第一三一話 筑紫君への道

(長岡天神参道:道真が配流の途中寄った地)2017年4月撮影
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(太宰府天満宮:道真の眠る地)2017年5月撮影
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第一二三話で予告した、「筑紫君への道」
の執筆に、取り掛かる日が来た。

ブログ筆者にとって、筑紫君は謎の塊に
見える。
謎と感じるところを、思いつくままに挙げる。

<近江毛野臣>
最も有名な対話シーンだ。
近江毛野臣は、筑紫君イワイの友か、それ
とも伴か?
何故、新羅遠征を、言い含められ止めたか?

「伴」の文字が使われているのに、解釈書
はどれも友と訳しているが、部下だった
のではないか?

太田亮氏の「姓氏家系大辞典」は、近江毛
野臣を、武内宿禰後裔羽田臣氏族とする。
しかし、物部氏と関係が深い、近江の野洲
に葬られたとされるのは何故か?

近年発見された、林の腰古墳は、その墳墓か?

前方後円墳集成補遺編(山川出版社)に従
えば、方位は西。
彼が活躍しそして失敗した、日本府のおか
れた安羅国を指している。

<肥前を向く筑紫君一族の古墳>
石人山、石戸山等、筑紫君一族のものと
見られる前方後円墳は、殆どが前方部を
西の肥前国に向けている。

筑紫君のルーツを指しているのではないか?
初代筑紫国造、田道宿禰の名を負った、
田道ヶ里が肥前国神埼にあるが、関係ある
のか?

<筑紫火君・火中君>
筑紫君の子とされる、筑紫火君・火中君の
本拠地はどこか?
鳥栖、山鹿で良いのか?

<安倍氏と筑紫君>
安倍氏と同祖とされるが、どう系譜がつな
がるのか?
大彦命の子、タケヌナカワワケ命の後裔
なのか?

<肥筑豊に築いた大勢力>
肥筑豊に大勢力を誇ったとされる筑紫君。
どのような氏族が結びつき、支えたのか?

<筑紫君は筑紫倭王なのか>
白村江の戦いに先立ち編成された、倭国遠
征軍の中に、筑紫君の名は見当たらない。

超越した存在だったのか?

これらの謎に、どこから、どのように取り
組めば良いのか。
何を手がかりにすればよいのか。
ヒントは見つかったか。

この数年間、遠回りを重ねてきて、「いま
書き出さずしていつやる」という条件が
そろった。

「筑紫君への道」とは、筑紫君が肥筑豊に
またがる大勢力に成長していった道であ
り、また、ブログ筆者が、筑紫君の真相に
迫る道でもある。

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第一三〇話 葦分神社探訪記

(大阪府茨木市の葦分神社)
130話葦分神社正面額写真
130話 葦分神社拝殿燈籠写真

前話に登場した葦分(あしわけ)神社を、
ブログ筆者は訪ねた。

同神社の所在地、茨木市島1-1-21。
祭神は、天照大神。

旧村名では、宮島村の北辺にあたる。
宮島村は、南を安威川が流れ、北は玉櫛村
と溝咋村に接していた。
同神社敷地は、玉櫛村に食い込んでいる。

溝咋村は、三島溝咋耳。玉櫛村は、溝咋耳
の子、玉櫛彦と玉櫛媛ゆかりの地。
玉櫛村の東奈良遺跡からは、銅鐸鋳型が出
土しており、青銅器が作られ、各地に供給
されていた。

神武天皇の皇后を出した、三島縣主の勢力
圏に隣接して、集落を築いたのは、どんな
人たちか。

<葦分神社を囲む人たち>
葦分神社を囲むのは、ブログ筆者が中心と
見る武田氏(海部尾張氏)を別にすれば、
西島氏が目立つ。

西島氏は、太田亮氏の著作によれば、
「①藤原姓 ②秦河勝後裔の名族」と
ある。
茨木市は、前に書いたが、藤原・中臣氏族
の聖地だ。
(第73話:継体陵はどちらか 
第74話:伝継体陵は雷大臣命  
2013年8月)

葦分神社東隣にある、葦分神社東方遺跡。
茨木市教育委員会の発掘調査概要報告書を
見ると、同神社を中心に、平安時代中期
(11世紀中葉頃)に集落が成立したもの
と思われるとある。
古代については、推測するしかない。

<大燈籠の寄進者:岸本氏>
神社入口に、大きな燈籠が二基。
天保年間、吉志部東村の岸本藤助さんが、
願主として寄進したとわかる。
岸辺の地名は、葦分神社南西、約4キロ離
れた吹田市域にあり、今も岸本氏が多数住
んでおられる。
信仰した人たちは、現在の氏子の範囲より
広がっていたとわかる。

岸本氏がどんな人たちか、良く教えてくれ
るのが、島根県雲南市加茂町神原。
神原神社を中心に、速水氏と共に、岸本氏
が囲む。
速水(はやみ)氏が、ニギハヤヒ命(海部
尾張氏の祖)の後裔と見れば、岸本氏は、
大物主を囲む人たちだった。

<葦分神社参拝線は、亀岡出雲大神宮を指す>
葦分神社の参拝方向は、N2度E。
京都府亀岡市にある出雲大神宮を指してい
る。

葦分神社を支えた人たちは、海部尾張氏を
中心として、取り巻く岸本氏、中臣氏族の
人たちであったと見る。

第一二九話 浄水寺・妙見神を支えた海部尾張氏

(クイーン・エリザベス号神戸来航)2017年3月撮影
エリザベス号 (278x370)

前話では、肥後国浄水寺の大檀那、真上氏
が、何氏かわからないままに終わった。

このまま、ほっとくわけにいかない。

筆者は、近くのケーキ店、「プチ・プラン
ス」茨木舟木店で、半焼チーズ・ショコラ
(1個120円)を買ってきて、口に頬張
りつつ次の作戦を立てた。

スイーツの効用か、次々にヒントが見つかった。

<ヒント1:宇佐神宮間近に真上さん発見>
第125話に、宇佐神宮上社を囲む中山氏
の図を載せた。
データを改めて追いかけると、何と中山さ
ん達よりもさらに社殿間近に、真上さんが
おられた。
次図は、真上さんを書き加えたもの。

129話中山氏

宇佐女王を、アマミクの後継者とすれば、
真上氏は、男子王の武田氏(海部尾張
氏)の位置にくる。
真上氏は、海部尾張氏ではないかと、筆者
は考え始めた。

<ヒント2:小隈野の在地領主舛田氏>
二つ目のヒントは、妙見神が鎮座した小隈
野から見つかった。

鎌倉時代、小熊野村の在地領主に、徳王丸
西仏という人物がいた。
後継氏は、舛田氏と云い、代々用水管理を
司ったという。
出典:「肥後国南部における地域社と領主
権力」
(村上豊喜氏 1988年熊本史学64・
65合併号)

舛田氏のデータは、全国900件。
1位 広島県125件
2位 熊本県90件 宇城市が最多18件
で全て豊野町。
次図は、舛田氏をプロットしたもの。

129話小隈野時代支えた氏族図
129話小隈野時代支えた下半分図

城南町藤山では、武田氏の間に挟まれて
いる。
豊野町山崎でも、武田氏のすぐ近くにおら
れる。

そして、太田亮氏の、姓氏家系大辞典は、
「舛田氏 越後弥彦社上條神官にあり」。

弥彦社は、海部尾張氏の祖神を祀る。
海部尾張氏が、浄水寺・妙見神の支援者で
あった可能性が高まった。

<ヒント3:長田王の巡察地>
奈良時代初め、長田王という人物がいた。
734年、朱雀門で歌垣が催されたとき、
王は頭となり、「風流人」と、続日本紀に
書かれている。

筆者の推測では、長田王は、長皇子(父:
天武天皇、母:天智皇女大江皇女)の子
で、690年頃?~737年卒と見る。
万葉集に、和歌数首が選ばれている。

神亀元年(724年)~2年(725年)
頃、大宰少弐石川君子の同行を受け
て、肥薩国境を巡察した時の和歌。

720年に、大隅国司が殺害される事件が
起こり、大伴旅人が大将軍となって隼人を
鎮圧。
724年3月には、陸奥国で蝦夷の反乱が
起こり、藤原宇合が大将軍となって鎮圧に
向かった時期。

長田王の作れる歌一首
「隼人の 薩摩の迫門(せと)を 雲居な
す 遠くも吾は 今日見つるかも」

長田王、筑紫に遣さえて 水島に渡りし時
の歌二首
「聞くがごと まこと貴く 奇しくも 
神さびをるか これの水島」
「葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 
水島に行かむ 波立つなゆめ」

石川大夫、和ふる歌一首
「沖つ波 辺波立つとも わがせこが
御船の泊り 波立ためやも」

長田王を乗せた船は、葦北の野坂の浦を出
て、八代の水島に向かった。

野坂の浦の比定地は、過去論争があった。
田浦町(現芦北町)は、同町田浦とする。
熊本県は、南方の佐敷・計石とする様子。
次図は、二つの候補地。

129話野坂浦候補地

田浦とすれば、出迎えたのは、武田氏(海
部尾張氏)となるが、佐敷・計石とすれ
ば、三島氏となる。
田浦は、奈良時代の宝亀年間に、郡司と
なった檜前氏の、後世までの根拠地。

水島は、八代市球磨川河口の小島。
第126話に登場した、鼠蔵島の南。

129話楠木山古墳周辺図
129話八代市小島

景行天皇が巡幸した際、水が見つかったと
いう伝説の島。
景行天皇を出迎えた人たちとは、鼠蔵島に
楠木山古墳を築いた、海部尾張氏の人たち
だったろう。

風流人の長田王は、自らを景行天皇に見立
て巡幸を再現しようとしたに違いない。
同行した太宰少弐石川君子も、王の意図
に気付き、御船と詠んで王を喜ばせた。

撰者の大伴家持は、長田王の和歌に込めら
れた趣向の面白さに気付き、万葉集に入れ
たと見る。
そう、水島で長田王を迎えた人たちは、景
行天皇を迎えた人たちの後裔、海部尾張氏
であったろう。

<ヒント4:葦分神社>
国造本紀では、葦分国造と書かれている。
文字が同じ、葦分(あしわけ)神社が、筆
者の住む大阪府茨木市南部にある。

神社のすぐ側に、武田氏がおられる。
肥後の葦北も、元は海部尾張氏が支配者
だった証拠か。
また、阪急京都線をはさみ、竹原氏が11
件おられる。(45年前のデータ)

吉備国には、大和朝廷軍の吉備津彦兄弟が
攻め込み、弟の稚武彦命が統治者となる。
肥後葦北国も、元は海部尾張氏が支配して
いたが、兄の大吉備津彦の子孫(日羅一族
)が支配することになった。
八代は、神八井耳命の後裔が、支配するよ
うになった。

これが、歴史の真相と筆者は見る。

次図は、宇城市松橋町の松橋大塚古墳を
囲む人たちの図。

129話松橋大塚古墳囲む人達

いまヒントを得て、改めて見ると、中山氏
、中本氏(ニギハヤヒ命近親者)、紀直
氏族の集団が囲んでいる。

筆者は、同古墳被葬者は、海部尾張氏と
いう確信に達した。

第一二八話 八代妙見神社群の指すところ(2)

(万博公園の春景2017年3月撮影)
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大阪千里万博公園内に、みんぱく(国立民
族学博物館)がある。

本館展示室と、特別展「世界のビーズ」を
見た。
人間は、世界のどこにあっても、衣服や飾
り物を作り続けてきたと知らされる。
特に、神官たちは、特別あつらえの衣装を
身にまとい、大きな首飾りや腕輪を付けて
いる。

信仰が継続するには、神官たちの衣食住の
保証が欠かせない。
このためには、支援者が必要だ。

八代妙見神社群のなぞ解きの第二話は、
初期に妙見神を支援した氏族探しをテー
マとした。

<寄港地・植柳(うやなぎ)妙見宮を囲む人たち>
128話植柳神社周辺図

同社は、八代市植柳元町に鎮座する。
妙見神は、白鳳9年(681年)に、大陸
から来朝し、植柳の津に寄港したとされ
る。(妙見宮縁起)

植柳妙見宮を囲む人たちの中で、注目する
のは、武田氏と淪氏。
武田氏は、海部尾張氏族。
この地で支援したのは、海部尾張氏族であ
ったろうと、筆者は見る。

淪氏は「さざなみ」とお読みするらしい。
姓氏辞典では、熊本県の名家で、八代市に
多いとされる。
太田亮氏の、姓氏家系大辞典に、淪氏はな
いが、同じ読み方で、「楽浪(さざなみ)
氏」が記載されている。

「百済族にして、楽浪河内という人あり。
神亀元年に姓を高丘(たかおか)連と賜う。
近江朝、百済より帰化せし沙門詠の子也」

高丘といえば、桓武天皇の孫で、皇太子を
廃された高岳(たかおか)親王(794~
865?)がいる。
出家して空海の弟子になり、862年に
入唐。
さらに天竺を目指したが、途中でなくなっ
た人物。

皇太子を養育した氏族とすれば、百済でも
特に高貴な血筋か。
寄港した妙見神が、百済王族の可能性を
示す人たちだ。

<上陸地・竹原神社(妙見宮)を囲む人たち>
128話竹原神社周辺図

同社は、八代市竹原町に鎮座する。
祭神は、天御中主命。
妙見神は、この地に、三年滞在したと伝わる。

同社を囲む人たちの中で、注目したのは、
三島・三嶋氏。
吉川氏は、筆者がいつも書くように、三島
氏の護衛隊なので、三島・三嶋氏(葛
城直氏族)が支援したと見る。

竹原神社の参拝方向は、北東N30度E.。
今回の新たな発見は、城南町陳内の甚九郎
山古墳を指していたこと。
これに気付いたのは、妙見神が、竹原から
遷座した益城郡小隈野に、下郷神社があり
、その参拝方向が甚九郎山古墳を指してい
たからだ。

竹原の支援者、三島氏から、次の小隈野の
支援者を指して、竹原妙見宮は建てられた
と見る。

<小隈野鎮座時代の支援者を探せ!!>
妙見神は、小隈野に、80~90年鎮座し
たと伝えられる。

幅があるのは、八代横嶽(上宮地)に遷座
した時期について、二説があるからだ。
天平宝字2年(758年か、宝亀2年(7
71年)か。
どちらであるかにより、小隈野を去って
八代横嶽に遷座した理由が、異なって
くるだろう。

少なくとも、3世代以上という時間を支援
した氏族探しを、読者の皆様と共にやっ
てみよう。
ドロ-ンで調査するかのように、判定に有
益と思われる情報を盛り込んで、次図を
作成した。

128話小隈野時代支えた氏族図
128話小隈野時代支えた下半分図

<小隈野>
浜戸川の支流に、小隈野川があり、豊野町
(現宇城市)を流れる。
薄灰色の楕円が、小隈野時代を過ごしたと
見られるエリア。
ここには、妙見神ゆかりの三神社がある。

その三社の正面線と参拝方向線を引いたと
き、支援者の謎が解け始めた。

<白木神社>
現在は阿蘇大神を祀る、同社の正面線は、
旧浄水(きよみず)寺址の下郷神社を貫き
、さらに松橋町(現宇城市)の松橋大塚
古墳を指していた。

白木神社は、浄水寺の檀越と松橋大塚古墳
の被葬者につながると見てよいだろう。

<小隈野神社>
祭神は、天御中主命であり、元妙見宮と称
したことが、下益城郡誌(501頁)に記
されている。
筆者が驚いたのは、小隈野神社もまた、
正面線が松橋大塚古墳を指していたこ
とだ。

松橋大塚古墳被葬者の氏族が、妙見神を支
えていた証拠だと見る。

<下郷神社>
祭神は、イザナギ、イザナミ、大三輪神等。
下益城郡誌は、「元浄水寺の鎮守山王社た
りしを、維新後社格を得て始めて現社名を
附せしものならん」とする。
下郷神社の参拝方向は、北北東N10度E。
これは、白木神社の正面線N80度Wと、
直角に交差する。

指している先は、城南町陳内の甚九郎山古
墳。
前述のとおり、八代市竹原神社と豊野町下
郷神社の参拝方向線が、甚九郎山古墳で
重なる。

<宮原三神宮>
本図の南方、氷川の南岸に鎮座する宮原
三神宮も、妙見神ゆかりの神社。

同社は、平家全盛の平治元年(1161年
)に、八代妙見宮中宮と共に造営された
と伝わる。
同社の参拝方向(N)がどこを指すのか、
第一二六話で氷川流域の古墳周辺図を
作成した時点では、わからなかった。

今回、豊野町の二つの神社の正面線が、
松橋大塚古墳をさしていると判明した。
改めて計測した結果、宮原三神宮もまた、
同古墳を指していた。

この発見も、筆者にとって驚きだった。
平家一門が、妙見神創祀の経緯を、良く知
っていて、社殿の方向を定めたと見る。

<二古墳の被葬者の氏族が、妙見神の支援
者>
「古墳と神社の向きは、嘘をつかない」と
いうのが、これまでの教訓だ。

神社群の指す方向から、上記の二古墳の氏
族が、初期妙見神を支援していたと、筆者
は確信するに至った。

二古墳の被葬者については、前々話までに
、判定している。
甚九郎山古墳は火君氏族(第一二四話)。
松橋大塚古墳は大神氏族(第一二五話)。

この判定は、そのままで良いだろうか?
参考にすべきは、下郷神社の敷地に残る、
浄水寺四石碑の一つ、燈籠碑(延暦20年
801年)の銘文。
「奘善和上  御願造奉  燈楼一基 延
暦廿年 七月十四日 真上日乙  肥公
馬長 化僧薬蘭」
ここに刻された、真上氏と火君氏が、80
1年には、同寺の大檀越(支援者)で
あったとわかる一級資料だ。

ただし、浄水寺が完成したのは、延暦九年
(790年)頃であり、既に妙見神は、
小隈野を去って、八代に再遷座していた。
浄水寺完成5年後の795年、桓武天皇に
より、妙見神は国費で、上宮社殿が造営
される。

浄水寺檀越の真上氏とは何氏族か?
燈籠碑では、肥公より先に名前が書かれて
いる。
寺領をより多く提供したか、それとも官位
が上位か?

豊野村史(1991年)は、真上氏につい
て、こう書いている。
「浄水寺碑文に、肥公の名前が見えること
から、火君一族の援助のもとに寺が建てら
れたと考えてよい。
碑文にあるもう一人の援助者真上日乙につ
いては、浄水寺の位置が大野川の上流に
あたっている点を考慮し、豊福郷か小河郷
の郷長であろう」と、推測している。

果たして、筆者が作成した図から、同じ判
定が出るだろうか?

松橋大塚古墳は、大野川流域を勢力圏とし
た人物と見られるが、何氏族か?
古墳の周りには、海部尾張氏族、紀直氏族
、大神氏族等が集まる。
共通するのは、ニギハヤヒ命(大神)を奉
戴する人たちであること。
同古墳を指す、小隈野神社の参拝方向線は
、N118度Eで、日向一宮の都農神社を指す。
三輪(大神)氏が、大集団を形成している
地だ。

苦しいときは、太田亮氏頼み。
姓氏家系大辞典によれば、真上=真髪=
もとは白髪部(御名代部の一つ)。
真髪を名乗った氏族は、鴨県主氏族、吉備
氏族、出雲臣氏族、ニギハヤヒ命の後裔氏
族等があり、特定氏族と断定できない。

さらに、肥後の真髪氏として、「天長10
年(833年)肥後国葦北郡真髪部福益
云々。各々私物を輸して飢民を滋ふを
以って也」とある。

天長10年(833年)といえば、浄水寺
が定額寺に指定された天長5年(82
8年)に近い時期だ。
日羅の本拠、芦北郡の人物が、浄水寺や妙
見神の支援者だったのだろうか?

