件、福岡95件、熊
本40件。
実際に、江原氏が多い地域を調べると、中
原、菊池、内田(物部)、武田(海部尾
張氏)、三輪、香山(海部尾張氏)、長
谷川氏(中原氏)等、ブログ筆者が邪馬
台国連合勢力と見る人たちに近い。

長塚古墳の被葬者が、火君一族と示すもの
が、ここには見つからない。

・今城大塚古墳は、9期の築造とされ、最
終期に近い。
園田、甲斐氏はおられるが、数や位置から
は遠い。
しかし、前方部の向きが160度Wとすれ
ば、城南町甚九郎山古墳と同じであり、
築造時期も近いので、火君の可能性は
排除できない。

ブログ筆者が着目したのは、今城大塚古墳
に最も近い位置におられる、山下氏と高木
氏(紀直族)。
山下氏は、広川町の石人山古墳に近い最
大勢力。
石人山は、筑紫君磐井の祖父世代とも
いわれる。
高木氏は、菊水町の江田船山古墳の指す
勢力。

父親が紀直族で、母が山下氏の出身の人物
がいる。武内宿祢だ。

筑紫君勢力、玉名菊水の紀直族、火君の血
を受けた人物が、磐井の乱後に逃れてきて、
この地に眠っているのだろうか。

<城南町の前方後円墳を囲む人たち>
124話城南町の古墳を囲む人たち

本図を作成して気付くのは、前方後円墳の
周りに人が少ないこと。
これは、居住の地と墳墓の地が、分けられ
ていた証拠だろう。
被葬者たちは、どこに居住していたのか。

・舟形石棺が出土し、玉名院塚古墳とのつ
ながりが指摘される吉野山。
前方後円墳はないが、円墳が多く、うち7
基が弥生時代からの箱式石棺。
弥生時代からの勢力が、ここにいたに
違いない。

吉野山の主勢力は、緒方氏と南部氏。
南部氏は、太田亮氏の著作によれば、清和
源氏。
全国では、福井、北海道に各400件以上。
九州では、熊本80件、福岡70件、長崎
70件。
九州の市町村では、熊本市34件、佐世保
市32件。

実際に南部氏が多い地域を調べると、
佐世保市では湯浅氏(紀直族)。
福井県永平寺町では、南部氏100件以上
に対し、鈴木氏(物部氏)。
滋賀県長浜市では、武田氏(海部尾張氏)。

海部尾張氏の大和の本拠、御所市櫛羅にも
、南部氏は複数おられ、近さがわかる。
南部氏は、紀直族、物部氏、尾張氏に近い
人たち。
そして、吉野山には、本命の武田氏もおら
れる。

・城南町の中世以降の中心地、宮地。
ここには、火君につながる園田氏、甲斐氏
が集団を形成している。
それでも、ブログ筆者が注目するのは、浜
戸川沿いに集まる高木氏。
武田氏に続いて高木氏が来て、古墳時代の
主役となり、その後に火君族がやってきた
と見るからだ。

<古墳の指す方向図とブログ筆者の判定>
古墳を囲む人たちからの判定が難しいとき
は、古墳の指す方向から謎を解こう。

各古墳の指す方向図と、ブログ筆者の判定を書く。
そのあとに、コメントする。
124話長塚今城大塚方向図
124話城南甚九郎山方向図
124話城南琵琶塚方向図

上記の各古墳の向きをまとめると、次図となる。
124話御船城南町古墳指す方向図

<ブログ筆者のコメント>
・ブログ筆者が、今話を書いていて驚いた
ことは、御船町・城南町の地域と、菊池川
流域のつながりが、見えてきたこと。

すなわち、御船町長塚古墳の向きは、玉名
市岱明町の院塚古墳(4期)の真上を通過
する。
院塚古墳の南には、紀直族の大野氏が密集
する。

院塚古墳の向きは、112度Eで、大野氏後
裔の築地氏の本拠を指す。
院塚からは、4基の舟形石棺が出土してお
り、吉野山から出土したのは、人のつながり
があったからに違いない