松橋大塚古墳被葬者の氏族については、大
神氏族か、海部尾張氏族か、又は紀直氏
族か、判定がまだ揺れる。

第一二七話 八代妙見神社群の指すところ(1)

前話では、八代の前方後円墳の主を、火君
とあっさり判定した。

その後、筆者の関心は、八代の妙見神社群
に向かった。

筆者は、「能勢妙見は、源氏の祖・多田満
仲の鎮守とぞ」と教えられて育った。
関東の相馬、千葉等の妙見宮は、桓武平氏
の信仰したところ。

八代は、妙見神が最初に上陸したとされる
、妙見信仰の本拠地。

その八代妙見神社群が、どこを指して建て
られているのか、確かめておきたかった。

読者の皆様には、八代妙見神社群の位置
図を見ていただく。

127話八代妙見神社向かう先


次図は、各神社の指すところと、妙見神の
遷座の歴史を書き加えたもの。

127話八代神社向かう先最終予備

本図を完成させたとき、ブログ筆者は大い
に戸惑った。

植柳妙見宮(寄港地)の参拝方向線と、八
代妙見宮の正面線が、南西の日羅を祀る
百済来(くだらき)地蔵堂で重なった。

妙見神と日羅はつながっていたのか?
いやこれは偶然か?


もう一つの驚きは、竹原神社(上陸地)と
八代妙見宮の参拝方向線が、指すところ
だった。

城南町の宮地および陳内の二ヶ所。
益城町の古閑・福富付近。

過去の、益城国府論争に登場した、3つの
候補地を向いていた。

昨年の夏、九州の大地図を八畳間サイズに
貼り合わせて作り、全前方後円墳の位置と
前方部の方向線を記入した。
その図に、今回書き加えてみると、益城町
の福富にある妙見神社に行き当たった。

隣には、妙見川が流れており、神社を豊田
氏が囲む。

豊田氏について、太田亮氏は、姓氏家系大
辞典で、「天御中主命の後裔と称す」と記
している。
天御中主命とは妙見神だ。


さらに、もう一つの驚きは、球磨川南岸の
遥拝(ようはい)神社だった。

妙見神を祀ってはいないが、同神社の正面
線は、浅井神社(寄港地)と八代妙見五社
の一つ、松崎神社を貫いて、百済国王都
扶余を指していた。

遥拝神社は、日羅と妙見宮を繋ぐものか?

次々に現れる謎。
筆者は、この謎ときに、本気で取り組むこ
とにした。

まず追いかけたのは、日羅や檜前氏後裔。
さらに、各神社を囲む人たちだった。
                     (つづく)

第一二六話 八代の前方後円墳の主たち

熊本県八代市の前方後円墳は、旧鏡町の有
佐大塚古墳を別にすれば、次図のとおり、
川田町、上片町付近に集中する。

126話 八代前方後円墳周辺図

古墳を囲む人たちには、園田氏(火君氏族
)を除けば、前方後円墳の主となる氏族は
おられない。
これらの前方後円墳の主は、火君一族と見
て間違いない。

「八代大塚古墳」(1993年熊本県教育
委員会)は、こう書いている。

「中核となるのが、全て前方後円墳から成
っている、大塚古墳群で、長塚(消滅)、
八代大塚、茶臼山、高取上の山が順に
北から並んでいる。

大形古墳が多く、茶臼山古墳は全長100
mを超えると推定され、この古墳群が八代
平野の最有力者の墳墓群と考えることが
できる」(P5)

あまりに、あっさりと答えは出た。
それでは、氷川町(旧竜北町)の野津古墳
群と、八代の古墳群は、どちらが先に築造
されたのだろうか。

<熊本県南部の前方後円墳編年表>
次表は、整理のため、ブログ筆者が作成し
たもの。

126話熊本南部古墳編年表

「前方後円墳集成」(1992)では、野
津古墳群を6~7期、八代古墳群を
7~8期とする。

しかし、「新宇土市史」(2003年)は
、八代古墳群を5~6期とする。
新宇土市史の説を採れば、八代が火君の
本拠地となる。
どちらが正しいのだろうか。

<八代市鏡町有佐大塚古墳>
ブログ筆者は、第一二三話において、同古
墳被葬者の判定を保留していた。
次図は、氷川流域の古墳周辺図。

126話氷川流域古墳周辺図

有佐大塚古墳の主は、野津古墳群と同じ火
君なのか、それとも異なるのか。
これは、かなりの難問だった。

・氷川流域で捉えれば、野津古墳群の数と
大きさは圧倒的なので、火君か?
・いや、有佐大塚古墳周りに、園田氏(火
君氏族)が全くおられないぞ。
・有佐大塚古墳の場所は、貝塚上で、築造
当時は海岸線。
そこに、火君が造るだろうか?

・野津古墳群は6~7期築造とされる。
有佐大塚古墳は4期で、宇土半島基部の主
要古墳群と同じ時期。
これが火君の古墳とすれば、火君最古の古
墳となるが、それでよいのか?

この謎ときには、時間がかかった。
八代の本当の謎があって、それが判定を困
難にしているのではないか、と考えた。
本当の謎が、茫洋と見え始めた時、答えが
現れた。

同古墳を囲む人たちを、丹念に見ると、小
島氏が多いと気付いた。
小島氏は、どんな人たちなのだろう。

答えを導いたヒントは、「前方後円墳集成
」の編年表の中にあった。

円墳だが、3期に楠木山古墳、4・5期に
大王山1号・2号墳が記載されていた。
重要な円墳と見られたから、記載されたに
違いない。
筆者は、これらの古墳の調査に移った。

<楠木山古墳>
同古墳は、八代市を流れる球磨川の河口に
ある。
干拓以前は、海に浮かぶ小島であった。
次図は、同古墳の周辺図。

126話楠木山古墳周辺図

同古墳を囲むのも、小島氏だった。

大鼠蔵山と小鼠蔵山には、鼠蔵(そぞう)
古墳群がある。

「楠木山古墳は、前期様式の竪穴式石室を
持ち、碧玉製紡錘車と古い形式の土師器が
出土しており、築造年代は、4世紀と考え
られる。
八代平野南部では、最も古い古墳として注
目される。」(「八代大塚古墳」1993年)

<大王山古墳群>
もう一度、氷川流域の古墳周辺図を見てい
ただきたい。

同古墳群は、旧宮原町早尾にある。
1号墳は、大王山山頂付近、2号墳は横穴
式石室、3号墳は竪穴式石室で舟形石棺。
築造時期は、有佐大塚古墳とほぼ同じ。
そして、近くに小島氏がおられた。

あらためて、小島氏とはどういう人たちか?
全国データでは、
1位  愛知県 4800件
2位  神奈川県 3700件
3位  埼玉県   3600件

九州沖縄データでは、
福岡県 750件  長崎県 660件
熊本県 420件  鹿児島県 250件
佐賀県 200件  大分県  150件
宮崎県 100件  沖縄県   15件

ブログ筆者は、次の町の小島氏に注目した。
①高知県宿毛市平田町
次図は、第一二五話で中山氏の説明に登場
した図を、拡大補筆したもの。

126話小島氏宿毛平田町最終

曽我山古墳を、びっしり取り囲む小島氏。
波多国造本拠地で、武田氏(海部尾張氏族
)が首長と見る。

②高知県高知市長浜
太平洋に面する高知市の長浜海岸には、
武田氏70件が集中する。
小島氏は、西に隣接する春野町に70件。

③長崎県対馬市
小島氏240件は、1位の阿比留氏(津島
国造後裔)450件に次ぐ、2位。
北端の上対馬町鰐浦から、美津島町、厳原
町まで、広く分布する。

④福岡県朝倉市
八代市・氷川町の真北に当たる、朝倉市小
田、小隈は、有名な平塚川添遺跡に極め
て近い場所。
ここに2つの前方後円墳がある。

小田茶臼塚古墳(6期55m)は、N17
度Wで前方部は、宗像大社を指す。
神蔵(かんのくら)古墳(1期40m)は
、N47度Wで、志賀島を指す。

古墳の主は、高倉氏(海部尾張氏族)又は
高木氏(紀直氏族)と見られるが、小島氏
40件が古墳を囲む。

⑤愛知県一宮市
同市の中心部に、尾張国一宮の真清田(ま
すみた)神社が鎮座する。
祭神は、尾張氏の祖神、天火明命。
ここを中心に、江南市、犬山市を含めて、
約1000件の小島氏。

⑥名古屋市南東部、知多半島基部
名古屋市の小島氏総数は、約1200件。
緑区190件、天白区150件、南区120件。
南に隣接する東海市400件、知多市130件。

緑区大高町には、尾張国造館跡の火上姉子
神社があり、ここを中心に、小島氏約11
00件が集まっている。

ブログ筆者は、ようやく確信を得た。
小島氏は、対馬では倭国の防衛に当たり、
朝倉においては、邪馬台国防衛の最前線
にあった。
海部尾張氏の行くところ、高知、伊勢志摩
、尾張、相模、武蔵へと展開している。

平時には、南北の交易に従事し、戦時には
勇敢な海兵隊として活躍した氏族と見た。

<結論>
八代市の前方後円墳の主は、有佐大塚古墳
を除き、火君一族のもの。
しかし、その前の時代は、海部尾張氏が、
八代に勢力を持ち、古墳を築造していたと
わかった。

古代史文献は、大和朝廷多氏族の将軍が、
同地を平定したところから始まっているが
、既に海部尾張氏が治めていた。
これは、吉備国とほぼ似た状況だ。

海部尾張氏は、首長位を明け渡したが、
権威と勢力は存続したと見る。

第一二五話 宇土半島基部の前方後円墳の被葬者

今話の謎解きの対象は、宇土半島基部の
宇土市・宇城市の前方後円墳。

これらの古墳の主は火君一族か、何氏族なのか。
これが難問であることは、次の文章が教えている。

「宇土半島基部の古式古墳は、4世紀にさ
かのぼるものが多い。
この半島基部の豪族の首長が肥君と別のも
のか、肥君とつながりのあるものか、また
肥君の祖にあたるものか、考古学の資料
からはわからない。
肥君の先駆文化として説かれ、また邪馬台
国論争にも無視できないとされている」

(出典:「宇土市栗崎町城ノ越古墳出土の
三角縁神獣鏡」(富樫卯三郎著 1967
年2月熊本史学第33号)

<古墳を囲む人たちと指す方向>
読者の皆様には、古墳を囲む人たちと、前
方部が指す方向図を見ていただこう。

125話宇土半島基部墳+方向線本終版
125話氏族の解説最終

ブログ筆者は、本図から次のようなことに気づいた。

①中山氏が囲む古墳が多いが、どんな人たちか。
②境氏は、県内最古の前方後円墳とされる
、城ノ塚古墳近くにおられるが、どんな人たちか。

③釜賀氏は、天神山、潤野3号の前期古墳
近くにおられるが、どんな人たちか。
④多氏族が囲む古墳が少ない。
園田氏(肥直族)、伊豫氏(多氏族)はお
られるが、古墳の主と見られる古墳が
ない。

⑤武田氏(海部尾張氏族)は、向野田古墳
近くにおられ、その護衛隊と見る吉川氏も
多い。
男子王と見られる海部尾張氏は、この地域
に影響力を残していたと見られる。

<古墳の方向線の延長図>
次図は、各古墳前方部の指す方向線を、さ
らに引き延ばした図。

125話宇土半島基部墳の指す方向図最最終

ブログ筆者は、次のことに気づいた。

①被葬者又は築造者の意図が、はっきりと
わかる古墳がある。

城ノ越  宮崎県都農町都農神社
向野田  宗像大社
天神山  祖母山、さらに紀伊熊野
潤野3号 高知県宿毛市平田町
    波多国造(崇神朝、天韓襲命)本
拠地
    曽我山古墳
高知坐神社(つみは八重事代主命)
同神社は、大神氏族の祖神を祀る
祖母山を向く。

②島原半島南部を指す古墳がある。
スリバチ山、国越、弁天山、仁王塚

前に、島原半島北東部が、玉名市の紀氏族
、大野氏の元の本拠地であったと書いた。
南島原も、紀氏族、高木氏の拠点であり、
被葬者は、紀氏族の可能性がある。

③韓半島を指す二つの古墳
楢崎古墳(5期)と松橋大塚古墳(9期)
の延長線は、韓半島に至る。

前方後円墳集成は、楢崎20度W、松橋大
塚40度Wとする。
そのまま線を引くと、楢崎古墳は新羅王都
慶州に、松橋大塚古墳は、百済王都扶余
に至る。

二つの古墳近くには、中山氏集団があり、
太田亮氏著作に、「中山氏:第1項、百済
族、百済人韓遠智等に、中山連を賜う 」
とある。
これを繋ぐと、被葬者は百済王族となる。

しかし、ブログ筆者は、楢崎古墳が、箱式
石棺から舟形石棺など、弥生以来の伝統
の4種の石棺を用いており、百済王族では
ないと見た。

調査報告書「ヤンボン塚古墳・楢崎古墳」
(1986宇土市教育委員会)には、墳丘
主軸は19度Wとあった。
これを採用すると、南関町の武田氏集団
(21件)の真上を通過する。

松橋大塚古墳については、最新の調査報告
書を見つけた。

「松橋大塚古墳」(2015宇城市教育委員会)。

同書に、「この発掘調査では、幅5m以上
の周濠が付設されていることが判明した。
周濠を墳丘測量図に加えれば、主軸はN
45度Wと修正されよう」

45度Wを採用すると、武雄市おつぼ山神
護石に至った。
神護石は、旧地名で楢崎にあり、楢崎及び
延長線上に中山氏がおられる。

神護石とは、女性首長が祭祀を行った齋域
を、後世に整備した場所とみてよいだろうか。

<中山氏・境氏・釜賀氏>
これらはどんな人たちか。
実際に、どの氏族に近い人たちかを調べた
ので、次図に示す。

125話中山氏
125話境・釜賀氏

<被葬者氏族の判定表>
これまでの調査データに基づき、各古墳の
被葬者氏族の判定表を作成した。

125話被葬者氏族の判定表

<ブログ筆者のコメント>
宇土半島基部の前方後円墳の被葬者は、古
墳を囲む人たちと、前方部の方向等から判
定すると、海部尾張氏族、紀氏族、宗像氏
族と見られる。

海部尾張氏族と紀氏族は、義兄弟の深い繋
がりがあり、ともに宗像三女神、宇佐女王
を奉戴する。

宇土市西岡台に居館をおいた首長の奥津城
は、周りの古墳群だとすれば、男子首長は、
海部尾張氏族と紀氏族、女子は宗像氏族
の血を引く人物であったと見る。

総目次(第一話~第一二四話)

(船団のような住吉大社の四本宮)平成28年12月撮影
IMG_3234.jpg

・第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6) (11/27)
・第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5) (11/02)
・第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4) (10/11)
・第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3) (09/15)
・第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2) (09/01)
・第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1) (08/05)
・第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編 (07/09)
・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2) (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1) (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰 (01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

(溝咋神社境内社・厳島神社の秋景)平成28年11月撮影
IMG_3091 (2)

第一二四話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(6)

ブログ筆者は、若い頃に、熊本市田迎町で
暮らしたことがある。

毎日利用したのは、御船・甲佐・城南行の
熊本バス。
4階のベランダから南を眺めると、加勢川
、緑川を越え家が点在し、後方に南九州の
山塊が横たわる。

北側の部屋から見ると、熊本城と金峰山が
正面。
東方に阿蘇の外輪山。
西方に有明海と雲仙岳。
遮るもののない大パノラマを味わった。

<御船町・城南町の古墳位置図>
124話御船町・城南町の古墳位置図

熊本市南部は、古代は海底。近世になって
も、白川から緑川までの一帯は、水害に見
舞われてきた。
標高5m線が、縄文時代の海岸線。
貝塚がその証拠。

御船町の豊秋台地、城南町の吉野山・塚原
台地は、岬の高台から、北に広がる大スペ
クタルを眺める、最高の場所となる。
弥生~古墳時代にかけて、古墳が連綿と作
られたのも頷ける。

御船町には2基、城南町には5基(消滅し
た土取塚を含む)の前方後円墳がある。

はたして、これらは、全て火君一族のもの
だろうか。

いつものやり方で探索を開始する前に、地
元自治体の見解を紹介する。

<御船町史2007年>
「長塚古墳は、5世紀代に築造、6世紀に
かけて使われたと推定される。
今城大塚古墳は、6世紀の築造と考えられる。
規模の大きな2基の前方後円墳は、この一
帯で最高の力を持った豪族の墓である。
これらの墓に葬られた一族の名前はわから
ない」

(注)今城大塚古墳の向きは、「前方後円
墳集成九州編」(1992山川出版社)はN
22度Eとするが、ここでは、御船町史掲載
の復元図を基に、N160度Wを採用した。

 <城南町史1965年>
「城南町に前方後円墳が5基存在すること
は、きわめて注目にあたいする。
城南町の古墳群は、3つの大群にまとめら
れる。

①吉野山 山頂の舟形石棺はもっとも古く
、5世紀初期である。
周囲をへいげいする位置にきづかれ、共同
体首長の墳墓にふさわしい。
②塚原  琵琶塚、花見塚、土取塚古墳
浜戸川沿いの塚原台地。これは、益城国造
肥君の墳墓を中心とする一群と思われる。
③沈目・陳内  甚九郎山、狐塚古墳
塚原台地の対岸にある。6世紀後半。

<熊本県文化財調査報告書「塚原」1975年>
編纂当時の、熊本県の考えが良く書かれて
いると思われるので、引用する。

・吉野山山頂出土の舟形石棺は、菊池川流
域が顕著で、中でも岱明町(現玉名市)院塚
古墳は、4基の舟形石棺を配置する。
吉野山山頂の石棺も、院塚など県内諸例
からみて、5世紀前半と考えられる。
・沈目・陳内古墳群
甚九郎山古墳は、巨石を用いた横穴式石
室であろうと推定。6世紀後半頃。

・塚原台地は、標高20~30mの平坦な
地形で、総面積は30万㎡に及ぶ。
台地上に、家一軒見出すことはできない。
塚原台地の琵琶塚は、本古墳群の主墳であ
ることには変わりはない。5世紀頃か。
円墳の石之室古墳(径20m)の横口式家
形石棺は、菊水町江田の船山古墳のもの
とともに、著名である。

・火君と塚原古墳群
付論において、熊本大学の松本雅明氏は、次
の説を述べておられる。
「火君は、塚原・沈目付近におこり、つい
で宇土半島基部付近に進出して、そこを
本拠とし、5世紀後期から八代平野に移動
している」

以上、長々と文献を引用したのは、古墳被
葬者の判定が容易でなかったからだ。

これらの文献情報を頭に入れて、剣根流の
なぞ解きを、開始しよう。

<御船町の前方後円墳を囲む人たち>
124話御船町古墳を囲む人たち

・本図を作成して気付いたのは、2つの古
墳周りに、火君につながる人たち、すなわ
ち園田氏と甲斐氏の少なさだ。

・長塚古墳を囲む主勢力は、江原氏と緒方
氏(大神氏族)。
江原氏は、太田亮氏の著作によれば、清和
源氏とされ、埼玉、群馬に各700件以上。
九州では、佐賀110件、福岡95件、熊
本40件。
実際に、江原氏が多い地域を調べると、中
原、菊池、内田(物部)、武田(海部尾
張氏)、三輪、香山(海部尾張氏)、長
谷川氏(中原氏)等、ブログ筆者が邪馬
台国連合勢力と見る人たちに近い。

長塚古墳の被葬者が、火君一族と示すもの
が、ここには見つからない。

・今城大塚古墳は、9期の築造とされ、最
終期に近い。
園田、甲斐氏はおられるが、数や位置から
は遠い。
しかし、前方部の向きが160度Wとすれ
ば、城南町甚九郎山古墳と同じであり、
築造時期も近いので、火君の可能性は
排除できない。