・城南町の花見塚古墳は、大村市箕島付近
を指す。
長崎空港が、大村から湾内の箕島に移転し
たとき、箕島の市杵島神社は、大村市富松
神社境内社として存続した。
箕島は、大村湾を囲むどこからも、拝する
ことができる聖地であった。

この箕島を指す前方後円墳は、花見塚古墳
だけではない。
玉名市 稲荷山古墳、大坊古墳、藤光寺古

大牟田市 倉永古墳
これらの被葬者は、全て肥前をルーツとす
る紀直族と見る。

江田船山古墳と同じ、横口式家形石棺が、
城南町の塚原古墳群から出土している。
菊水町の江田船山古墳、塚坊主古墳は、
島原半島の北東部、有明町を指す。
ここも、紀直族が有明海を渡る前の本拠
地だ。

紀直族は、筑紫君勢力の発展に伴い、熊
本県南部に進出したと見る。
それが、紀直族の影響を受けた古墳たちが
生まれた理由だろう。

それでは、今城大塚古墳、甚九郎山古墳、
狐塚古墳は、なぜ火君族の古墳と言えるの
か。

今城大塚古墳は9期、甚九郎山古墳は、こ
の地域最後の前方後円墳といわれる。
筑紫君磐井の乱による権力の空白期に、
火君族はこの地に進出し築造したと見る。

この進出は、決して敵対的なものではない
だろう。
その証拠は、城南町宮地におられる、石井
氏、水間氏、久我氏だ。
筑紫君と血縁関係にあった火君族は、磐井
の乱を逃れた磐井一族、水間一族等を保護
したと見る。

今城大塚、狐塚、甚九郎山古墳が、磐井の
乱後に築造されたことは、新宇土市史の図
を、次に引用して示す。

124話熊本県内古墳築造年代図

(安威川堤上から見る、溝咋神社の大イチ
ョウと、藤原鎌足の眠る阿武山)平成28年
11月撮影
IMG_3102.jpg

第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5)

今回のテーマも、5話目となった。
火君の古墳探索を開始しよう。

熊本県南部、宇土半島~八代海沿岸の
古墳が、候補だとわかるが、そのうちの
どれが、火君なのか。
個別撃破で、曖昧な現状に決別しよう。

<氷川町野津古墳群周辺図>
123話氷川町野津古墳群周辺図最終

宇城市と八代市に挟まれた、氷川町の
野津古墳群は、火君候補の大本命。
近い所にある、大野窟古墳、有佐大塚
古墳も図に加えた。

正解かどうかを、今話で確認しよう。

<野津古墳群の説明>
氷川町(旧竜北町)野津・大野に所在
する、姫の城、中の城、端の城、物見櫓
古墳は、70m~120mの前方後円墳。

築造時期は、6~7期(前方後円墳集成
九州編)、あるいは6世紀初めから前半
(新宇土市史2003年)と、文献は記す。

阿蘇・大分の古墳は、4・5期だった。
野津古墳群が、火君の古墳とすれば、
火君勢力は、阿蘇君・大分君に遅れ、
6・7期に最盛期を迎えたことになる。

火君系譜は、どうなっているのか。

<大野窟古墳>
野津古墳群の北1.5kmに、全長123
m、県下最大級の大野窟古墳。

「大野窟古墳調査概要報告」(2007年
氷川町)は、こう紹介する。
「長さ14mの横穴式石室を有する、6世
紀中頃から後半の築造、熊本県で最も
新しい前方後円墳と考えられている」

<有佐大塚古墳の説明>
八代市(旧鏡町)有佐の前方後円墳。
野津古墳群と異なり、真西を向く。

築造期は、野津古墳群よりかなり古い、
4期(4世紀)と推定される。

これも、火君の古墳なのか。

<ブログ筆者のコメント>
結論から言えば、野津古墳群と大野窟
古墳の被葬者は、火君一族と見る。
その根拠は、次のとおり。

①野津古墳群と大野窟古墳の近くに、
園田氏(多氏族)が、集団を形成する。

これほどの大古墳群を築造できる、
別の勢力が、近くに見当たらない。

②大分君の古墳と判定した、大分市
蓬莱山古墳前方部は、130度W。

阿蘇火口を通過し、旧小川町(現宇城
市)、氷川町、八代市を指す。
宇土半島基部古墳群のある、御船町、
城南町、宇土市、松橋町(現宇城市)は、
通過しない。

阿蘇火口・大分君・火君の古墳が、一直
線につながるのは、この地域だ。

また、証拠の一つとして、線上(旧小川
町南端)に、全国でも数少ない、八井氏
が複数おられる。
八井氏は、多氏族と見てよいだろう。

③有佐大塚古墳の築造時期は、4期。
宇土市の女性首長が葬られた、向野田
古墳と同時期。
阿蘇長目塚古墳の築造が、4期5期の
境であることを考えれば、この時期に、
火君がこの古墳を築きえたか。

そして、南方の八代市妙見宮。
参拝した時の方向(20度E)は、有佐
大塚古墳をかすめる。
八代古墳群と繋がる古墳なのか。
旧鏡町(現八代市)エリアにあるので、
八代市古墳群を検討する際に、判断
したい。

④氷川町の北東、城南町所在の甚九郎
山古墳の向きは、160度W。
線を引けば、氷川町野津古墳群の真中
を通過し、かつ中の城古墳の向き160
度Wと一致する。

甚九郎山古墳の被葬者は、火君とつな
がる可能性があるが、城南町の古墳群
を論ずる際に、判断したい。

⑤火君の系譜
火君全盛期が、阿蘇君(4・5期)、大分
君(4期)の後だとわかる系譜はあるか。

第119話で紹介した、「高千穂阿蘇:総
合調査報告」(1960年神道文化会編)
所収の、「古代阿蘇氏の一考察」(田中
卓氏1958)に、火君の系譜を記した
「阿蘇家略系譜」がある。

田中卓氏が、阿蘇神社で発見したもの。
火君の該当部分を中心に、抜粋して掲
載させていただく。

123話火君の系譜

まず、大分君が、火君と大変近い同祖
とわかる。

ブログ筆者が、なによりも注目したのが、
建緒組命から4代目の建加恵命に付さ
れた次の注。
「火君忠世宿禰等の祖也」

忠世(ただよ)宿禰は、続日本後紀 巻
第18 仁明天皇嘉祥元年8月6日條に
登場する。
国史大系第3巻(吉川弘文館1966)
続日本後紀の原文は次のとおり。

肥前国養父郡人大宰少典従八位上筑
紫「公」火公貞直。兄豊後大目大初位
下筑紫「公」火公貞雄等。賜姓忠世宿
禰。貫附左京大條三坊。

「公」について、編者の黒板勝美氏は、
凡例において、こう書いている。
「衍字(よけいな字)が入っていると思わ
れるものは、その上下に「 」を加えて旧
により之を存し、以て他日の検討に資
せり」と。

同注は、筑紫君と火君が、姻戚関係に
入った時期と人物を、教えてくれる。

謎の5世紀だ。
この結びつきにより、火君は、6・7期に
大古墳を連続して築造できる力を得た
と見る。
筑紫君もまた、筑肥豊にまたがる大勢
力へと成長を始めたと見る。

具体的に、筑紫君勢力と火君勢力は、
どの地で結びついたのか。
その謎解きは、「筑紫君への道」のテー
マで行う予定だ。

高良山を向く古墳や神社。
石棺がこなごなに砕かれた山鹿・菊池
の古墳たち。
鳥栖・八女・日田などに集まる、磐井の
後裔たち。
石人山など、筑紫君所縁の古墳を囲む
人たち。

5~6話先になりますが、お楽しみに。
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ツルギネ

Author:ツルギネ
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溝咋神社で水が流れる
写真をやっと撮れました
(2018年5月5日撮影)

見やすいように、150%に
拡大してお読みください。

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