ブログ筆者が着目したのは、今城大塚古墳
に最も近い位置におられる、山下氏と高木
氏(紀直族)。
山下氏は、広川町の石人山古墳に近い最
大勢力。
石人山は、筑紫君磐井の祖父世代とも
いわれる。
高木氏は、菊水町の江田船山古墳の指す
勢力。

父親が紀直族で、母が山下氏の出身の人物
がいる。武内宿祢だ。

筑紫君勢力、玉名菊水の紀直族、火君の血
を受けた人物が、磐井の乱後に逃れてきて、
この地に眠っているのだろうか。

<城南町の前方後円墳を囲む人たち>
124話城南町の古墳を囲む人たち

本図を作成して気付くのは、前方後円墳の
周りに人が少ないこと。
これは、居住の地と墳墓の地が、分けられ
ていた証拠だろう。
被葬者たちは、どこに居住していたのか。

・舟形石棺が出土し、玉名院塚古墳とのつ
ながりが指摘される吉野山。
前方後円墳はないが、円墳が多く、うち7
基が弥生時代からの箱式石棺。
弥生時代からの勢力が、ここにいたに
違いない。

吉野山の主勢力は、緒方氏と南部氏。
南部氏は、太田亮氏の著作によれば、清和
源氏。
全国では、福井、北海道に各400件以上。
九州では、熊本80件、福岡70件、長崎
70件。
九州の市町村では、熊本市34件、佐世保
市32件。

実際に南部氏が多い地域を調べると、
佐世保市では湯浅氏(紀直族)。
福井県永平寺町では、南部氏100件以上
に対し、鈴木氏(物部氏)。
滋賀県長浜市では、武田氏(海部尾張氏)。

海部尾張氏の大和の本拠、御所市櫛羅にも
、南部氏は複数おられ、近さがわかる。
南部氏は、紀直族、物部氏、尾張氏に近い
人たち。
そして、吉野山には、本命の武田氏もおら
れる。

・城南町の中世以降の中心地、宮地。
ここには、火君につながる園田氏、甲斐氏
が集団を形成している。
それでも、ブログ筆者が注目するのは、浜
戸川沿いに集まる高木氏。
武田氏に続いて高木氏が来て、古墳時代の
主役となり、その後に火君族がやってきた
と見るからだ。

<古墳の指す方向図とブログ筆者の判定>
古墳を囲む人たちからの判定が難しいとき
は、古墳の指す方向から謎を解こう。

各古墳の指す方向図と、ブログ筆者の判定を書く。
そのあとに、コメントする。
124話長塚今城大塚方向図
124話城南甚九郎山方向図
124話城南琵琶塚方向図

上記の各古墳の向きをまとめると、次図となる。
124話御船城南町古墳指す方向図

<ブログ筆者のコメント>
・ブログ筆者が、今話を書いていて驚いた
ことは、御船町・城南町の地域と、菊池川
流域のつながりが、見えてきたこと。

すなわち、御船町長塚古墳の向きは、玉名
市岱明町の院塚古墳(4期)の真上を通過
する。
院塚古墳の南には、紀直族の大野氏が密集
する。

院塚古墳の向きは、112度Eで、大野氏後
裔の築地氏の本拠を指す。
院塚からは、4基の舟形石棺が出土してお
り、吉野山から出土したのは、人のつながり
があったからに違いない

・城南町の花見塚古墳は、大村市箕島付近
を指す。
長崎空港が、大村から湾内の箕島に移転し
たとき、箕島の市杵島神社は、大村市富松
神社境内社として存続した。
箕島は、大村湾を囲むどこからも、拝する
ことができる聖地であった。

この箕島を指す前方後円墳は、花見塚古墳
だけではない。
玉名市 稲荷山古墳、大坊古墳、藤光寺古

大牟田市 倉永古墳
これらの被葬者は、全て肥前をルーツとす
る紀直族と見る。

江田船山古墳と同じ、横口式家形石棺が、
城南町の塚原古墳群から出土している。
菊水町の江田船山古墳、塚坊主古墳は、
島原半島の北東部、有明町を指す。
ここも、紀直族が有明海を渡る前の本拠
地だ。

紀直族は、筑紫君勢力の発展に伴い、熊
本県南部に進出したと見る。
それが、紀直族の影響を受けた古墳たちが
生まれた理由だろう。

それでは、今城大塚古墳、甚九郎山古墳、
狐塚古墳は、なぜ火君族の古墳と言えるの
か。

今城大塚古墳は9期、甚九郎山古墳は、こ
の地域最後の前方後円墳といわれる。
筑紫君磐井の乱による権力の空白期に、
火君族はこの地に進出し築造したと見る。

この進出は、決して敵対的なものではない
だろう。
その証拠は、城南町宮地におられる、石井
氏、水間氏、久我氏だ。
筑紫君と血縁関係にあった火君族は、磐井
の乱を逃れた磐井一族、水間一族等を保護
したと見る。

今城大塚、狐塚、甚九郎山古墳が、磐井の
乱後に築造されたことは、新宇土市史の図
を、次に引用して示す。

124話熊本県内古墳築造年代図

(安威川堤上から見る、溝咋神社の大イチ
ョウと、藤原鎌足の眠る阿武山)平成28年
11月撮影
IMG_3102.jpg

第一二三話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(5)

今回のテーマも、5話目となった。
火君の古墳探索を開始しよう。

熊本県南部、宇土半島~八代海沿岸の
古墳が、候補だとわかるが、そのうちの
どれが、火君なのか。
個別撃破で、曖昧な現状に決別しよう。

<氷川町野津古墳群周辺図>
123話氷川町野津古墳群周辺図最終

宇城市と八代市に挟まれた、氷川町の
野津古墳群は、火君候補の大本命。
近い所にある、大野窟古墳、有佐大塚
古墳も図に加えた。

正解かどうかを、今話で確認しよう。

<野津古墳群の説明>
氷川町(旧竜北町)野津・大野に所在
する、姫の城、中の城、端の城、物見櫓
古墳は、70m~120mの前方後円墳。

築造時期は、6~7期(前方後円墳集成
九州編)、あるいは6世紀初めから前半
(新宇土市史2003年)と、文献は記す。

阿蘇・大分の古墳は、4・5期だった。
野津古墳群が、火君の古墳とすれば、
火君勢力は、阿蘇君・大分君に遅れ、
6・7期に最盛期を迎えたことになる。

火君系譜は、どうなっているのか。

<大野窟古墳>
野津古墳群の北1.5kmに、全長123
m、県下最大級の大野窟古墳。

「大野窟古墳調査概要報告」(2007年
氷川町)は、こう紹介する。
「長さ14mの横穴式石室を有する、6世
紀中頃から後半の築造、熊本県で最も
新しい前方後円墳と考えられている」

<有佐大塚古墳の説明>
八代市(旧鏡町)有佐の前方後円墳。
野津古墳群と異なり、真西を向く。

築造期は、野津古墳群よりかなり古い、
4期(4世紀)と推定される。

これも、火君の古墳なのか。

<ブログ筆者のコメント>
結論から言えば、野津古墳群と大野窟
古墳の被葬者は、火君一族と見る。
その根拠は、次のとおり。

①野津古墳群と大野窟古墳の近くに、
園田氏(多氏族)が、集団を形成する。

これほどの大古墳群を築造できる、
別の勢力が、近くに見当たらない。

②大分君の古墳と判定した、大分市
蓬莱山古墳前方部は、130度W。

阿蘇火口を通過し、旧小川町(現宇城
市)、氷川町、八代市を指す。
宇土半島基部古墳群のある、御船町、
城南町、宇土市、松橋町(現宇城市)は、
通過しない。

阿蘇火口・大分君・火君の古墳が、一直
線につながるのは、この地域だ。

また、証拠の一つとして、線上(旧小川
町南端)に、全国でも数少ない、八井氏
が複数おられる。
八井氏は、多氏族と見てよいだろう。

③有佐大塚古墳の築造時期は、4期。
宇土市の女性首長が葬られた、向野田
古墳と同時期。
阿蘇長目塚古墳の築造が、4期5期の
境であることを考えれば、この時期に、
火君がこの古墳を築きえたか。

そして、南方の八代市妙見宮。
参拝した時の方向(20度E)は、有佐
大塚古墳をかすめる。
八代古墳群と繋がる古墳なのか。
旧鏡町(現八代市)エリアにあるので、
八代市古墳群を検討する際に、判断
したい。

④氷川町の北東、城南町所在の甚九郎
山古墳の向きは、160度W。
線を引けば、氷川町野津古墳群の真中
を通過し、かつ中の城古墳の向き160
度Wと一致する。

甚九郎山古墳の被葬者は、火君とつな
がる可能性があるが、城南町の古墳群
を論ずる際に、判断したい。

⑤火君の系譜
火君全盛期が、阿蘇君(4・5期)、大分
君(4期)の後だとわかる系譜はあるか。

第119話で紹介した、「高千穂阿蘇:総
合調査報告」(1960年神道文化会編)
所収の、「古代阿蘇氏の一考察」(田中
卓氏1958)に、火君の系譜を記した
「阿蘇家略系譜」がある。

田中卓氏が、阿蘇神社で発見したもの。
火君の該当部分を中心に、抜粋して掲
載させていただく。

123話火君の系譜

まず、大分君が、火君と大変近い同祖
とわかる。

ブログ筆者が、なによりも注目したのが、
建緒組命から4代目の建加恵命に付さ
れた次の注。
「火君忠世宿禰等の祖也」

忠世(ただよ)宿禰は、続日本後紀 巻
第18 仁明天皇嘉祥元年8月6日條に
登場する。
国史大系第3巻(吉川弘文館1966)
続日本後紀の原文は次のとおり。

肥前国養父郡人大宰少典従八位上筑
紫「公」火公貞直。兄豊後大目大初位
下筑紫「公」火公貞雄等。賜姓忠世宿
禰。貫附左京大條三坊。

「公」について、編者の黒板勝美氏は、
凡例において、こう書いている。
「衍字(よけいな字)が入っていると思わ
れるものは、その上下に「 」を加えて旧
により之を存し、以て他日の検討に資
せり」と。

同注は、筑紫君と火君が、姻戚関係に
入った時期と人物を、教えてくれる。

謎の5世紀だ。
この結びつきにより、火君は、6・7期に
大古墳を連続して築造できる力を得た
と見る。
筑紫君もまた、筑肥豊にまたがる大勢
力へと成長を始めたと見る。

具体的に、筑紫君勢力と火君勢力は、
どの地で結びついたのか。
その謎解きは、「筑紫君への道」のテー
マで行う予定だ。

高良山を向く古墳や神社。
石棺がこなごなに砕かれた山鹿・菊池
の古墳たち。
鳥栖・八女・日田などに集まる、磐井の
後裔たち。
石人山など、筑紫君所縁の古墳を囲む
人たち。

5~6話先になりますが、お楽しみに。

第一二二話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(4)

<剣根命を祀る葛木御縣神社 平成28年10月撮影>
122話葛木御縣神社1
122話葛木御縣神社2
122話葛木御縣神社3
122話葛木御縣神社4

奈良県葛城市の葛木御縣神社は、真東の伊
勢神宮を向いている。
参拝時は、真西の二塚古墳を向く。
(第57話剣根の古墳が指す山 2012年11
月参照)
さらに、真西に線を伸ばすと、後漢・魏の都、
洛陽に至る。

ブログ筆者は、同神社の数百m東で生まれ
たと、戸籍に書かれている。
葛城国造護衛隊の密集地の真ん中だ。

現在住むのは、二塚古墳が指す、大阪府茨
木市南東部。
すぐ南は旧玉櫛村。東は旧溝咋村(現五十
鈴町)。
三島剣根命が、葛城国造に任じられて出発
した地に戻って、このブログを書いている。

<三重・七ツ森古墳群へのブログ筆者コメント>

大分県最大の河川、大野川の中流域、三重
盆地に築かれた三重古墳群と、上流域に築
かれた七ツ森古墳群。
これらの前方後円墳の被葬者は、何氏族
なのか。

ブログ筆者が、最初に注目したのは、盆地
入口の、三重町宮野・浅瀬に住む人たち。

難波氏(難波吉士氏族)、武田氏(海部尾
張氏族)、深田氏(宗像氏族)、伊美氏(膳
伴氏族)、丹生氏。
この集団を見れば、もともとは邪馬台国を
支えた人たちの拠点であったことがわかる。
しかし、この人たちは、ここに前方後円墳を
築いていない。

それでは、阿蘇氏(多氏族)が築いたか。
しかし、三重・七ツ森古墳群の前方部が向
く方向の特徴は、大野川本流沿いの立野
古墳を除くと、阿蘇火口や草部吉見神社
等の、阿蘇氏ゆかりの地を外している。
これはどうしたことだろう。

三重盆地の支配者を探すと、三重町内田
に集まる、内田氏(物部氏族)が浮かび
上がる。
傍には、深田氏(宗像氏族)、高知穂氏
(大神氏族)、阿南氏(大神氏族)。

大神、すなわち、ニギハヤヒ命につながる
人たちである。

それでは、すべての古墳が物部氏族か。
それは言い切れない。

大野川河口に、野間・亀塚等の前方後円墳
が築かれた時代は、前方後円墳編年表で
4・5期。
阿蘇の二つの前方後円墳が築かれたのも、
4・5期。

ところが、三重古墳群のうち、秋葉鬼塚古
墳(2期)、小坂大塚古墳(3期)、道ノ上
古墳(3期)は、それ以前に築かれたと
される。

各古墳について、個別に検討していこう。


①秋葉鬼塚古墳(2期46m)
三重盆地の南西部にある同古墳は、囲む人
たちに特色がある。

難波氏と鎌倉氏。
難波氏は、宮野に大集団があるが、古墳近
くにおられるのは、同古墳に限られる。
難波吉士氏族が、この古墳につながる理由
がわからなかった。
北西(82度W)を向く同古墳が、どこを指して築か
れたかも、わからなかった。

突然解明されたのは、82度Wの線を延長
した時。後漢・魏の都、洛陽に突き当たった。
光武帝から金印をもらい、難升米が中郎将
に任じられた都である。

倭国の外交を担当してきた難波吉士氏族に
とって、洛陽の都は、祖先たちの華々しい
活躍の舞台であった。

鎌倉氏は、難問だ。
太田亮氏の著作は、鎌倉氏について、
・鎌倉別 「日本武尊裔」
・桓武平氏 「平忠通、鎮守府将軍となりて
、鎌倉郡にあり。その子景通よりて鎌倉氏
を称すと云ふ。
(中略)出自区々にして一定せず。鎌倉別
の後にあらざるか」と、断定していない。
ブログ筆者は、被葬者は難波氏と見る。

②小坂大塚古墳(3期40m)
この古墳も、囲む人たちに特色がある。
伊見(伊美)さんは、膳伴氏族であり、半
島で難波氏とともに活躍した人たち。

同古墳の向きは、南島原市口之津に至る。
ここも海外との窓口であった。
ブログ筆者は、被葬者は膳伴氏と見る。

③道ノ上古墳(3期71m)
三重古墳群で最大の古墳。
古墳を囲む、34件の赤嶺氏(34年前のデータ)。
赤嶺は、高良と同じく、有力な琉球姓である。
それも、那覇の重要な赤嶺御嶽(うたき)
祭祀に係る人たち。

女性首長の最高位が、宗像姫とすれば、深
田氏(宗像氏族)の可能性がある。
しかし、同古墳は熊本市河内町の内田氏密
集地を通過し、野間1号墳と同じく雲仙岳に
至ることから、被葬者は内田氏(物部氏族)
か。

④立野古墳(4期60m)
唯一、大野川本流沿いにあることと、古墳
の周りに黒木氏がおられる点が特色。
黒木氏を菊池氏族とみれば、阿蘇氏に近い。
加えて、同古墳の向きは、阿蘇山火口を通
過し、熊本市の健軍神社(祭神:建緒組命
多氏族)を通過する。
被葬者は、多氏族の人物と見る。

なお、健軍神社は、雲仙岳を正面(94度
W)に、祖母山を背(86度E)にして作ら
れている。

⑤七ツ森古墳群(4期51m・53m)
阿蘇と竹田を結ぶ街道沿いに、七ツ森古墳
はある。
2つの前方後円墳からは、6面の銅鏡が出
土したと伝えられ、強い勢力を有していたと
うかがえる。

古墳を囲む人たちは、大塚氏が多数。
これに、緒方氏(大神氏族)が加わる。
古墳の向く先には、甲斐氏と深田氏がおられる。

大塚氏はどんな勢力だろうか。
太田亮氏の著作は、九州の大塚氏を、土持
七党の一つとする。
土持氏は日下部氏族なので、大塚氏も日下
部氏族となる。

大塚氏の集団を実例で見ると、
・竹田市向山田 
七ツ森の北東部、向山田に大塚氏6件。
近くには、阿南氏(大神氏族)3件。
ここでも、大神氏族に近い。
・中津市下池永 
亀山古墳周辺に13件(43年前のデータ)。
今は消滅した古墳だが、70度Wとすると
、宗像大社を向いていたことになる。
古墳近くに、武田氏(海部尾張氏族)。
・みやま市大草
女山神護石のすぐ西側に、大塚氏16件
(43年前のデータ)。
これは、女性首長を鎮護する人たちか。
同じように女山を囲む壇氏は、宇佐神人たち。
・八女市新庄
大塚氏8件の近くに、壇氏4件(46年前のデータ)
・熊本県大津町
大津町大津・室に、大塚氏53件(33年前のデータ)。
近くには、他氏が少ないほどの大集団。
あえて挙げれば緒方氏(大神氏族)。

これらをみると、大塚氏は、日下部氏族の
中で、大神側に立った人たちに見える。
これが、彦八井命の後裔か。

⑥重政古墳(5期52m)
同古墳の向きは、北西68度Wであり、三重
古墳群の中で、最も北を向いている。
阿蘇地方を向いていないが、古墳群の一つ
としてコメントする。

久留米市草野町草野(大塚氏21件)、久
留米市善導寺飯田(内田氏)、木塚古墳
(鹿子島氏、高木氏)を通過し、糸島市二
丈吉井に至る。
囲む人たちは、甲斐、阿南、大塚、赤嶺氏
などだが、はっきりとつかめない。
ブログ筆者は、立地から、三重町内田に集
中する、内田氏(物部氏族)の勢力と見る。

⑦赤嶺竜ケ崎古墳(中期32m)
「大分の前方後円墳」(1998年大分県
教育委員会)は、同古墳のみ編年を記
載していない。
「前方後円墳集成(九州編)」(山川出版
社)は、他の古墳と同じく中期とする。
  
同古墳の特色は、ここに登場する古墳中、
最も南を向いていること(110度W)
南阿蘇村、御船町を通過し、宇土市野鶴町
の天神山古墳付近に至る。
宇土市には、城ノ越古墳(3期)や向野田
古墳(4期)などがある。

これらは、多氏族の火君の古墳なのか。

古墳を囲む人たちから判断すると、違うと
いう答えがでる。
宇土市の園田氏(多氏族)について、最近
のデータを地図上にプロットし、34年前の
データと照合すると、ほとんどが消えてしま
った。

すなわち、天神山古墳や、城ノ越古墳の近
くには、多氏族はほとんどおられない。
古墳を囲むのは、三輪氏(大神氏族)、石
上氏(物部氏族)、境氏(武内氏族か)など。

天神山古墳の向き(77度E)は、祖母山を
指す。
大神氏族が祖神を祀る山である。
また、城ノ越古墳の向き(120度E)は
、日向国の一之宮都農神社を指す。
都農神社の周りは、三輪氏39件(35年
前のデータ)が囲んでいる。

もう一つ、向野田古墳の被葬者は、女性首
長とみられている。
同古墳の向き(7度W)は、宗像大社に
ピタリと合致する。

これらをつなぎ合わせていくと、三重古墳
群等の被葬者は、立野古墳を別にすれば
、大神すなわちニギハヤヒ命や宗像姫を
奉戴する人たちであると、ブログ筆者は
見る。

第一二一話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(3)

今回の謎解きは、竹田市七ツ森古墳と、
豊後大野市三重古墳群。

前方部が、阿蘇を向く前方後円墳たち。

読者の皆様には、最初に、各古墳を囲む
人たちと、前方部が指す方向の図を見て
いただく。

古墳被葬者の氏族を推理していただき、
次回に、ブログ筆者のコメントを予定
している。

真相は少しずつ明らかになる。
そう思って、お付き合いをお願いします。

<七ツ森古墳を囲む人たち>
121話竹田市七ツ森古墳の周辺図

<三重古墳群を囲む人たち>
121話豊後大野市三重町古墳周辺図補正

<古墳が指す方向:総括図>
121話七ツ森三重古墳群の指す方向

<古墳が指す方向:個別図>
121話古墳の方向1補正

121話古墳の方向2

121話古墳の方向3

121話古墳の方向4












第一二〇話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(2)

今回の謎解きは、大分君の本拠地探し。

阿蘇君・大分君・火君は、同祖の多氏族。
それならば、前方後円墳の向きがつながる
か、もしくは古墳を囲む人たちが共通する
はずと、ブログ筆者は見る。

<阿蘇地方を指す豊後の前方後円墳は?>
次図は、大分県豊後地方にある前方後円墳
のうち、阿蘇地方を指す古墳とその向きを
描いたもの。

120話阿蘇地方を向く豊後の古墳

図から気付いたこと。

①前方部の方向が、阿蘇山火口を通過する
のは3基。
前話で書いた、阿蘇市上鞍掛塚古墳を除け
ば、大分市蓬莱山古墳と豊後大野市三重町
立野古墳。

意識して築造されたと見る。
これらは、最有力候補だ。

②大分君の本拠地として有力な大分市。
しかし、大分市内の古墳のうち、蓬莱山古
墳と野間1号墳しか阿蘇地方を向いては
いない。

これはどうしたことか。
他の古墳は、他氏族のものだろうか。

③豊後大野市三重盆地の古墳は、多くが阿
蘇地方を向いている。
これらの古墳は、多氏族のものだろうか。

この疑問を解くために、古墳周りの人たち
の調査を進めた。

<大分市蓬莱山古墳の周辺図>
120話大分蓬莱山古墳周辺図

本図は、大分川の流れる、大分市西部の台
地が、大分君の本拠地とする説を裏付ける
ものとなった。

被葬者が、大分君恵尺または稚臣の墓とい
われる方墳の古宮古墳は、蓬莱山古墳と
同じ台地にある。
園田氏(多氏族)と甲斐氏(日下部・菊池
氏族)がびっしりと囲んでいる。
阿蘇古墳群の周りの人たちと全く同じだった。

異なるのは、蓬莱山古墳の南方に集中する
田崎氏。
田崎氏は、長崎県が約700件と最多で、
2位茨城県約600件。
九州では、熊本県が6位約300件。
大分県が10位約200件、そのうち15
0件が大分市で、賀久(蓬莱山古墳南の
平野部一帯)に集中する。

多氏族の建借間命が、常陸国に侵攻したと
き、率いた軍勢は肥前の出身だった。
大分君も、田崎氏の人たちを同行してきた
と見る。

<大分市野間古墳群の周辺図>
120話大分市野間古墳群周辺図

大分市東部、大野川河口近くに、野間古墳
群がある。
前方後円墳は50m級3基があり、うち原
形を留めているのは、野間1号墳のみ。
2号墳は消滅、3号墳は後円部のみ現存。

「前方後円墳集成九州編」(1992年山
川出版社)(以下、「集成」という)は、
1・3号墳の築造時期を4期とする。
これは、60mの蓬莱山古墳と同時期だ。
これらも、大分君(多氏族)が築いたもの
だろうか。

<野間古墳群は多氏族の築造ではない>
ブログ筆者は、次の理由から、大分君のも
のではないとの結論に至った。

野間古墳群の南方の宮河内に、阿蘇神社が
ある。
このため、阿蘇君同族の大分君のものとす
る見方が生じる。

しかし、阿蘇神社が勧請された時期は、室
町時代。
新領主の大友氏が、社殿を設けたもの。
神社近くに、椎原氏(大友氏族)が集まっ
ているのが証拠だろう。
また、多氏族につながる人たちは、この図
の範囲におられない。

<野間古墳群の向きは、物部氏族を示す>
「集成」は、野間1号墳の向きを110度
Wとするのみ。
そのため、「野間古墳群緊急発掘調査」
(1967大分市教育委員会)に掲載され
ている復元図から計測すると、2号墳
55度E、3号墳105度W。

各古墳前方部は、どこを向いているのか。

・野間1号墳 110度W
阿蘇市の国造神社北方を通過。
熊本県植木町の塚園古墳付近に至る。
玉東町、天水町を経て島原湾を渡り、雲仙
普賢岳に至る。

植木町の塚園古墳周りは、内田氏が18件
集中する。
塚園古墳の向きは98度W、雲仙市吾妻町
の守山大塚古墳70mに至る。

守山大塚古墳周りには、最近のデータで、
内田氏が19件集まっておられる。

・野間2号墳 55度E
丹生川に沿って北東へ。
坂ノ市の内田氏密集地を向く。
念のため、この先は、松山市、今治市を経
て、敦賀市の気比神社に至るが、意図し
たものかはわからない。

・野間3号墳 105度W
竹田市北端、久住連山、菊池市、鹿央町を
経て、玉名市院内古墳付近に至る。
島原湾を渡り、内田氏の集まる雲仙市吾妻
町の守山大塚古墳に至る。

<豊後最大級の亀塚古墳も物部氏>
大分台地の蓬莱山古墳の築造時期は4期。
一方、海部地域にある豊後最大級113m
の亀塚古墳は、5期に作られている。
亀塚古墳の周りは、内田氏が密集する。

海部地域にある、野間古墳、上ノ坊古墳、
亀塚古墳は、全て物部氏のものと、ブロ
グ筆者は 見る。
すなわち、同時期の豊後国に、大分君と
物部氏は首長として併存していた。

亀塚の向きは170度W。
宮崎県都農町の日向一宮都農神社に至る。
主祭神は大己貴命だが、社殿の周りには、
三輪氏(大神氏族)が密集する。

野間古墳群に近い、丹生(にう)神社の周
りにも、大神氏族の池見氏が集まって
おられる。

<前方後円墳の編年表>
参考までに、本話に登場した古墳と、今後
登場する古墳の編年表を付けた。

古墳編年表

大分君の勢力は、蓬莱山古墳でピークを作
り、壬申の乱における活躍で、輝きを取り
戻した。

一方、日本の歴史形成に物部氏が活躍した
記録は、歴史に埋もれた。
しかし、その勢力の強さは、現代にも地図
上に現れていると判ったことが、今回の
大きな発見だった。

第一一九話 阿蘇君・大分君・火君の古墳はつながるか(1)

神武天皇皇子、神八井耳命後裔の多氏族。

古事記には、全国各地の首長に任じられた
ことが書かれている。

例えば、建借間(たけかしま)命は、常陸
に攻め込み、仲(那珂)国造に任じられた。
鹿島神宮は、同命の古墳の方角を向いて社
殿が建っていることは、第一一二話(2015
年11月)に書いた。

今回、ブログ筆者が注目したのは、九州の
多氏族。
阿蘇君・大分君・火君という君姓の多氏族
が、丁度九州を横断するように並んでいた
ことになる。

この文献記事が、事実だという証拠がみつ
かるか、本拠がわかればよい。
初めは、そんな軽い気持ちで始めた謎解き
だった。

<阿蘇君の古墳周辺図>
119話阿蘇君の古墳周辺図

熊本県阿蘇地方の前方後円墳は二基のみ。
阿蘇神社と北の国造神社の間に、長目塚
古墳(111.5m)と、上鞍掛塚一号墳
(65.5m)がある。

長目塚古墳は、熊本県下でも最大級の古墳
で、前方部からは、女性の被葬者が見つか
っている。
首長か首長並みの扱いを受けている。

同古墳の築造時期は、前方後円墳集成九州
編(山川出版社)では、「4・5期の境目」
とし、阿蘇町史第一巻通史編(2004年)は、
「4世紀末から5世紀初め」とする。

前方部の向きは、N108度Eで南東を向
いている。
大分県と宮崎県の境付近から海に出て、
その先に陸地はない。

同古墳の前に、大円墳の勝負(菖蒲)塚が
あり、この被葬者とつながりがあるのだろ
うか。

もう一基の前方後円墳、上鞍掛塚一号墳の
前方部の向きは、N170度Wで南を向いて
いる。
阿蘇山の火口を通過し、さらにニニギ命を
主祭神とする霧島神宮に至る。
阿蘇君に所縁があると伝わる、阿蘇神社や
高森の草部吉見神社には、何故か向いて
いない。

ブログ筆者は、古墳周りの人に注目する。
30年前のデータでは、甲斐氏13件、
園田氏5件、北西の山裾に井氏9件。

<阿蘇神社周辺図>
119話阿蘇神社周辺図増補版

両古墳の南方、一の宮町宮地に、阿蘇神社
が鎮座する。
3軒ならぶ阿蘇氏の隣に、甲斐氏と井氏が
おられる。
この近さが、これから進める謎解きのヒン
トになりそうだ。

<園田氏は神八井耳命の後裔だった>
太田亮(おおたあきら)氏は、園田氏につ
いて、
「12。肥直  神八井耳命数世の後、肥
直4世の孫が祖名を以て氏となす」と
書いている。(姓氏家系大辞典)

もうここで、多氏族を発見!!

<甲斐氏は難問>
太田亮氏は、甲斐氏について、
「1.甲斐国造 古事記開化段、サホヒ
コ王は、日下部(くさかべ)連、甲斐国造
の祖。
15.菊池氏族 領地をめぐる争いから、
甲斐国に逃れた菊池勢力の一派が、
足利尊氏に属し、大友勢と共に菊池を
攻めたとする伝承を紹介。

しかし、太田氏は、これらは後世の仮冒で
はないか。甲斐国云々も容易に信じがた
し」と記している。

後世に、阿蘇大宮司が逃れてきた時に匿う
など、阿蘇と甲斐氏は、きわめて近いことは
間違いない。

<井氏は古代の祝氏族か>
一文字の井氏が多いのは、熊本県。
特に集中しているのは阿蘇市。

他県で集中しているのは、長崎県対馬市美
津島町加志。
ここでは、中臣氏族にとって最重要人物、
中臣鳥賊津使主(雷大臣)を祀る、大祝
詞神社付近に集まる。

中臣氏族の橘氏、増田氏よりも、神社近く
に井氏が多数おられるのは、古代の祝氏
族であったからだろうか。

大阪茨木市の伝継体天皇陵が、雷大臣の陵
であることは、第七十四話(2013年8月)に
書いた。
見破れたのは、橘さんが前方部におられた
からだった。

<太安麻呂は真実を語ったか>
甲斐氏には、サホヒコ王系統の日下部氏が
おられることがわかった。
しかし、それよりも先に、日子八井命(ひ
こやいのみこと)が草部(くさかべ)を名
乗っていた。
日子八井命系統の日下部氏が、歴史から
消えている。

さらに、草部吉見命は、建久々知(たけく
くち)命の子とする系図が、田中卓氏の著
作(古代阿蘇氏の一考察、高千穂阿蘇:
綜合学術調査報告1960年所収)の冒頭
にある。

高森町の草部吉見神社周辺における、最多
の姓は甲斐氏。

太田亮氏は、甲斐氏は菊池氏族と書いてい
るが、伝承された内容について疑っている。

狗奴国のククチヒコと、日子八井命が、接
点を持ち生まれたのが、甲斐氏ではないか。
これまでの人生で出会った甲斐さんには、
知略に優れた人が多い。

大胆な仮説を、ブログ筆者は立てて、筑紫
編を書き続けてみようと思う。

太安麻呂は、古事記の献上にあたり、渾身
の上表文を書いた。
日子八井命は、神八井耳命の兄であると
書いた。
日子八井命の名前は残した。
真実を語ったのではないか。

太安麻呂の撒いた謎は、日子八井命の後裔
とする手島氏にも及ぶ。
手島・手嶋を合わせて、全国最多200件の
地は、謎の朝倉市。

筑紫古代の謎は、日子八井命と筑紫君の謎
が解けたときに、爆発的に解明される。         
(続く)


第一一八話 難波吉士氏の謎を解く:豊後国東編

第二部筑紫編では、九州内の全前方後円墳の向きと
古墳を囲む人たちの姓氏を可能な限り調べている。

そこから得た教訓は、第一に半数の古墳は被葬者の
氏族が明らかになるとわかったこと。
第二に前方後円墳の被葬者となる氏族は、限定され
ているとわかったこと。
これらの知見を基に、謎解きを深めていきます。

<九州・沖縄の難波氏(灘波氏を含む)分布件数>
(最近のデータによる)
118話九州沖縄の難波氏分布図

県別では、1位大分県、2位福岡県。

市町村別では、
1位 大分県  国東市  36件
2位 大分県  大分市  25件
3位 大分県  豊後大野市 21件
4位 福岡県  北九州市 18件
5位 福岡県  福岡市  17件
6位 鹿児島県 南九州市 13件

<筆者コメント>
難波氏は、奄美諸島におられない。
南から北上した豊饒の民の集団ではなかった。

<国東半島南東部の主要古墳と難波氏の分布図>
(37年前のデータに基づき作成)
118話国東半島東南部の主要古墳と難波氏の分布図

難波氏は、国東半島北部の国見町や、国東町の北中部に
おられず、国東町南部の綱井、武蔵町糸原、安岐町下原に
集中する。

<注目した二つの前方後円墳>
①安岐町下原の下原(しもはる)古墳
同古墳は、25mと小型だが、弥生墳丘墓説がある。
「周溝内出土の供献土器から、1期あるいはそれ以前にさ
か上る可能性がある」(前方後円墳集成:九州1989年)

「出土遺物としては土器類のみであるが、土師器の最古
段階と考えられるものがあり、この小型の前方後円墳の
時期については、古墳時代のもっとも初期のころとされる。」
(日本の古代遺跡49:大分 森 浩一企画、橘 昌信著
保育社 1995年)

ブログ筆者が注目した理由は、難波氏が分布する南限に、
同古墳があること。
ここから北側は、難波吉士氏の領地だと示していると見る。
そして、同古墳のすぐ近くに難波氏がおられる。

岡ケ塚古墳、狐塚古墳、行者塚古墳群近くの難波氏も
考慮すれば、被葬者は難波吉士氏以外に考えられない。

下原古墳は、卑弥呼に仕えた難升米の墳丘墓と考える。
前方部は、宇佐女王卑弥呼につながる、奈多海岸と竹田
市の深田氏(宗像氏族)・高倉氏(海部尾張氏)集団を指
していると見る。

武蔵町・安岐町の難波氏に近い人たちを見ると、藤井氏
(鴨県主族)、安部・阿部氏がおられる。
古代、難波吉士氏の大拠点が、国東半島南東部にあった。

②杵築市三塚の小熊山(こぐまやま)古墳
下原古墳の南6kmにある、全長120m、豊後で最大の
古墳である。
3期ないし4期と考えられている。

この時期に、皇子クラスの大古墳を築いた勢力は、成務
朝に国前国造に任じられた吉備臣同祖、吉備都命の6世
孫牟佐自(むさし)命が考えられる。
牟佐自命は、豊国造に任じられた宇那足尼と同一人物と
も言われる。

岡山の吉備を攻略し、難波吉士氏を配下に収めたように、
国東でも、吉備氏の一族が、難波吉士氏の本領を、領地
として得たと見る。
小熊山古墳を囲むのは、美那元(みなもと)さんたち。
国前国造につながる人たちだろう。

<吉備氏・難波吉士氏・膳氏>
ここまでで、豊後国東半島に、吉備氏と難波吉士氏が
そろった。
ブログ筆者は、雄略朝に、高句麗の攻勢を受けた新羅
国を支援した、任那日本府の3将軍の勢力が、筑紫島
でも近くにいたのではと考え、膳(かしわで)姓を探した。

「武蔵町史」(1962年)に次の記述を見つけた。
「行者原古墳群は、大小20余の古墳あり。すべて円墳か
楕円墳。大きいものは径20m。
イ 岡の塚古墳  最も大きい
ロ 狐塚
ハ 伊美の山古墳
  国東鉄道行者原臨時駅の向い側にある。
  一番形の整った径25mの円墳。
  伊美○○氏の所有。

昭和60年に廃線となった国東鉄道は、杵築駅から国東
半島の海岸線に沿い、国東駅まで引かれていた。
大海田駅と武蔵駅の間に、夏場の海水浴客のために、
行者原臨時駅が設けられていた。
現在は、国道213号線バイパスができているが、旧道を
南から進み、左に曲がる角付近に旧臨時駅跡がある。

そのすぐ隣に、武蔵町指定遺跡・行者原古墳群を解説し
た、案内版が立つ。
「武蔵町は、国前の国造牟佐自命の政庁の地であった」
と書かれている。
そして、難波氏の集団の近くに、伊美氏がおられたこと
がわかった。

大田亨氏は、伊美氏を、膳伴(かしわでとも)氏の後裔で
あるとする。
これに従えば、膳の名を負った人たちが、おられたことに
なる。

伊美氏について、さらに調べてみた。
<国東半島北部の国東市国見町伊美付近図>
(37年前のデータを基に作成)
118話国東半島北部国見町付近図

伊美川沿いに、伊美氏が2件おられる。
「国見町史」(1993年)は、「伊美町には有力者がいて、
(宇那手を祖とする国前臣の)国前国造の支配を受けて
いたものであろう」とする。(164頁)

しかし、伊美氏の出自は、日田の大蔵氏であると書く。
大蔵氏は、9世紀に豊後介に任じられて下向し、12世紀
に源平合戦の功で、国崎郡の伊美郷をもらった。

伊美市は、膳伴姓か大蔵姓か、どちらが正しいのか。

ブログ筆者は、紀姓岐部氏の養子に、大蔵氏がなった
ように、膳伴姓の伊美氏が、後世に大蔵姓に変わった
と見る。
近くにおられるのは、安部氏、竹田氏(海部尾張氏か)。
そして、卑弥呼が遣使した魏曹操の後裔で、邪馬台国
を頼り倭国に亡命した野上氏たちがおられる。

<国東半島西部の状況>
豊後高田市エリアに、難波氏はおられないが、重要と思う
情報を書いておこう。

同市旧真玉(またま)町金屋には、西部最大の前方後円墳、
真玉大塚古墳がある。
全長80m。6~7期。
前方部の向きはN138度Wで、宇佐神宮にピタリ指向する。
34年前のデータでは、古墳の近くに、真玉氏がおられる。

「国東半島史 上巻」(東国東郡教育会編)の202頁は、
真玉氏についてこう書いている。
「真玉氏:西国東郡真玉村
鎌倉以前の真玉氏は大神姓なり。
吉野朝以後の真玉氏は大友姓なり。
大友系なる木付氏を分封して、真玉氏を襲わしめしなり」

豊後に進出した鎌倉勢が、源義経を支援した大神氏族
から激しく抵抗を受けたことが史書に残る。

真玉川の上流には、前述の伊美氏、中下流には、野上
氏38件(34年前のデータ)がおられる。

国東半島は、実に邪馬台国ゆかりの人たちの地であった。


お知らせ

読者の皆様へ

第二部準備のため、しばらく休載します。
第二部は、筑紫編と大和編を予定しています。

「播磨の乙女」
万博公園で見つけた花菖蒲の名前は、播磨の乙女。
景行帝の后妃となった播磨の姉妹が、思い浮かびました。
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・第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2)
     (04/05)
・第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1)
     (03/12)
・第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏 (02/02)
・第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰(01/08)
・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

第一一七話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(2)

(安威川堤から見た生駒山の春景色・2016年4月)
IMG_2401 (370x278)


前話では、大国主命館があった、三刀屋町と木次町
の難波氏の状況を探った。
今話では、大東町と加茂町(いずれも現雲南市)の
難波氏の状況を見てみよう。

117話大東町遠所・仁和寺付近図

本図は、大東町遠所・仁和寺付近図。
難波氏は、JR幡屋駅付近に集まるほか、同姓と見ら
れる南波(なんば)氏が、武田氏の内に見える。

ブログ筆者が注目したのは、武田氏の大集団。
これまで、西日本の武田氏について、海部尾張氏で
あると説明してきた。

その海部尾張氏が、何故大国主命の本拠地近くに
集団をなしておられるのか?
謎はこれだけではない。
以前から解けなかった、海部尾張氏の正体?という
大きな謎が背後にある。

この謎は、簡単には解けないだろうと、しばらくは諦
めていた。
しかし、「今解かねば、誰が解くのだ」という強い気持
ちが、古代史の神様に通じたらしい。

謎は、次の二つの手がかりから解けた。
一つは、古事記にある、大国主命の国づくりの記事。
もう一つは、荒神谷遺跡から出土した銅矛。

<大国主命への協力者>
古事記大国主命の段では、国づくりに協力した神の
名を記している。
①少名毘古那神(すくなびこなのかみ)=神皇産霊
尊命の子
②御諸山神(みもろやまのかみ)=大物主=ニギハ
ヤヒ命

天火明命ともよばれるニギハヤヒ命は、海部尾張氏
の祖。
武田、高倉、速水氏は、いずれも海部尾張氏の一族。

大国主命の本拠に近い、大東町の武田氏の集団は、
古事記に記すとおり、大物主が大国主命に協力した
証拠だろう。

<加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡そして銅矛>
117話加茂町岩倉・神原付近図

本図は、現雲南市加茂町の、岩倉遺跡や神原神社
付近図。
衝撃的データとして、加茂町には、武田氏と難波氏
は全くおられない。

岩倉遺跡の北西4㎞には、銅剣358本、銅鐸6口、
銅矛16本が出土した、斐川町荒神谷遺跡がある。
その斐川町にも、武田氏は全くおられない。
難波氏も1件のみ。それも遺跡からは遠い。

加茂岩倉と荒神谷の両遺跡は、出雲王権の保有し
た銅剣、銅鐸、銅矛が埋納された地。
高木氏、熱田氏の人たちは、両遺跡を囲み、見張っ
ているように見える。
高木氏について、太田亨氏は、紀姓と記すが、高木
神(高皇産霊尊命)の後裔と、素直に見てよいと思う。

両遺跡の近くにおられない、武田氏と難波氏は、近づ
くことを許されていないと見る。
埋納品の一部は、武田氏と難波氏が持ち込んだか、
あるいは、協力して製造したものではないかと、疑問
がわいてくる。

特色ある出土品は銅矛。
荒神谷遺跡から出土した銅矛は、全部で16本。
うち、2本が中細形で、残り14本は大きさが60㎝を
超える、中広形。

韓半島出土の銅矛は、ほとんどが20㎝以下の細形。
中細形よりさらに細い。
中広形の銅矛は、どこで出土しているのか。

銅矛の出土数が集中するのは、長崎県対馬。
対馬には、武田氏44件と小田氏(忌部氏族)119件。
(39年前のデータ)
忌部氏は、矛竿を献上する役目を負っていた氏族。

そして決定的な事実は、韓半島で、同サイズの銅矛
が出土したのは、東南部の金海市。
それも、金官加羅国の初期都邑地の良洞里。
金海市の北方にある大邸から、出土した中広形1本
を除けば、金官加羅国(南伽耶、長屋)の首都、金海
(きめ)に集中している。

海部尾張氏とは、金官加羅国の初期王家の出身で
あった証拠だろう。

紀元2世紀初頭、半島南部の軍事を担った金首露王。
その後裔であるから、大物主を祀る金刀比羅宮は、
丸に「金」の御神紋を用いているのだと見る。

先に書いた、「かや」とよばれる備中国の東阿曾に、
武田氏が大集団を形成していたのも、伽耶出身だ
ったからだ。

読者の皆様は、すでに気が付かれたろう。
奈良時代に、歴代天皇の漢風諡号を創作した、御船
王こと淡海三船。
三船は、栄光の金海(きめ)の地名を基に、欽明天皇
の諡号を創ったのだろうと。

<島根半島の南場氏>

117話平田市坂浦付近図

難波氏と同族と見られる、南場(なんば)氏の集団が、
島根半島北岸の平田市坂浦(現出雲市)におられる。
南場(難波)氏が、三島氏とも近い関係にあると判る。

第一一六話 難波吉士氏の謎を解く:出雲・伯耆の難波氏(1)

島根県の難波氏は、九州1位の大分県(80件)の2倍、
(160件)おられる。
出雲・伯耆の難波氏は、どんな人たちの近くにおられる
のか。

<出雲・伯耆の難波氏分布図>
116話出雲・伯耆の難波氏分布図最終

39年前のデータでは、難波氏は、木次町が1位の43
件。
大東町13件、三刀屋町8件を合わせると、現雲南市
エリアに64件も集まる。
ただし、現雲南市エリアの加茂町と掛合町には、なぜか
難波氏がおられない。

2位は、飯石郡赤来町(現飯南町)に30件。

大きな市では、松江市18件、出雲市8件、鳥取市22
件、米子市17件。
このうち、同じ町内に難波氏が3件以上集まっており、
筆者が注目するのは、松江市大庭と西津田。
大庭は、三島氏が多い。
西津田は、隣家が三島氏。

<三刀屋町・木次町付近図>
116図三刀屋町・木次町付近図(最終)

①三刀屋町
三刀屋町の難波氏は、三屋(みとや)神社へ通じる道
の途中と、斐伊川の対岸に集まる。
三屋神社は、大国主命の館があったとされる場所。

原田常治氏の著書「古代日本正史」(1976年同志社)
の352頁に、「ついに見つけた大国主館跡」と書かれた
その場所。

原田氏は、全国の神社の祭神を調査し、ニギハヤヒ命
が、最も大切な神として祀られていることを証明された。

ブログ筆者は、これに加えて、神社古墳を取り巻く人
たちと、神社古墳の指す方向を調べれば、古代史の
謎がもう少し解けるのではと考えている。

難波氏は、大国主命ともつながりがあるようだ。

②木次町
木次町の難波氏は、斐伊川支流の久野川沿いの木次、
東日登(ひのぼり)に集まる。

深田氏(宗像氏)が、斐伊神社と木次におられるのは、
大国主命が、多紀理姫(タケコ)を娶ったからだろうか。
二人の間には、アジスキタカヒコネ命(建角身命、後裔
は藤井氏)と、高姫(アメノワカヒコの妻)が生まれた。

ブログ筆者が、わからないで苦しんだのは、木次町寺領
に19件集中する宇都宮氏。

宇都宮氏は天下の大姓。
藤原北家の子孫が、下野国に本拠をおき、伊予国や
豊後国等の守護・地頭の地位を得て、全国に広がった
とされる。
しかし、木次町には、宇都宮氏が地頭に任じられた記
録がない。

木次の宇都宮氏は、いつ、どうしてここに来られたの
だろうか。

難波氏の調査を横において、調べるうちに、その謎が
解けた。
結論から言うと、宇都宮氏と宇都氏は同族であった。
また、アメノワカヒコが出雲に天降ったときに同行した。
というのが、到達した答えだ。

宇都宮氏=宇都氏。
九州内の市町村データを基に、同じ町内に宇都宮氏
と宇都氏がおられる市町村を調べた。
その結果、鹿児島県8市、宮崎県3市等、24市区町で
重複していた。

宇都氏の全国データ(最近のもの)は、
1位 鹿児島県  700件
2位 宮崎県   150件
(小林市50件、高原町25件)
3位 大阪府   100件
4位 福岡県    65件

宇都氏の本拠は、鹿児島県と宮崎県。
古代の日向勢力であった。

アメノワカヒコと共に来たと見る証拠を示す。
筑紫勢力が、出雲を調略するために、送り込まれた
アメノワカヒコ。
大国主命の女、高姫と結ばれるが、高皇産霊尊の
ために暗殺された話は有名だ。
彼は、どこから来たのか。

ブログ筆者は、全国の天稚彦神社近くの人たちを
調べた。

①滋賀県豊郷町天稚彦神社
伝承では、領主の高野瀬氏が氏神として、城を守る
ために祀ったとされる。
同神社は、城跡と敦賀市の気比神宮を背にしている。
高野瀬氏は、今も近くにおられる。

高野瀬氏の全国データ(最近のもの)は、
1位 愛知県  19件
2位 宮崎県  15件
3位 東京都   8件
4位 滋賀県   6件

愛知県では、豊田市7件。
宮崎県では、高原町9件、小林市2件。
高原町が、全国最多の市町村だった。
高原町の9件は、全て西麓に集まる。

高原町に隣接する、小林市堤の高野瀬氏は、9件の
宇都氏に囲まれている。
近くに岩戸神社がある。
高野瀬氏も宇都氏も、天岩戸を囲んだ神々だと思う。

宇都氏は、高原町西麓にもおられるが、高千穂峰を
遠望する同町蒲牟田には、「宮の宇都」の地名があり、
高千穂宮跡と言われる。
蒲牟田宇都には、宇都氏が8件集中して守っておら
れる。

②京都府南丹市日吉町天稚神社
1991年に、ダム建設で現在地に移転した神社。
水没した旧地「天若」の地図を見ると、湯浅氏が多い。

湯浅氏は、紀国造氏族。
九州内では、宮崎県300件、福岡県150件、
大分県100件。
宮崎市には200件おられる。
湯浅氏も、日向勢力であった。

アメノワカヒコは、神武に先立つ時代に、日向から出雲
に向かった。
ブログ筆者は、アメノワカヒコの後裔が、宇都氏とは
判断していない。

小林市東方(ひがしかた)には、深田氏6件と武田氏
4件が集まる。
各地で両氏族の強いつながりを感じさせる。

宮崎県北部の高千穂町に、高千穂神社がある。
もう一つの高千穂宮候補地だ。
高千穂町にも、武田氏11件がおられることも、書いて
おこう。

出雲の大東町には、難波氏の近くに、武田氏の大集
団がおられる。
この武田氏の謎解きが、次回に待っていた。

第一一五話 難波吉士氏の謎を解く:吉備の難波氏

前話では、忍熊王側の将軍、難波吉士五十狭茅(い
さち)宿禰の後裔は岸臣であり、吉備にも拠点があっ
たと書いた。

難波吉士氏の謎解きは、まだこれからだ。
次の壁は、吉備の難波氏。

岡山県内の難波姓は、全国一多い約三千件で、他県
を圧倒する。

県内では、次図に見られるように、岡山市北区を中心
に、広く分布しておられる。
115話岡山市北区難波氏分布上(最最終)
115話岡山市難波氏分布図下図(最最最終)

115話児島半島付近図難波(最最終)

吉備の難波氏は、大和葛城国造(三島)剣根命の
後裔であるといわれてきた。

すなわち、日本書紀の欽明朝の記事に、「蘇我大臣
稲目宿禰を備前児島に遣わして、屯倉を置き、葛城
山田直瑞子を以て田令となす」とある。

この瑞子は、剣根後裔と見てよいだろう。
しかし、この瑞子が、吉備全土に広がる全ての難波
姓の祖であると、言い切ってよいのだろうか。

児島屯倉の田令の職名から、田使姓を名乗った一族
が、児島郡司から備前一宮吉備津彦神社付近を含む、
津高郡司になったのは、律令制が成立した時代。

さらに、田使姓を、難波姓に改めたのは、平安末期に、
平家の家人となった頃。
「難波」の名は、津高郡においた拠点の地名から取っ
たといわれるが、それだけだろうか。

ブログ筆者には、忍熊王の反乱が鎮圧された後、
吉備の難波吉士氏は、吉備氏の配下に入って、
共に任那防衛に活躍したと見る。

やがて、任那の滅亡と、吉備氏の衰退に従って、
大和朝廷の直接支配に組み込まれたのではないか
と、疑問を持っている。

瑞子の後裔が、津高郡司として、従来吉備氏の領地
に入り込み、難波吉士氏の人たちを勢力下に取り込
み生まれたのが、吉備の難波氏ではないかと見る。

何故そういえるのか。
吉備の難波氏が、全て葛城山田(三島)直の後裔と
見ると、つじつまのあわないことに気づいたからだ。

次図は、岡山市の足守川中流東岸周辺図。

115話足守川中流東岸の古墳周辺図(最終)

注目するのは、北区上土田の難波さんと初期古墳。
二つの前方後方墳は、
上土田4号墳 1期(吉備津彦命世代)
上土田1号墳 2期(吉備武彦命世代)

上土田の住民は、ほとんどが難波姓であり、この
二古墳の被葬者とつながりがあると見てよいと思う。

しかし、葛城山田直瑞子が吉備にきたのは6世紀。
時代の大きなズレをどう理解するか。

二古墳の前方部の向きは、
上土田4号墳 100度E 大和国櫛羅(尾張氏本拠)
上土田1号墳 100度W 宇佐神宮

被葬者は、宇佐女王と、尾張氏を真の主人として
近くに仕えていた一族であると、筆者は推測する。

それは卑弥呼女王の側近、難升米を出した難波吉士
氏の一族だろう。

宇佐神宮大宮司には、難波姓から養子縁組で入った
人物もおられる。
宇佐女王と難波氏の近さを感じさせる。

筆者は、足守川中流東岸の古墳群は、吉備津彦命
の吉備制圧に協力、従軍した氏族たちに築造が許さ
れたと見る。

上土田古墳群も、吉備津彦命に協力した難波吉士氏
が、功により築造を許されたものと見る。

ちなみに、南に位置する大崎西古墳群は、上土田古
墳群と同時期に築造されている。

大崎西2号墳 1期 120度E  吉備津彦神社
大崎西1号墳 2期 100度W  生石神社

この二古墳の近くに多いのは、皇室の御兄弟(海
幸彦)の後裔とされる大角さんたち。
古墳の型式が、前方後方墳とする説と、前方後円墳
とする説があるのも肯ける。


東に位置する佐古田堂山古墳は、全長150m。
4期(仲哀神功朝) N10度W。
 
大森氏の密集地にある。
大森氏は、吉備臣の祖、御友別命の子、弟彦命
(御野国造)の後裔とされ、備前一宮吉備津彦神社
社家(大藤内)大守氏の同族とされる名家。

被葬者を、弟彦命とみるのは、御友別命の墓を、
5期の造山古墳と考えると、あわない。
それに先立つ世代で、皇子クラスの大きさを持ち、
北北西を向いた古墳の被葬者。
N10度Wには、足守地区の田狭や吉など、吉備氏
発祥地があるのが、ヒントだろう。

田使氏は、難波氏と深井氏に分かれる。
ブログ筆者が、吉備の難波姓には、難波吉士氏の
人たちもおられると確信を持ったのは、次図の深井氏
分布図を作成したとき。

115話岡山市北区深井氏分布上(最終)
115話岡山市深井氏分布図下図(最終)

吉備中山を囲むエリアに、ほぼ限定されていた。
瑞子直系の支配地は、元はこの範囲ではなかったか。

第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰

ブログ筆者は、「第七話難升米の拠点はここだった」
(2011年6月)において、「卑弥呼の使者難升米の
後裔は難波氏」と書いた。
本拠地は、豊国の国東半島にあり、出雲にも拠点が
あった。

難波さんは、岡山県が最多だが、第七話では吉備
の難波氏について触れなかった。

これは、筆者が名を負っている、葛木国造剣根の
子孫が、欽明朝に児島屯倉の田令に任じられ、律
令時代に入り津高郡司となった後、難波姓を称した
とされてきたからだ。

吉備には、難波吉士氏族は全くおられなかったの
だろうか。

それを追い続けてきた今、ブログ筆者は、吉備にも
難波吉士氏族がいたと、確信を得るに至った。

<難波吉士氏と記紀>
難波吉士が、記紀に最初に登場するのは神功朝。
肩書は、応神天皇の異母兄である忍熊王・香坂王派
の将軍。

名前は、書紀は、吉師の祖、五十狭茅(いさち)宿禰。
古事記は、難波吉師の祖、伊佐比宿禰。

難波吉士氏は、6世紀後半(欽明朝)から7世紀中葉
(天智朝)まで、任那・新羅・百済・隋・唐との外交使節
として活躍する。

最初の登場が、皇子の将軍あるいは側近というのは、
この氏族が、並大抵の氏族ではないと察せられる。

不思議なことは、登場以前の活躍や出自が、全くと
いうほど記述されていないこと。

「難波吉士氏の全容を書けば、邪馬台国や倭五王の
秘密がわかってしまう」と編者たちは知っていて、書か
ない道を選んだ、とブログ筆者は思う。

それでも、残された手がかりで、難波吉士氏の謎を
追っていこう。

<忍熊王・香坂王の系譜>
次図は、筆者が作成した、吉備関係の系譜。
114話吉備関係系図1図(最終)
114話吉備関係系図2図(最終)

二人の皇子は、父系(仲哀天皇)からも、また母系
(大中姫)からも、吉備氏の血が濃厚な人物たちと
理解される。

戦いに敗れた忍熊王と五十狭茅宿禰は、瀬田の渡
に共に身を投じた。
かほどに親密な関係は、五十狭茅宿禰も吉備出身
者であり、皇子と共に育ったからだと見てよいと思う。

<五十狭茅宿禰の吉備本拠>
五十狭茅宿禰は、吉備出身あるいは吉備に本拠を
有していたのか。

そのヒントは、太田亨氏「姓氏家系大辞典」の吉士
(キシ)條にあった。
「岸臣は、伊佐比宿禰の裔ならん」(1865頁)

最近のデータでは、岸氏は全国で1万件を超える。
首都圏を別にして、件数の多い市町村を並べると、
1位  岡山市  206件
2位  出雲市  158件
3位  一宮市(愛知) 155件
4位  大阪市  137件

このデータを見て、ブログ筆者は感じるものがあった。
1位の岡山市の支配者は吉備氏。
2位の出雲市は大国主命。
3位の一宮市は尾張氏。

吉備も、元々は、児島飽浦の高倉氏あるいは東阿曾
の武田氏、すなわち海部尾張氏が主役であったろう。

43年前のデータで、岸さんの近くにおられる人たち
を見ていくと、
出雲市芦渡町では、武田氏7件の近くに岸氏12件。
出雲市平野町では、三島氏7件、吉川氏6件の近く
に岸氏8件。
一宮市千秋町では、田島氏(宗像)、長谷川氏(磯
城氏)の近くに岸氏63件。

岡山市では、備前一宮吉備津彦神社の北東、北区
松尾に岸氏が最多。
次図は、岡山市・総社市付近図及び北区松尾付近図。

114話岡山市北区岸氏分布上(最終)
114話岡山市岸氏分布図下図(最終)

114話岡山市大窪・松尾付近図(最終)

狩屋(かや)氏、難波氏、岸氏は、宗形神社をはさん
で集まる。
また、ブログ筆者が、「魏曹操の後裔で邪馬台国に
亡命したと見る」と書いた、野上氏も見える。

神功皇后軍との戦いに敗れた後、五十狭茅宿禰の
一族はどうなったか。
おそらく、難波の名を外し、吉備氏及び大和大王家
の支配下に入ったのは、間違いないだろう。

<神功皇后の遠征と吉備氏族>
書紀は、吉備氏のうち、鴨別命が神功皇后に従軍
し、熊襲国を撃ったと記す。

逆に言えば、吉備氏の中心である御友別命以下は、
動かなかった。
吉備の血を受けた皇子たちと、難波吉士氏が反旗を
翻しても動かなかった。

この功績が、応神朝における御友別命の子供たち
の、国造任命や兄媛の入内につながったと見る。

また、吉備氏ではないが、牛窓の吉備海部直一族も、
遠征に加わったとされる。(改訂邑久郡史上巻)
これが、大伯国造任命や黒比売の入内につながった
と見る。

<神功皇后の新羅遠征と任那諸国>
神功皇后の新羅遠征について、ブログ筆者の疑問
は、金官加羅国や高霊の大伽耶国などが参陣した
様子が窺えないこと。

かじ取りは安曇氏であり、半島への海路をよく知ると
思われる宗像氏や、難波吉士氏族に案内を求めて
いない。
これはどうしたことなのか。

この謎を解くヒントは、日本書紀雄略紀8年の記事
にあった。

「高麗王が新羅に侵入した際、新羅王は任那王に
対して、救援を求めた。
任那王は、日本府の将軍、膳臣、吉備臣、難波吉士
に、新羅救援に行かせた」

任那王とは、後に新羅と婚姻関係に入った大伽耶
国王か。

膳臣は安倍氏族。若狭を領地としたほか、慶雲2年
(705年)の資料には、豊前国みやこ郡に膳臣広国
の名が残る。(日本霊異記)

吉備臣は、伽耶の利権を、吉備の尾張氏から受け継
いだと見る。
新羅を救援したのは、親新羅派の氏族だった。

浮かび上るのは、伽耶と邪馬台国を支えた氏族たち。

筑紫・豊国を支配したあべ氏。
出雲の大国主命。
吉備・丹後・大和の海部尾張氏。
神とあがめられた、宗像姫の倭国女王卑弥呼。

そして、彼らとともに難升米の難波吉士氏が活躍し
ていた。


総目次(第一話~第一一三話)


    大神神社より大和国原の眺望(2015年12月)

IMG_1709 (370x197)

・第一一三話 吉備中県国造は井原市 (11/20)
・第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち (11/06)
・第一一一話 出雲大社を囲む人たち (10/26)
・第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族 (10/03)
・第一〇九話 吉川の楽々森彦 (09/09)
・第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者 (08/23)
・第一〇七話 温羅は百済の王子か (07/28)
・第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず (07/02)
・第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん (06/20)
・第一〇四話 吉備中県は吉備迷宮の入口 (06/02)
・第一〇三話 吉備穴・風治国造の本拠地 (05/16)
・第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん (04/29)
・第一〇一話 神祝命は天日方奇日方命(2) (04/03)
・第一〇〇話 神祝命は天日方奇日方命(1) (03/13)
・第九十九話 加古川市大型古墳の指すところ(3) (02/26)
・第九十八話 加古川市大型古墳の指すところ(2) (02/09)
・第九十七話 女王卑弥呼のサバイバル外交 (01/25)
・第九十六話 加古川市大型古墳の指すところ(1) (01/09)
・第九十五話 吉備の謎解きにかかる前に (12/04)
・第九十四話 大古事記展&砺波臣は吉備氏か武内氏か(4) (11/10)
・第九十三話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(3) (10/16)
・第九十二話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(2) (10/01)
・第九十一話 砺波臣は吉備氏か武内氏か(1) (09/17)
・第九十話   高志深江国造の本拠、燕市吉田本町 (07/23)
・第八十九話 素都乃奈美留命 (06/29)
・第八十八話 勅使塚・王塚はあべ氏の古墳 (06/08)
・第八十七話 道君の本拠、小松市河田町 (05/10
・第八十六話 振姫父の姓氏は品治部君 (04/12)
・第八十五話 越前の広域首長はどの氏族か(2) (03/29)
・第八十四話 越前の広域首長はどの氏族か(1) (03/11)
・第八十三話 白山を向いていた伊勢神宮 (02/14)
・第八十二話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(3) (02/07)
・第八十一話 白山比咩神社を向いていた神明山古墳(2) (01/15)
・第八十話    白山比咩神社を向いていた神明山古墳(1) (01/03)
・第七十九話 網野銚子山古墳の主とその勢力圏 (12/07)
・第七十八話 丹後蛭子山古墳の主は建諸隅命か (11/18)
・第七十七話 丹後の謎にどう迫るか (11/05)
・第七十六話 丹後を向く見瀬丸山古墳 (10/23)
・第七十五話 阿武山古墳と南越国王墓 (09/06)
・第七十四話 伝継体陵は雷大臣命 (08/23)
・第七十三話 継体陵はどちらか (08/08)
・第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣 (07/24)
・第七十一話 川上麻須は安曇氏族 (07/11)
・第七十話   ハラミの宮を向いていた垣内古墳 (06/20)
・第六十九話 中畷古墳は和邇氏の将軍 (06/01)
・第六十八話 口丹波の首長たちはどこから来た (05/15)
・第六十七話 丹色の湖の支配者 (05/02)
・第六十六話 田油津媛を鎮魂する人たち (04/12)
・第六十五話 羽白熊鷲を攻めた軍勢 (03/30)
・第六十四話 仲哀天皇の船を止めた神 (03/06)
・第六十三話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(2) (02/02)
・第六十二話 ヨサミアビコから瀬織津姫へ(1) (02/02)
・第六十一話 倭国女王たちの系譜 (01/20)
・第六十話   ワシでもタカでもなかった姫 (01/03)
・第五十九話 葛城と平岡 (12/17)
・第五十八話 三島氏・五十迹手・天日槍は同族 (12/01)
・第五十七話 剣根の古墳が指す山 (11/19)
・第五十六話 葛城国造剣根の人脈 (11/07)
・第五十五話 奄美から見える古代・・・奄美大島 (10/25)
・第五十四話 奄美から見える古代・・・喜界島 (10/11)
・第五十三話 奄美から見える古代・・・与論島 (09/25)
・第五十二話 奄美から見える古代・・・沖永良部島 (09/20)
・第五十一話 糟屋屯倉は多々良川中流域にあった (08/05)
・第五十話   倭国の斎域・岡本遺跡 (08/04)
・第四十九話 八尋さんは藤原姓 か (08/04)
・第四十八話 白水さんは海人か (08/04)
・第四十七話 春日市岡本遺跡付近の人たち (08/03)
・第四十六話 春日氏の博多拠点は金の隈 (07/26)
・第四十五話 意祁(おき)と姥(うば) (07/18)
・第四十四話 出雲市西岸に集中する春日さん (07/11)
・第四十三話 知られざる権勢家・藤原袁比良 (06/23)
・第四十二話 和邇袁祁都比売命 (06/09)
・第四十一話 中国名家の袁氏と日本書紀 (05/16)
・第四十話   玉垂宮を囲む内田さんと隈さん (05/09)
・第三十九話 水沼県主の本拠地は大牟田だった (04/28)
・第三十八話 高良玉垂命は武内宿禰ではなかった (04/22)
・第三十七話 竹内氏の勢力圏 (03/29)
・第三十六話 葛城襲津彦後裔氏族の勢力圏 (03/29)
・第三十五話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-2 (03/29)
・第三十四話 蘇我石川宿禰後裔氏族の勢力圏-1 (03/29)
・第三十三話 紀角宿禰後裔氏族の勢力圏 (03/22)
・第三十二話 武内宿禰後裔氏族の勢力圏を探る (03/22)
・第三十一話 尾張氏の聖地、氷上を護る (02/25)
・第三十話   豊前御所山古墳を囲む人たち (02/25)
・第二十九話 宇佐神宮を向いていた石塚山古墳 (01/31)
・第二十八話 平塚川添遺跡と鶴翼(かくよく)の陣 (01/08)
・第二十七話 あわき原の青木さんたち (12/28)
・第二十六話 藤大臣は、奴国の大神官だった (11/30)
・第二十五話 住吉神を祀る藤さんたち (11/30)
・第二十四話 藤(とう)大臣はおられたのか (11/30)
・第二十三話 姫島と伊勢をつなぐ人たち (11/18)
・第二十二話 武内宿禰はタケミカヅチの後裔だった。 (10/25)
・第二十一話 筑紫君薩夜麻と氷連老が隠遁した里 (10/10)
・第二十話 神話から歴史へ (10/07)
・第十九話 筑紫物部から鎌倉御家人へ (09/19)
・第十八話 荒神谷と加茂岩倉を囲む人たち (08/25)
・第十七話 大和当麻の謎に迫る (08/04)
・第十六話 役行者所縁の地を訪ねる (07/25)
・第十五話 投馬国は長崎にあった (07/13)
・第十四話 都市牛利さんの拠点は鷹島 (07/07)
・第十三話 タケハニヤスヒコの反乱 (07/04)
・第十二話 黒塚古墳の被葬者は豊鍬入姫命 (06/26)
・第十一話 長スネ彦は邪馬台国の宰相だった (06/22)
・第十話 春日建国勝戸売と大彦命 (06/22)
・第九話 大夫伊聲耆さんの拠点は行橋と口之津 (06/20)
・第八話 伊香賀色謎(イカガシコメ)立后の衝撃 (06/04)
・第七話 難升米の拠点はここだった (06/04)
・第六話 三島勢のライバル椎根津彦 (06/03)
・第五話 吉野ケ里の人々はどこに行ったのか (06/02)
・第四話 ヒミコに仕えた女性達を追う (06/01)
・第三話 アマ・ミクからヒミコへ (06/01)
・第二話 金印の島の支配者 (05/31)
・第一話  一大率・伊都国王は三島さんだった。 (05/30)

      大神神社の拝殿を仰ぎ見る

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第一一三話 吉備中県国造は井原市

113話県主神社写真

井原へは、岡山駅から吉備線で総社へ。
総社駅で乗り換えて清音駅。
一旦、駅を出て井原鉄道に乗り、高梁川を渡り、真備
町を西に向う。

途中の呉妹(くれせ)駅では、銅鐸の出土地に向けて
写真を撮る。

「イバラー」というアナウンスで、電車を降りたところ、
運転士さんが追いかけてきた。
「お客さんは、イハラに行かれるのではないですか。
ここは、エバラで、イハラは次の駅ですよ」

親切な案内で、井原にたどり着いた。
どうしても自分の目で確かめたい場所があった。
それは県主(あがたぬし)神社。

ブログ筆者は、県主神社が、西の備後方面から
伸びてきた、三島・藤井勢力の先端であり、東から
伸びてきた、吉備・物部宗家勢力と向き合う場所
ではないかと考えていた。

しかし、県主神社の祭神は、吉備氏族の笠臣の祖、
鴨別命。
この神社が、はたして吉備氏族ゆかりの神社又は
古墳を向いているのか。
それを確かめに出かけた。

またその結果には、吉備中県国造始祖の神祝命を、
天日方奇日方命と見る筆者の仮説が、成り立つか
どうかも、かかっていた。

井原市には、注目する神社が3社ある。
市内唯一の式内社、足次山神社。
そして、武速神社と県主神社。

また、市境を越えた笠岡市走出には、この地方最大
級の前方後円墳2基があり、被葬者は不明となって
いる。
第一〇四話で、「吉備迷宮の入口」と書いた吉備中
県の謎を、ビックリポンで一気に解こうというのが、
本話のテーマである。

113話井原矢掛笠岡市境界図

<足次山神社>
同神社は、元は北西の芳井町天神山にあったという。
「現在は井原町倉掛にあるが、応永年間(1394-
1428)に、芳井町の天神山から遷座したものといわ
れている」(井原市史Ⅰ 313頁)

37年前のデータによると、芳井町天神山には、藤井
氏が6件。
その入口にあたる西吉井にも、22件と最多。
また、西吉井には、早川氏が9件おられる。

井原市史に従えば、14世紀末までは、藤井・早川氏
らが、山中で祀っていたことになる。

同社の祭神は、阿須波神。
式内社調査報告第22巻(1983年皇学館大学出版
部)は、「祭神は阿遅鋤高日子根命であろう」と書い
ている。

同命は、大国主命と、宗像姫の多紀理比売命の間
に生まれた御子。

早川氏は、福岡県旧玄海町の宗像大社を取り巻く
人たちであることを考えると、出雲神を奉じる藤井氏
と、宗像神を奉じる早川氏が集まっていることになり、
納得できる。

14世紀末頃に、現在地に遷座したのは、南北朝
の戦乱終結(1392年)が関わるか。
足次山神社の神職は、代々大塚氏の世襲。
大塚氏は、太田亨氏の著書によれば、藤原姓。
遷座は藤原氏が中心となって行われたと見る。

その際、社殿の向きは、東方の吉備武彦命の尾上
車山古墳を、背は備後吉備津神社に向けられたと
思われる。

<武速神社>
11世紀初めに、武速神社は創建されている。
祭神はスサノオ命。
社殿は、三島氏が集まる、南方の県主郷西方に
向いており、背は、三島氏が34件も集まる松江
市大草を指している。

<県主神社>
結論を先に云えば、県主神社以西の地域が、吉備
中県国造の支配地域であったと見る。

県主神社を囲むのは、藤井、三島、内田(初期物部)
さんたち。
隣接する小田郡(笠岡市北部、矢掛町)に集まる、
中原、森谷、高木さん達とは、明らかに異なる。

県主神社の社殿の向きは、東方N92度E。
大和国大神神社に向いている。
祭神鴨別命といいながら、吉備氏関係の神社、古墳
を向いていない。

<長慶寺山古墳群>
笠岡市走出の2古墳の被葬者について、吉備氏と
する説もあるようだが、一番近いのは森谷さんたち。
そして、2古墳の築造時期が、雄略朝以降(6期と
7期)であることがヒントになる。

森谷氏が、物部宗家の人たちと見たとき、答えがでる。

雄略朝に、雄略天皇が差し向けた、物部兵の奇襲に
より、吉備下道国造一族70人が殺害される事件が
起きた。
つづいて、吉備上道一族も、上道臣田狭の反逆と、
雄略没後の星川皇子の反乱により、吉備氏族は
大打撃を受けた。
吉備氏が有していた山部を取り上げたと、書紀は
書いている。

掲載した図の、中原、森谷、高木さんに共通する点
は、山部さんが側におられること。

2古墳の向きは、N110度WとN115度W。
物部発祥の地、九州の豊前国を指す。

笠岡、矢掛町は、吉備氏族の支配地域であったと
見て良いと思う。
真備町から小田郡までの支配は、鴨別命後裔の笠
臣に、実質は、物部宗家の支配下に移ったと見る。

<吉備中県国造明石彦>
井原市域には、物部宗家(守屋、森谷)の名は、
極めて少ない。
出雲・海部氏勢力が開拓した土地が、崇神朝に、
吉備中県国造として明石彦に与えられたと見る。

明石彦という名前。
大物主家に、大和氏の姫が嫁している。
大物主家の大御気主命に、大和氏の民磯姫が
嫁ぎ、阿田片隅命と建飯賀田須命が生まれている。

阿田片隅命は、宗形君・宗形朝臣の祖。
建飯賀田須命は、三輪朝臣の祖であり、太田田根子
の父。
姓氏録では、宗像・大神・賀茂朝臣は同祖とある。
皆、大和氏の血を受けていることになる。

大和氏ゆかりの地名、明石の名を受けた大物主家
出身の人物が、明石彦だと見る。

何故、大物主家の阿田片隅命が、宗像の三女神を
祀るために送られたのか。
しかも、ブログ筆者の謎解きでは、皇女を娶っている。
(第十話 春日建国勝戸売と大彦命2011年6月)

崇神朝に、大物主家が復活した際、三輪神とともに、
宗像三女神の祭祀も復活したと見る。

倭国女王卑弥呼の側にいた男子は、弟の大海命。
卑弥呼の姉妹の後裔である大物主家が宗形氏を
名乗り、大海氏から祭祀を引き継いだと見る。

後に、大海人皇子は、大海氏に育てられ、宗像姫を
妃とし、高市皇子が誕生する。
大海氏がおられるところが、邪馬台国の位置だろう。

<神祝命を祖とする5国造の後裔>
藤井氏と三島氏の深いつながりを、何話にもわたり
追いかけてきた。
その集大成が、吉備中県国造の謎解き。

神祝命が、大物主家の祖、天日方奇日方命とする
仮説が正しいとすれば、5国造後裔の姓氏は、
次表となる。

113話神祝命5国造の後裔

ブログ筆者は、神祝命後裔に与えられた5国造は、
邪馬台国連合に属した国々だと思う。


第一一二話 大国主命の背中に並ぶ一宮たち

出雲大社本殿の不思議。

「大国主命の御神体は、西方を向いて座っておら
れる。参拝者は、命の横顔を拝んでいる」と、よく
聞かされてきた。

いったい、どこを向いておられるのだろう。
複数の図面を計測し、地図上に線を引いたところ、
新しい発見があった。

<背中に一直線に並ぶ一宮たち>

112話大国主の背に並ぶ一宮

御神体の向く方向は、西方N95度W。
引いた線は、西隣に接する筑紫社(多紀理比売命)
の横を通り、稲佐浜から海上にでる。
到達するのは、九州ではなく、半島南部、金官加羅
国の都があった金海(きめ)。

出雲国大国主命、宗像姫、金官加羅国がつながり、
大きな勢力を持っていた証拠だろうか。

ブログ筆者が、新発見と言ったのは、大国主命の
背中、N85度Eの線上に、5か国の一宮たちが
並んでいたこと。

また、一宮ではないが、松江市大庭の神魂神社も
同じ線上にある。
出雲国造の屋敷内にあった、ともいわれる神社。


<北を向く鹿島神宮の本殿>
次図は、各神社本殿の向く方向を、書き加えたもの。

112話北を向く鹿島神宮本殿

鹿島神宮のみ北を向いており、御神体は東方を向く。
同社と出雲大社は、対称的に作られていると、指摘
されている。

112話出雲鹿島本殿内配置図

鹿島神宮本殿が北を向いていることについては、
「社殿の北向きは、北方鎮護の意味を持っている
のだといわれる」と、「式内社調査報告」(第11巻 
1976年皇学館大学出版部 457頁)は書いて
いる。

しかし、それだけなのだろうか。
社殿の向きは、N20度W。
線を引くと、大型古墳に到達した。

水戸市愛宕町にある水戸愛宕山古墳。
墳長137mの前方後円墳。

112話茨城県内の古墳神社関連図

同古墳について、水戸市史上巻(1963年水戸市)
は、「那珂国造の初祖、建借間(たけかしま)命の
墓であろうといわれる」と書いている。

立地、規模から、国造の古墳として申し分ない。
また、ネット上も、そう解説する記事が多い。

成務朝であれば、3期頃の築造となるはずが、「前
方後円墳集成」(東北・関東編 1994年山川出版
社)は、5期の古墳と見ている点に、謎が少し残る。

<常陸風土記と建借間命>
常陸風土記は、今の霞ヶ浦付近の攻略に果たした、
建借間命の活躍を記録している。

「崇神朝、東国征定のために、神八井耳命の後裔、
建借間命が派遣された。
安婆島(今の大杉神社の位置?)に宿営したとき、
東の浦はるかに、賊がいると知り、軍船で海を渡り、
敵と戦い勝利した」

その功績で、成務朝に、那珂国造に任じられたと
いわれる。
鹿島神宮の御神体はN70度E、東方の海を向き、
背はN110度Wを向く。
N110度Wの線は、奈良県田原本町の多神社
(祭神は建借間命の祖、神八井耳命)に到達する。

本殿が、建借間命の墓とされる愛宕山古墳を向く
ことと、合わせて考えたとき、鹿島神宮は、建借間
命と、大きな関わりがあると見る。


第一一一話 出雲大社を囲む人たち

吉備津神社、上賀茂神社と、藤井さんを追いかけて
きた。
そして神社の双璧である出雲大社にも、藤井さんが
多いと気が付いた。

<出雲大社周辺図(42年前のデータ)>

111話出雲大社周辺図

本図に記した姓氏別件数は、次のとおり。
藤井 45件    神門 8件
祝部 30件    竹内 7件
椿   29件    千家 3件
青木 20件      三島 2件
吉川  19件     北島 1件


藤井さんが最多という事実。
藤井さんとは、一体どんな人たちなのだろうと、
改めて思った。

<出雲大社を囲む人たちの解説>
①千家・北島家  出雲臣氏族
出雲大社御本宮の東西に隣接する、出雲国造家。
アマテラスの御子の一人、天穂日命の後裔。
現在の松江市大庭に天降ったとされ、奈良期初め、
出雲国造家は大庭から、出雲に移転したとされる。

②三島氏  三島県主・葛木国造
前話の図に示したとおり、古代松江の政治中心地
に、大勢力を擁する三島氏。
しかし、出雲大社周辺では、堀川の外側にいる。

③神門氏  出雲臣氏族
38年前の島根県データによれば、
市町村  かんど  こうど  
大社町   ―    13
出雲市   1    32 塩冶7、大津5
斐川町   ―    37 美南11、神氷9、直江7

松江市  46     6  

④吉川氏
神在月に、諸国から集まる神々を迎える、稲佐浜。
そこで最多は吉川さん。

ブログ筆者は、吉川さんについて、三島氏の護衛
隊であると、繰り返し述べてきた。
しかし、吉川さんが何故稲佐浜に多いのだろうか。

⑤青木氏  忌部氏族
祭祀に係る氏族

⑥椿氏  中臣氏族
祭祀に係る氏族

⑦竹内氏 武内氏族
御本宮の東方に鎮座する、命主社近くに集まる。
神魂伊能知奴志(かんたまいのちぬし)神社が、
正式名。
祭神は、神皇産霊尊(かみむすびのみこと)

式内社調査報告第20巻(式内社調査会編皇学館
大学出版部1983年)は、由緒をこう書いている。

「大国主命が、兄の八十神から焼石の御難にあわ
れたとき、さきがい比売とうむぎ比売の二神をお降
しになった。
その二神は、同社坐伊能知比売神社の祭神であり、
その降臨を命ぜられたのが神皇産霊尊で、命の大
恩人というべき神で、文字通り命主で社名がそれを
現している」

武内宿禰は、神皇産霊尊直系の紀国造家の姫を
母とする。
藤井さんも近くにおられるのは、鴨建角身命が、
神皇産霊尊の後裔とする伝承が正しい証拠か。

⑧祝部(ほおり)氏
神在月に、諸国から集まった神々の会議場、上の
宮(仮の宮)周辺で、最多の祝部さん。
祝部さんとは、どんな人たちか、新たな謎であった。

<祝部さんの謎>
・太田亨氏の著作「姓氏家系大辞典」によると、
鴨県主氏族であり、天智朝に宇志が祝部宿禰とし
て日吉神社の祝を最初に務めたとする。

・日吉神社の祭神と祭祀氏族については、岡田精
司氏の研究「日吉神社と天智朝大津宮」(日本書
紀研究第16冊 塙書房1987年)がある。

それによると、滋賀大津京の北方5キロに鎮座する
日吉(ひよし)大社は、比叡山の地主神である大山
咋(おおやまくい)神の祭祀は古いが、天智天皇が
近江京を築いたときに、大和三輪神を勧請して、
鹿島から来た鴨県主氏の宇志が、社殿を初めて
建てたとする伝承を伝えている。

大宮に祀られた三輪神の神位は正一位。
二宮の大山咋神は従四位。

都の鎮護のために、三輪神を勧請したとき、大神
氏族が同行しなかったのは何故か。

それは、前話で指摘したように、賀茂県主氏族は、
鴨建角身命を始祖とするが、養子縁組により、鴨
県主氏の宇志が、大物主の血を受けた大神氏族
だったからと見る。

「諸社祠官系譜」(江戸期成立か)には、別雷神宮
(賀茂社)祠官16家の中に、祝部氏がおられ、日
吉神社社司にも祝部氏がおられたことがわかる。

祝部宿禰系図では、平安時代末期に、日吉神主
の祝部氏の女が、賀茂社禰宜の室となっている。
両神社の社家が、賀茂県主氏族の同族であった
と筆者は見る。

・出雲祝部氏と京都滋賀の祝部氏は同族か。
太田亨氏の著作にも、他の著作にも、まだ見て
いない。

最近の全国データによると、
祝部 全国89件、 島根県51件、 大阪府6件、
京都府2件 等。
島根県が過半数を占めている。

38年前のデータによると、
祝部 島根県49件
大社町40件、出雲市6件、松江市2件、安来町1件。
このうち出雲大社周辺30件。
これは、出雲大社のために集まっておられるとしか
考えられない。

祝部  京都市6件
このうち、賀茂社近くの北区に1件。
西隣は吉川さん。
上の宮の祝部さんと稲佐浜の吉川さんのようだ。
ブログ筆者は、確かな証拠は提示できないが、
出雲の祝部氏も、賀茂県主氏族と見る。

<藤井氏・三島氏・吉川氏の関係>
藤井氏について、推測する時期がきている。
読者の皆様には、次の二枚の図をみてほしい。

111話加茂町付近図上
111話加茂町付近図下

この図は、藤井氏と三島氏が、全国最多の福山市
の中でも、加茂町中心部の分布図。
羽場(はば)神社は、日本武尊が悪神と戦ったとき、
人々が協力した地。
楽々森彦の後裔が藤井さんたちであり、楽々森彦
の女と吉備氏の間に生まれた媛が、景行天皇妃と
なり日本武尊を生む。
ここにいるのは、日本武尊の身内の人たちだ。

111話葛木御県神社周辺図

この図は、葛木御県神社の周辺図。
葛木国造(三島)剣根命が祭神。
護衛隊である吉川さんたちが外を守り、藤井
さんたちが祭神を祀っている構図。

<藤井氏は、三島氏あるいは三島の血を受け
た大物主家(鴨県主氏を含む)を、主と仰いだ
人たちではと、ブログ筆者は見る>

第一一〇話 楽々森彦は八咫烏の同族

<京都鷹峯>
鷹峯 - コピー (380x273)

京都市北西部に完成した、東急ハーベスト京都鷹峯
に宿泊した。
自分の力で泊まったのではなく、子供が手配してくれ
たお蔭。

場所は、本阿弥光悦が住んだとされる、光悦寺の南。
本館から南館へは、専用ケーブルカーで移動。
谷川の音を聴き林を眺める、温泉露天風呂は広大。
隣接する日本庭園は、着物で財をなした西陣の豪商
が作ったもの。
聳える鷹峯と苔寺にあるような青苔が美しい。

<今話のテーマ>
前話で、楽々森彦の後裔が、吉備津神社等の社家、
藤井氏であることを書いた。

楽々森彦とは、どんな人たちだったか。
全国の藤井氏の調査結果を、引き続き紹介しつつ、
真相に迫ろうと思う。

<上賀茂・下鴨神社付近の藤井氏分布図>
ここに紹介するのは、京都市にある上賀茂神社と、
下鴨神社付近に集中する藤井氏。
これはまた、従来不明とされてきた鴨氏の謎解きで
あった。

110話上賀茂・下鴨神社藤井氏分布図(上)
110話上賀茂・下鴨神社藤井氏分布図(下)

37年前のデータによると、藤井氏は、
京都市北区上賀茂エリアに91件。
京都市左京区下鴨エリアに35件。
さらに、この図の範囲を超えた、北方の鞍馬の奥、
左京区花背に33件集まっておられる。

<賀茂県主社家におられない藤井氏>
上賀茂エリアの、梅ヶ辻、竹ヶ鼻、岡本など、社家町
と呼ばれるエリアに集中している。
当然、上賀茂・下鴨神社に関わる人たちである。

しかし、不思議なことに、両神社の社家が作る、賀茂
県主同族会には、藤井氏はおられない。
社家を名乗る50数家に、藤井家がない。
「賀茂県主同族知新録」( 1964年  賀茂氏系図
保存会東京分室)

しかし、これが、鴨氏の謎を解く鍵であった。
藤井氏と、賀茂県主後裔を名乗る社家との繋がりは、
近世にようやく見つかった。
明治時代に、社家の中大路家から藤井氏への養子
縁組が、2件行われている。
その逆はない。

外部に養子を出している先は、他に芦田氏。
芦田氏は、兵庫県丹波市氷上町御油にある、神野
神社を囲む人たちで、その数は、33年前のデータ
で33件。

芦田氏は、太田亨氏の著作によれば、天津彦根命
の後裔、天麻比止都乃命(山代直の祖)を祖とする
という。

神野神社の祭神は、賀茂建角身命の妻、伊可古夜
日女(いかこやひめ)。
彼女は、山背国造家となる一族の出身だった。

外部から養子を受け入れたのは、近世では中本氏。
中本氏は、元は大和富雄の名家で、ニギハヤヒ命に
血でつながる人たちと知れば、納得できる。

<賀茂県主家から三輪神主へ>
外部に対し、極めて重要な養子縁組が、室町時代に
行われている。
下鴨神社神主、賀茂県主祐春の子、国祐は、養子縁
組で大和三輪神主となっている。

国祐の母と祖母は、いずれも大神神社神主家出身の
女性。
国祐の子孫は、代々神主を務め、明治に至った。
大物主(ニギハヤヒ命)を祀る三輪神主は、大物主家
の血を男系で受け継いでいるはずだ。

賀茂県主家は、大物主の後裔であった。
賀茂県主の後裔が、外部からの養子を厳禁として血
脈を守ってきた理由がわかる。

<カモ(別雷)社斎主は、何故、いつ変わったか>
これについては、ホツマツタエが答えを出している。

①最初は、賀茂建角身命(八咫烏)が祀った。
山背葛野に定着した賀茂建角身命が、最初に別雷
命を祀った。
女の玉依姫が神妻となって、大物主とその後裔を
祀ったと見る。

②次に、賀茂建角身命の妻、伊可古夜日女の実家
が、山背国造となり、その女が祭祀を引き継いだ。

ホツマツタエ人の巻30には、こう書かれている。
・神武2年 論功行賞
アタネをヤマシロのカモの県主に任命
ヤタガラスをウガチ村の直頭
ヤタガラスの孫を葛野県主に任命
・神武4年
アタネにカモタケヅミの祀りを継がせて、山背国造に
任命

(ブログ筆者注)
・アタネとは、天津彦根命の後裔の阿多根命(山背
国造祖)
・ヤタガラスは、宇陀の一角に新たな領地を得た。
新宮熊野村から、藤井氏をプロットしていくと、神武
東征の道をたどることができる。

新宮市(熊野村)から熊野川をさかのぼり、本宮町を
経て十津川へ。
十津川に沿って、天川村、黒滝村を経て下市へ。
吉野村から大宇陀にでる。
榛原高塚の八咫烏神社。
宇陀市北部の室生に、藤井氏が集まっておられる。

③大物主家が、カモ社(別雷)の常任斎主となる。
ホツマツタエ人の巻37にはこう書かれている。

・朝廷から追放された大物主家は、崇神朝に太田田
禰子が大神神社の斎主として復活した。

彼は、老朽化したカモ社を、垂仁天皇に進言して新築
し、宮遷しの勅使を務める。
これまで社を祀ってきた、山背国造大国サラスから、
女(神妻)の嫁ぎ先について相談を受け、カモ神の神
前で決する。

・翌年、垂仁天皇は、ヤマシロカモ社に行幸。
太田田禰子の孫、大鴨積命を別雷社の常任斎主と
する。

賀茂建角身命の血は、山背国造家、大物主家と交
流し、後の賀茂県主一族が生まれたと見る。

京都大学の吉川真司氏は、「京都府の歴史」(1960
年山川出版社)30ページに、こう書いておられる。
「(ヤマトの)鴨氏は、もとの葛野県主一族と、婚姻関
係で結びついてその地位を継承したと、ひとまず推測
しておくことにしよう」

<藤井氏と三島氏、出雲諸神との関係>
八咫烏、楽々森彦の後裔である藤井氏が、三島氏、
出雲諸神とどのような関係にあるかが、本テーマの
主題である。

<松江市における藤井氏・三島氏分布図>
110話松江市の藤井氏分布図(上)
110話松江市の藤井氏分布図(下)

110話松江市の三島氏分布図(上)
110話松江市の三島氏分布図(下)

藤井氏が、全国最多の市町村が、広島県福山市で
あることは、覚えておいてほしい。
松江市、出雲市に、藤井氏は100件以上おられる。

三島氏が、全国最多の市町村も、広島県福山市。
第2位が島根県松江市。

本図で注目するのは、出雲諸神との距離。
熊野大社(スサノオ)、神魂神社(カミムスビ)に近い
三島氏。
藤井氏は、山代神社(大国主命御子山代日子命)の
付近までしかおられない。

三島溝杭耳と賀茂建角身命を、同一人物とする系図
があるが、ブログ筆者は、この分布図から、三島氏が
賀茂建角身命一族の本来の主人であったと見る。
                          (つづく)


第一〇九話 吉川の楽々森彦

吉備津彦命の家来で、ブログ筆者が注目するのは、
楽々森彦(ささもりひこ)。

昭和15年、岡山県が発行した「備中誌」加陽郡大井
郷下高田村の条には、楽々森彦の活躍が、漢文で
書かれている。

長くなるが、ブログ筆者の読み下し文は次のとおり。
「楽々森明神廟
鬼城縁起に云う。
鬼神は、月支国より来り、岩屋に立て籠もった。
吉備津彦命に命じて、追討させた時、楽々森彦は
官軍の奉行だった。
たちまちに百里を翔び、常に葦守山に有って国郡
を守った。(中略)
鬼神の眷属(身内)で、夜行する者があり、毎夜人
を捕えたので、吉備津彦命は、楽々森彦に命じて
討たせた。
楽々森彦は、鬼城の麓に飛んでいき、待ち受けて
戦い、刀で刺して殺した。(中略)
吉備津彦命は、鬼神を弓で射た。
鬼神はかなわぬと思った。
洪水が起こり、逆浪が砂を流した。
鬼神がこの中に飛び込むと、濁水はたちまち血に
染まった。
楽々森彦は、この血を吸い乾かした。
鬼の神通力は既に衰え、鯉魚となって川を下った。
吉備津彦命は、鵜となり、これを喰いあげた。

また、加陽為徳の吉備津宮古記は云う。
吉川の楽々森彦を軍の司として、吉川の城に宿り、
窟山の麓に柵を作り、明け暮れここを守ったと。
温羅はかなわずして、水中を真魚の如くに泳ぎ逃
げたが、楽々森彦はかねてより水泳が絶(上手)
なりければ、浮きつ沈みつ鵜の如く、ついに温羅を
捕らえて吉備津彦命の御前に参ると。

また、吉川村には、今も楽々森という所あり。
その地の神なるべし」


長々と引用したのは、楽々森彦とは、どんな勢力
か、明らかにしたいため。

楽々森彦には、飛翔能力があり、また、強い戦闘
力があった。
まるで鞍馬の天狗だ。

さらに重要なことは、彼の女、高田媛が、吉備津彦
命の妃となったこと。
後裔の針間稲日太郎姫命は、景行后となり、日本
武尊から皇統へと繋がった。

<楽々森彦の後裔氏族>
「岡山文庫・吉備津神社」(藤井 駿著 1973年
日本文教出版)は、有力な手がかりを与えてくれた。

「明治5年、小田県庁に社家が提出した系譜による
と、当時はほとんどの藤井家は、その家祖を大吉備
津彦命の山陽道平定のとき勲功のあった、備中国
の土豪の神、楽々森彦命としるしている」(148頁)

すなわち、藤井氏には、大中臣姓あるいは賀陽姓
を名乗る人たちもいるが、もともとは楽々森彦の後
裔だというのだ。

備前一宮吉備津彦神社の公式HP桃太郎さんの
頁にも、「楽々森彦命 吉備津彦命の軍師的存在
子孫は現在の高塚家・藤井家といわれる」とある。

<藤井氏の本姓>
いつもお世話になる、太田亨氏の姓氏家系大辞典
によれば、藤井(フヂヰ)氏は、
①藤井宿禰  百済族にして前条葛井宿禰に同じ
かるらし。
②藤井連 前条葛井連に同じきか。
  (葛井連:百済族にして、河内国藤井より起こる。
   百済辰孫王の後。白猪史から葛井連を改めて
   賜う。のち宿禰)
③賀陽姓 備中の名族にして、吉備津宮の社家也。
④小野姓 これも備中の豪族にして、小野朝臣好古
の裔という。
 (藤原純友征伐の功により、備前守のち太宰大弐。
  参議に任ぜられ備中守を兼ねる)

(ブログ筆者コメント)
いずれの説明も、楽々森彦の本姓には該当しない
ように感じられる。
百済辰孫王は、応神朝に来朝した人物。
養子縁組等により賀陽姓の藤井氏が生まれるのは、
楽々森彦の時代より後のこと。
また、小野好古が藤原純友を征討したのは10世紀。

そこで、必殺技の、分布地図の解析に取りかかった。

<藤井氏の姓氏ランキング>
①全国ランキング(最近のデータ)
1位 広島県  5400件
2位 山口県  4900件
3位 大阪府  4200件
4位 兵庫県  4100件
5位 岡山県  3400件
6位 愛知県  2800件

②九州ランキング
1位 福岡県  1900件
2位 熊本県   500件
3位 大分県   380件
4位 佐賀県   350件
5位 鹿児島県  340件
6位 宮崎県   260件
7位 長崎県   260件
8位 沖縄県    30件

(ブログ筆者コメント)
・広島県のデータのうち、福山市は2900件と巨大。
備後国エリアなので、岡山県に加えると6300件で、
吉備国が1位となる。

・九州は、福岡県を除くと少ないが、阿蘇市に25件
あり注目される。
・島根県は800件あり。

<吉備国エリアの藤井氏分布図>
109話藤井氏分布図

吉備国エリアの藤井氏を、市町村別に件数を示
すると、備前には少なく、備中、備後と西部ほど
多い。
朱丸は、姓氏ランキング2位以内の市町村であり、
福山、井原、笠岡市付近の分布密度が高いことが
わかる。

<岡山市北区・総社市付近の藤井・高塚氏分布図>
109話岡山市北区藤井氏分布上
109話岡山市北区藤井氏分布下

この図は、
・楽々森彦の出身地と見られる、吉備中央町(旧賀
陽町)吉川や岡山市北区下高田
・温羅との戦場となった足守
・吉備津彦命や楽々森彦が祀られる吉備津神社
附近の、藤井氏と高塚氏の分布をプロットしたもの。
(37年前のデータを基に作成)

藤井氏は、総社市(旧清音町軽部)や吉備中山付近
に集中しておられる。

備中誌が記す、吉川には1件のみ。
他に吉川におられるのは、難波氏32件、河内氏
12件、藤原氏4件、吉川氏3件。
河内直は、新羅よりの行動を取っているとして、
百済聖明王から激しく非難を受けた親新羅派。

足守や高田付近にも、各1件のみと少ない。
大功をたてた楽々森彦は、いったいどこに領地を
賜ったのだろうか。
新しい領地に、移って行ったのだろうか。

楽々森彦の謎ときは壁にあたり、暫くうろうろした。
今秋の京都鷹峯への旅行計画を立てかけたとき、
上賀茂神社が思い浮かんだ。

そして、京都上賀茂神社、葛城市葛木御縣神社、
松江市熊野神社、出雲市出雲大社に藤井氏を
追い始めたとき、謎が解けたと感じた。  (続く)

第一〇八話 楯築弥生墳丘墓の被葬者

<岩倉神社に立ち寄る>
108話岩倉

楯築遺跡に向かう前に、南の岩倉神社に参拝した。

この神社の祭神は、温羅との戦いの時に、船で軍糧
を運んだ伊狭穂。
功により、大稲船命の名を賜った。

神社正面(東方)の足守川西岸には、難波氏31件。
(37年前のデータ、以下同じ)
神社の背後(西方)には、内田氏(物部氏族)10件。

伊狭穂とは、難波氏の祖なのだろうと想像しながら、
東方に横たわる吉備中山を眺めた。

難波氏の謎については、次々回「難波氏の本当の
主人(仮題)」で書く予定。

<楯築遺跡に登る>

108話楯築1

108話楯築2

円丘部に登り、最初に確かめたことは、造山古墳が
見えるかどうか。
見えないのは、造山古墳(吉備氏)と楯築弥生墳丘
墓の被葬者間に、血のつながりがないのだと思う。

<墳丘墓前方部の指す角度>
同墳丘墓は、直径40mの円丘に、北東に約14m、
南西に約20mの前方部がついていたとされる。

北東前方部の指す推定角度は、N35度Eで、諸資
料が一致する。

南西前方部の指す角度は、N155度W又はN165
度W。
資料により計測値に差が生じる。
(注)南西前方部は、第二主体部の造営時に作られ
たもので、第一主体部の造営時は、前方後円墳で
あったとする説がある。
(「倉敷市楯築遺跡の検討」丸山竜平氏2006年)

<北東前方部の指すN35度Eに、何があるのか>
①石上布都魂神社(現岡山県赤磐市石上)
スサノオ命が、八岐大蛇を斬った神剣十握剣が
最初に祀られた神社。

同神社の本殿は、N70度Wを背としており、島根
県太田市を向いている。

②宗形神社(現岡山県赤磐市是里 旧山方村)
仁徳天皇が、吉備海部直氏出身の妃、黒比売を
追いかけてきて、饗応を受けた山方の地との由緒
が残る神社。

同神社の本殿は、N85度Wを背としており、金官
加羅国の金海を向いている。

この二つの神社を、北東前方部は指していた。

<第一主体部の指す角度>
円丘の中心にある第一主体部の被葬者は、頭部
を南東に、脚部を北西に向けて埋葬されていた。

近藤義郎氏の著「楯築弥生墳丘墓」(2002年吉備
人出版)37ページ掲載の、図15副葬品出土状況に
基づき計測すると、N35度Wを指す。

前方部がN35度E、主棺の脚部がN35度W。

<北西N35度Wの線上に、何があるのか>
総社市東阿曾の血吸川東岸には、武田氏の大集団
(26件)。
その先は、出雲国。

東阿曾の手前、足守川西岸には庚申山。
その山の南麓に、いつも海部尾張氏の側にいる岸本
氏が、東西に13件連なる。

庚申山の東、足守川東岸の高塚からは、銅鐸の他、
中国新王朝(1世紀)時代の青銅貨、貨泉が25枚
も出土した。

高塚付近におられるのは、内田氏10件、高塚氏
(楽楽森彦後裔)11件、野上氏7件、難波氏6件。

野上氏は、第九十七話「女王卑弥呼のサバイバル
外交」に書いたとおり、女王卑弥呼が遣使した、
魏国の曹操の後裔で、魏滅亡後に、倭国に亡命
してきたと見る人たち。

野上氏は、石上布都魂神社近くにも、神官の物部
氏と共に集まっておられる。

<ブログ筆者の結論>
楯築墳丘墓が築造されたのは、西暦200年頃。
倭国女王卑弥呼の時代。

前方部や主体部の指す方向から判断すれば、
被葬者は、スサノオ命及び宗像媛の血を受けた、
海部尾張氏出身の女性となる。

何者も寄せ付けないように、大量の朱の海に
静かに沈んでおられた。


第一〇七話 温羅は百済の王子か

岡山を旅行中に、一冊の絵本をいただいた。

「おかやま桃太郎ものがたり・吉備津彦と温羅」
(阿村礼子作、夏目尚吾絵 2012年岡山市)

吉備津彦命に討たれた鬼は、名前を温羅と言い、
百済国王子であったと書いている。

ネットで、温羅の本名を検索すると、百田大兄命
と言い、吉備津彦命妃となった百田弓矢比売命
の父であり、足守川上流の大井神社に祀られて
いるとあった。

しかし、ネット上には、この説を否定して、百田氏
は吉備津彦命に協力したとする説も見られた。

今に残る、吉備津神社縁起等によると、温羅は、
足守川上流の、足守、大井地区を地盤として、
総社市西阿曽(妻の出身地)も支配したらしい。

足守には、的場を築いていたというから、弓矢の
名手であったに違いない。

多くの縁起は、吉備津彦命の妃として、百田弓矢
比売命を載せる。
しかし、温羅の娘だと明言したものは、ほとんど
ないように思われる。

温羅は百済国の王子だったのか。
本姓は百田氏なのか。
その謎解きに出発した。

<大井神社を囲む人たち>
次図は、岡山市北区大井神社の周辺図。

107話大井神社周辺図

①御船(みふね)氏
神社に最も近い場所に集まっておられる。
太田亨氏は、御船氏を、「百済族にして船連の後也。
百済貴主王より出ず」とする。
百済王族だ。

御船氏は、岡山県の57件が1位で、大井神社周辺
が最多。
祭神の百田大兄命と、囲む御船さん達とは、縁があ
るに違いないが、そのつながりは何だろうか。

②熱田(あつた)氏
島根県雲南市加茂町の岩倉遺跡。
出雲神宝の銅鐸が、大量に埋納されていた聖地。

その周辺にあって、封印しているのが熱田氏。
同じ熱田氏が、ここにもおられる。

③中田氏
吉備津彦命の家来で、雉として従軍した後裔が
中田氏。

④犬飼氏
吉備津彦命の家来で、犬として従軍した後裔が
犬飼氏。

⑤小田氏
第一〇五話に書いたとおり、南さつま市から、にに
ぎ命の後裔に随った、大和朝廷の軍勢。
難波における小田氏の拠点は、堺市浜寺にあった。

⑥守屋氏
雄略朝に、謀反を理由に、吉備氏を制圧した物部本
宗家の軍勢と見る。

⑦萱野(かやの)氏
吉備津彦命の後裔。加夜国造の一族。

⑧藤井氏
備中国一宮吉備津神社の神官。

こうして見ていくと、大井の地は、大和朝廷の勢力
により、ほぼ包囲されている様子だ。

<百田氏がおられない>
大井地区には、百田氏がおられない。
南方の足守、吉備高松、総社の東阿曽、西阿曽に
もおられない。

百田氏が、吉備津彦命に協力した勢力であれば、
当然おられるはずだ。
おられないのは、敵対勢力となった証拠と見る。

<百田氏と武田氏>
古代吉備の激戦の舞台となった、足守川沿いに、
河口に向かって、百田氏を探した。
30年前のデータでは、見つけることができなかった。

42年前のデータを追いかけていたとき、発見できた。

足守川西岸。
現在の岡山市北区撫川。
難波氏の大集団(26件)に囲まれて、「武田・百田」
と記した家があった。

「やっぱりそうだったか」
古代吉備の謎を握るのは、武田、百田、難波、藤井
氏ではないか、という仮説が、少しずつ証明され、謎
が解けていく。

武田氏は、足守川沿いの足守と、総社市東阿曽に、
大集団がある。

西日本の武田氏は、海部尾張氏と考えて良いと思う。
この古代の名門氏族が、どうして温羅の支配地に集
団でおられるのか。
それが前からの疑問だった。

吉備津彦命と共に攻め込んだのであれば、活躍が
伝わるはずだ。
武田さん達は、すでにそこにおられたと見る。

温羅は、吉備首長であった海部尾張氏の特別軍事
顧問として、城を築いたり、兵を訓練していたのでは
ないだろうか。

そして、大和の長スネ彦と同じように、国譲りに抵抗
し、吉備王国に殉じたのではないか。

全国の百田氏の調査では、次の発見があった。

①和歌山県橋本市隅田
紀ノ川上流。
隅田八幡宮所蔵の銅鏡は、百済国武寧王が、継体
天皇に贈ったと見られている鏡。
隅田八幡宮を囲んで、百田氏5件と武田氏4件が
おられる。(42年前のデータ)
百田氏が、百済国と無縁とは思われない。

②福井県若狭町
武田氏28件が集中するこの町に、百田氏51件が
集中する。

<邪馬台国時代の倭国の主役は武田氏>
次表は、武田氏の西日本ランキング。
(最近のデータ)
1位 愛媛県  1285件
2位 大阪府  1256件
3位 兵庫県   991件
4位 福岡県   738件

愛媛県の一位は、予想できただろうか。
それも、愛媛県の西海岸に集中する。
それは、邪馬台国時代の二代目女王が、ここに
移ったからだと見ている。

特に西予市には、武田氏55件と共に、宇都宮氏
591件、井関氏95件が注目される。
井関氏は、女王が遣使した大夫の後裔と見る。

<御船氏の祖、貴須王と温羅>
温羅の名は、百済国始祖の温祚王の「温」と、国を
表す「羅」を組み合わせたものか。
「百済国」と名乗るようなものだ。

御船氏の祖については、文献資料がそろっている。
続日本紀延暦9年(790年)の条。
百済王一族の上表文に、「応神朝、百済に人を求め
た時、百済王貴須王の孫、辰孫王が、倭国に派遣さ
れた。
辰孫王は、皇太子の師となり、その子孫は、葛井、
船氏等となった」とある。

ここに登場した貴須王は、百済国13代王。
しかし、6代王も、貴須王と呼ばれていた。
在位は、214年~234年。
倭国女王卑弥呼の時代だ。

大和朝廷が誕生する前、大和のみならず、丹波、
吉備、北陸には、出雲族と手を結んだ、海部尾張
氏を首長とする国があったと見ている。

その力の源泉は、伽耶諸国にあったと推定する。
丹波にも吉備にも、かやの地名が今に残る。

百済国と倭国が国交を開いたのは、神功皇后の
時代とされる。
馬韓の統一に向けて、勃興していた百済国が、
それ以前から伽耶諸国と国交を通じていたのは、
間違いない。

百済が、いまは温羅と呼ばれる王子を、倭国の
有力勢力、海部尾張氏の本国に派遣したのは、
国の存亡をかけた、工作であったと見る。

雄略紀8年に、任那王は、高句麗軍の攻撃を受け
た新羅王の要請に応じ、膳臣、吉備臣、難波吉士
を救援させている。

膳臣の本拠は若狭。吉備臣と難波吉士の本拠は
吉備だ。
海部尾張氏の持っていた、伽耶利権が、安倍氏
と吉備氏に受け継がれたと見てよいのか。


第一〇六話 吉備津神社付近、かや姓を見ず

<宇賀神社から見た吉備津神社本殿 2015年6月撮影>
106話吉備津神社写真 (380285)

<吉備津神社付近、かや姓を見ず>
次図は、備中一宮吉備津神社の周辺図。

106話吉備津神社周辺図
106話吉備津神社周辺図2

吉備津神社は、古代加夜国造後裔の賀陽氏が、
神官として、世襲で祀ってきたところ。

岡山市及び総社市における、「かや」の付く姓氏を
調べたところ、賀陽、茅野、茅原、栢野、萱野、萱原、
仮谷、仮屋、狩屋、狩屋などの名前が見受けられる。
しかし、備中一宮吉備津神社付近には、全くおられ
なかった。

<賀陽氏4家は、江戸中期に、追放処分を受けた>
江戸時代の享保年間、社家頭を務めていた4家の
賀陽氏は、幕府寺社奉行から追放処分を受けた。

後任に任じられたのは、藤井氏3家と堀家氏2家で
あり、藤井氏が神主家となった。

<武家医者撲殺事件>
追放原因となった事件のあらましは、次のとおり。
(岡山県古文書集第2輯 藤井駿・水野恭一郎編
1981年 思文閣出版掲載の吉備津神社文書を、
ブログ筆者の解釈でまとめたもの)

享保元年、社家頭の一人、賀陽主馬は、当地に移り
住んで来た医者、内藤元閑の治療を受けた。

治療代として銀3枚を渡したところ、不足を云い立腹
したので、金3両と酒を渡して、ようやく治まった。

後日、使いを遣り、暫く薬を止めてほしいと伝えた。
すると、また立腹し、「薬を止めるかどうかは医者が
決めること。医者に恥をかかせた。討ち果たす」と
云い、主馬宅に押し掛けてきた。

その日は、目標の人物が不在だったため、「明日、
命を取る」と言って帰った。

この乱暴者をどうするか、社家頭が集まり相談した
結果、召し捕えることとし、社領の者6人に命じた。
暴れた場合は、棒を用いてもよいことにした。

召捕りに行くと騒動になり、相手は刀を抜いてきた。
他の社領の者たちが加勢して、武家の医者を撲殺
してしまった。

この事件について、幕府寺社奉行所により、取り調
べが行われた。
奉行所の下した判決は、社家頭全員の、この地から
の追放という重い処分であった。

<正宮に、吉備武彦命が祀られていない>
吉備津神社の創建者については、諸説がある。
そのうち、有力視されているのは、五世孫加夜臣奈
留美命が社殿を造営したとする説。

加夜臣の祖は、御友別命の次子、仲彦命とされる。
その仲彦命は、若建吉備津彦命、御友別命(父)と
並び、正宮(本殿)の相殿に祀られている。

これに対し、仲彦命の兄、稲速別命(下道臣)と弟の
弟彦命(御野臣)は、中陣西隅に祀られるに留まる。
これが、加夜臣創建説が有力な理由だ。

しかし、謎が一つある。
仲彦命の祖父、吉備武彦命が、正宮に祀られていな
いことだ。

日本武尊の副将として活躍し、吉備氏族の基礎を固
めたこの人物が、なぜ正宮に祀られていないのか。

その謎がようやく解けたように思う。
考えられることは二つ。
①すでに別に社を設けて祀っていた。
②吉備津神社正宮の、拝殿から拝む先に社がある。

新宮と内宮は、明治時代末に、本宮に合祀されたが、
それまで、新宮に吉備武彦命が祀られていた。
その位置は、正宮の向くN175度Wの線上にあった。
すなわち、日々、正宮拝殿から拝むことができた。

奈良時代以前の古代には、新宮まで回廊が続いて
おり、神官が出向き祈っていたと思われる。

新宮は、尾上車山古墳(2期)と造山古墳(5期)を結
ぶ直線上にあった。
すなわち、神官は、新宮において、吉備武彦の古墳を
向き、拝礼していたと思われる。
参考になるのは、次の一文。

「岡山文庫 吉備津神社」(藤井 駿著 1973年
日本文教出版)の130頁には、「江戸時代を通じ、
新宮社の祭祀だけは、吉備津宮の神官によって
行われた」とある。

<賀陽氏は平安末期に吉備津宮近くに移住した>
平安時代末期まで、賀陽氏は、吉備津神社近くに
住居を構えていなかった可能性がある。

先述の「岡山県古文書集第2輯」の一文。
「賀陽氏は、・・・寛平の頃には、その本宗は備中国
賀夜郡足守郷(現在の足守町にあたる。吉備津神社
の北方二里である)に住んだが、その一族のもの
吉備津宮に奉仕し、少なくも平安朝末期には、その
神官としての賀陽氏は、吉備津宮の附近に移住した
ものと推定される」

平安朝初期には、封戸20戸を持つだけだったが、
平安朝末期には、板倉郷、庭瀬郷、撫川郷の3郷を、
社領として支配したらしい。
国司・郡司による律令政治の弱体化と、武士の台頭
に対処するため、近くに移住して直接管理する必要
が生じたのだろうか。

堀を巡らせた、賀陽氏の居館跡は、岡山市北区川入
に残る。
この館の位置は、尾上車山古墳、新宮、造山古墳を
結ぶ直線上にある。
賀陽氏の神官一族は、祖先である吉備武彦命と御
友別命に、守られるように暮らしていた。

<賀陽氏の本貫地>
賀陽氏の本貫地について、先述の「岡山文庫・吉備
津神社」は、賀夜郡足守郷に住んだと記す。

37年前のデータによると、足守町の大井を中心に、
15件の萱野(かやの)さんがおられる。
仲彦命の後裔が、賀陽臣と上道臣が分かれる前、
ここが最初の本貫地であったと見る。

百田、弓矢の他に、田狭(たさ)の地名があるからだ。
上道臣田狭の名前は、ここに由来すると思う。

賀陽氏は、賀陽豊年などが中央に出仕し、また賀夜
郡大領等の地位に付いた頃、総社市久米に本貫地
を移したと見る。
ここには、栢野(かやの)さん22件が集中する。
(37年前のデータ)

吉備武彦命を祀る古郡(ふるこおり)神社は、現在、
総社市西山に小祠が残る。
古郡神社は、賀夜国造が居住した地という伝承が
ある。

しかし、江戸時代末期に、領主の足守藩の命令で
現在地に移る以前は、久米の御崎神社にあった。

久米の栢野さんたちが、自分たちの土地で、祖先の
吉備武彦命を祀っていた。
そして、久米と西山の中間に、備中国府はあった。


第一〇五話 笠狭宮を守っていた小田・内田さん

前話では、古代備中国英賀郡の主役が、小田氏で
あったと書いた。
また、小田氏は、物部氏族あるいは吉備氏族である
とする説を紹介した。

小田氏は、もともと、どんな人たちなのだろうか。

この答えは、薩摩半島の南さつま市(旧加世田市・
金峰町・笠沙町・坊津町)にあった。

次図は、「第八十九話 素都乃奈美留命」に載せた
図に、小田・織田・内田氏を書きくわえた図。

105話南さつま市の小田さん等分布図

第八十九話では、崇神朝に、高志深江国造に任じ
られた素都乃奈美留命が、本姓は瀬戸さんであり、
ニニギ命とその後裔の側近であったことを解明した
つもりだ。

小田・内田氏も、瀬戸氏と同様、ニニギ命の笠狭宮
を守っていた。

小田・内田氏もまた、ニニギ命とその後裔に随って、
薩摩半島を出発し、列島各地から半島にまで従軍し
た人たちであると、ブログ筆者は見た。

「第一〇二話 高祖さんと三島・大神さん」に載せた
糸島市高祖・三雲付近図。
ここでも、高祖神社近くに、内田さん達が集まって
おられた。
高祖は、ニニギ命あるいはその後裔を意味する
らしいとわかった。

さらに、冒頭の、南さつま市の図には記載していな
いが、37年前には、加世田市村原の内田さん6件
の近くに、高倉さん1件と小田さん1件がおられた。

すぐ近くに、高曽大神社があった。
今は移転して名前も高倉大神社と変わっている。
高祖のもとは、高曽であったようだ。

瀬戸氏は、二つの国造に任じられた。
生駒氏は、主君であるニギハヤヒ命と姻戚関係に
入り、物部氏族として、大和王権の重臣の地位を
得た。

吉備制圧に活躍したと見る、小田・内田氏は、国造
の地位を得たのか。
ブログ筆者は、これはなかったと見る。

内田氏は、物部氏の配下に留まり、その後も、神功
皇后の戦いに参加して、九州で勢力を広げた。

若建吉備津彦と共に、温羅と戦った小田氏の一部は、
吉備氏の配下となった。

これが、小田氏について、物部氏族あるいは吉備氏
族と言われた原因であった。


小田・内田氏が、物部氏の配下であった証拠を、一つ
示したい。

次図は、愛知県内で、鈴木姓(物部氏族)が、ランキ
ング一位の市町村を色塗りした図。
三河国造(物部氏)の勢力圏と、合致していると思う。

105話鈴木姓ランキング1位市町村

蒲郡市の小田さんは、愛知県内一位の447件。
(二位は、名古屋市119件)
岡崎市の内田さんは、愛知県内二位の280件。
小田・内田氏は、物部氏と行動を共にしていたと
わかる。


プロフィール

ツルギネ

Author:ツルギネ
FC2剣根ブログへようこそ!
溝咋神社境内
(2017年5月撮影)

見やすいように、150%に
拡大してお読みください。

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